第2話 王家の牧
五
東山道へ入ってから、道は長くなった。いや、長いのではない。切れ目なく続くものになった。
鹿嶋の地では、道は土地のうちにある。だがここでは、道そのものが人を運び、人を分け、人をつないでいた。川瀬はその道を知っていた。どこで水を取るか、どこで馬を休ませるか、どの里で声をかければ戸が開くか、それを初めから決めていたように見えた。
鎌足は二日目の夕れ、初めてそれに気づいた。
ある小さな駅家めいたところで、一行が着く前に水と飼葉が用意されていたのである。川瀬は礼を言わない。頼んでもいないという顔で受け取った。受け取ることまで、あらかじめ決まっていたかのようであった。
さらに次の日、上毛野へ入る手前で、三騎と荷駄二つが一行に加わった。男たちは川瀬にだけ頭を下げ、鎌足には目礼するにとどめた。その荷の中には、矢束と干し肉と、新しい腹帯があった。
鎌足は馬を寄せて、川瀬に並んだ。
また増えたな
減らぬようにするためにございます
河内まで行くだけではないのか
河内まで行くためにございます
鎌足はそれ以上は問わなかった。
その夜、火のそばで、渡来人のひとりが半島ことばで何か言った。鎌足には半ばほど分かった。信濃でさらに受け取る、という意味のことばが混じっていた。
受け取る。
何を。
馬か。兵か。両方か。
鎌足は火を見つめた。炎は細く、風に揺れた。鹿嶋を発ったときから、自分は何かのただ中にいる。そう思っていた。いまでは、その何かが、道の先で待っているのだと分かりはじめていた。
火の向こうで川瀬は黙っていた。黙っていたが、眠ってはいなかった。時折、火から目を上げ、馬の繋がれた闇の方を見る。その横顔は、眠る者の横顔ではなかった。
この人は、どこまで知っているのだろう。
鎌足はふと思った。
だが、知っていたとしても言わぬ人であることも、すでに分かりはじめていた。
六
信濃に入ってから、風の冷たさが変わった。
山の風であると、鎌足は思った。鹿嶋の風は、海の湿りを含んで重い。ここへ来る風は、乾いていて、頬にあたると薄く切るようであった。
一行は、東山道から少し外れた道を折れた。道の先に、ひらけた草地が見えた。柵があり、その向こうに馬がいた。数が多い。遠目にも、ただの里の馬ではないことが分かった。
川瀬は馬を寄せると、ようやく言った。
望月の牧にございます
鎌足は前を見た。草地は広く、柵は二重にめぐらされていた。人もいる。柵の内を歩く者、馬を引く者、帳のようなものの前で板札を改める者。どれも忙しげであるのに、無駄な声は立っていなかった。
ただの牧ではないな
鎌足が言うと、川瀬はうなずいた。
ただの牧ではございませぬ
望月の牧は、在地豪族の私牧ではない。王家直轄の拠点であった。王権にとって、馬は単なる家畜ではない。移動手段であり、軍事力であり、威儀の一部でもある。ここは、王家の軍馬を支える牧である。
一行が柵の前に近づくと、向こうから男が二人出てきた。ひとりは年かさで、衣は質素だが、立ち方にゆるみがない。もうひとりは若く、札と筆を持っていた。
年かさの男は、川瀬を見ると、目だけで合図した。
鹿嶋よりの一行か
さようにございます
遅れはないな
ございませぬ
男の視線が、鎌足へ移った。子どもを見る目ではなかった。数の一つを確かめるような目であった。
その方か
川瀬が答えた。
さようにございます
男はそれ以上は問わなかった。若い方に札を渡させ、荷と馬と人数を改めさせた。鎌足は黙って見ていた。名を聞かれれば答えようと思ったが、ついに問われなかった。
柵の内には、鹿嶋から曳いてきた馬とは別の馬がいた。背が高いものが多い。だが、ただ大きいのではない。耳の向け方が違う。人が脇を走っても騒がず、鞭の音がしても、むやみに首を振らぬ。人を背に乗せ、人の意に沿って動くことを、骨の髄まで仕込まれた馬であった。
鎌足は見入った。鹿嶋から連れてきた馬もよく馴れていた。だが、ここの馬はさらに違った。まるで、人が乗ることを嫌うということを、最初から忘れさせられているようであった。
あれも、みな乗れるのか
乗れます
川瀬は短く言った。
曳かせるためではなく、人を乗せるための馬でございます
しばらくして、川瀬は年かさの男とともに、柵の奥の小屋へ入っていった。鎌足は外に残された。風が草を鳴らしていた。遠くで、馬のいななきが重なった。
待たされることは、鎌足は嫌いではなかった。待たされるとき、人はよく口を滑らせる。
果たして、小屋の脇で札を束ねていた若い男が、もうひとりの者に小声で言った。
これで数は揃うな
揃う。王家の牧よりこれだけ出せば、宗家も顔が立つ
大臣にも異はないと聞いた
若い男は、そこで声を落とした。だが、鎌足の耳には入った。
大王の内意あり。大臣も異を唱えず。さればこそだ
鎌足は顔を上げた。
大王。
大臣。
宗家。
その三つが、ひとつのこととして語られていた。
やがて川瀬が戻ってきた。顔色は変わらぬ。だが、その後ろには先ほどまでいなかった男たちが八十ばかりついていた。革の匂いがした。槍も、弓も、すでに持っている。
ここで増やすのか
はい
牧の馬だけではございませぬ。ここより先の道に要るだけのものを、ここで整えます
宗家のためにか
さようにございます
宗家は、大王家の牧を使えるのか
使うのではございませぬ
では、何だ
お預かりするのにございます
誰から
川瀬は声を低くした。
大王の御意により
それだけ言って、さらに続けた。
嶋大臣にも、すでに話は通っております
鎌足は息を止めた。
嶋大臣。
鹿嶋にいても、その名の重さは知っている。蘇我本宗家の長である。
なぜ、そこまでして
上宮皇子が薨ったゆえでございます
川瀬は今度は隠さなかった。
皇子が薨られた。されば、備えねばなりませぬ。宗家もまた、備えを要します
備え
はい
馬を備え、人を備え、道を備える。そのためにございます
鎌足はそのことばをのみこんだ。
自分は河内へ呼ばれた。
それは変わらない。
だが、それだけではない。
鹿嶋を出るとき、庭にあった馬と槍と盾。あれらはただの護りではなかった。道の途中で荷が増え、人が加わった。望月に来て、さらに増える。王家の牧から馬が出る。兵が加わる。そこには、大王の意があり、大臣の意もある。そして、それを形にする手がある。
川瀬もまた、その手のうちの一つであろう。
鎌足にすべての筋がわかるはずもない。
だが、一つだけ分かったことがある。
自分は、ただ養われるために行くのではない。
河内へ向かう道そのものが、すでに政の道であった。




