第11話 雨来る第11話 雨来る
十七
数日後、国子が小墾田宮へ入った。
その日は朝から空が低かった。雨はまだ落ちていない。だが、宮の甍の上にかかる雲が重く、庭の土も、すでに湿りを含んでいるように見えた。
国子は、枚岡で見たときと同じく、静かな足取りで上がってきた。
御食子と少し似ている、と鎌足は思った。御食子の実の弟であるから、当然ではある。似ているのは、顔立ちではない。人を見るとき、真正面から見ず、その人の後ろにあるものまで量るように見る、その目つきが似ていた。
ただ、似ていても、同じではない。
御食子の目は、相手の手を止めるために見る。
国子の目は、相手の手がどこまで伸びるかを見る。
その違いを、鎌足はまだはっきりとは言えなかった。だが、見れば何となく分かった。
国子は、上がるなり深く礼をした。
兄者
何だ
外が、内を待たなくなってまいりました
御食子は、それを聞いても顔色を変えなかった。
内が、外を待たせておるのだ
国子は、かすかに目を細めた。
ならば、その待たせ方にも限りがございます
鎌足は板敷の端に控えていた。ここへいてよいと言われたわけではない。だが、退けとも言われていない。そういうときは、そこにいて聞けということである。ただし、口は持っていてはならぬ。
国子の前には、すでにいくつかの簡が置かれていた。
難波からの簡。
河内からの簡。
半島より戻った者の報を写した簡。
そして、信濃の牧からの簡である。
国子が、その一つを指で押さえた。
津が惜しいのではありませぬ
御食子は黙っていた。
工人が惜しい。鉄が惜しい。馬飼が惜しい。船を動かす手が惜しい。海の向こうへ出入りする、その道筋が惜しいのです
分かっておる
御食子は低く言った。
ならば
国子はそこで少し言葉を切った。
待っておれば、向こうの手が先に根を下ろします
兵を出せば、こちらの根が抜ける
御食子は、少しも急がなかった。
兵を出さずとも、備えは要ります
備えなら、すでにしておる
御座の守りも厚くした。道もつなぎ直しておる。望月も、河内も、難波も、まだこちらの手で見ておる
まだ、にございます
国子は答えた。
御食子の目が、そこでわずかに動いた。
まだ、か
さようにございます
国子の声は低かった。だが、押し返す力があった。
まだこちらの手にある、と思うておるうちに、向こうは人を取り、船を取り、工人を取り、気づけば道そのものを取りましょう。細りながら続く道ほど、後から奪い返しにくいものはございませぬ
鎌足は、その言葉が御食子の、
細りながら続く方が怖ろしい
ということばとぴたり重なるのを聞いていた。
つまり、二人は見ているものは同じなのである。
違うのは、その同じものを前にして、どれほど急ぐかだけであった。
急げばよいとは限らぬ
御食子は簡を見下ろしたまま言った。
急がねば失うこともございます
国子は一歩も退かなかった。
沈黙が下りた。
庭の向こうで、遠く一度だけ馬が鼻を鳴らした。すぐ後に、川瀬の低い声がして、その音はやんだ。川瀬は今日も宮の外を見ているのであろう。内では御食子と国子がことばで争い、外では川瀬が人と馬と荷の置きどころを争わせぬよう見ている。そのことが、鎌足にはだんだん分かるようになってきていた。
やがて御食子が言った。
国子
は
兵を出せとは申しておりませぬ
では、何だ
内を定めよ、と申しております
鎌足は息をひそめた。
とうとうそこへ来た、と思った。
半島の道の話をしているようでいて、国子は最初から、もう一つ先を見ていたのである。外の道が細るなら、内の朝をもっと固めねばならぬ。もっと固めるとは、すなわち日嗣の不定をこのままにしておくな、ということにほかならなかった。
しかもそのことばは、山背皇子の松影の下の姿を見て戻った鎌足の胸に、いっそう重く落ちた。
誰を立てるのか。
その問いは、ひとりを選ぶということではないらしかった。ある名を立てるとは、その人のうしろにある血も、期待も、怖れも、惜しさも、まとめて前へ出すことなのだと、鎌足はようやく感じはじめていた。
御食子は、すぐには答えなかった。
国子は続けた。
今の御座があるうちは、誰もが一歩退きます。されど、御座があるからこそ、皆がなお待っておれるのです。その待ちが長すぎれば、外では道が痩せ、内では心が痩せます。どちらも痩せれば、いざ立てるべき時に、立てる手が残りませぬ
誰を立てる
御食子は言った。
国子は、少しだけ目を伏せた。
それを、今すぐここで申すべきではございませぬ
逃げたか
逃げてはおりませぬ
申せば、その名のまわりで皆が動き出します。いまはそれを避けたい。されど、避けながらも、内に次のかたちだけは作っておかねばならぬと申しておるのです
鎌足は、その言い方に、御食子に似たものを感じた。肝心な名を口の外へ出さぬ。だが、言っていることの骨は明らかである。
御食子は低く問うた。
山背か。田村か
国子は答えなかった。
答えぬのか
いま答えれば、その答えが先に走ります
御食子はそこで、小さく息を吐いた。
よいように言う
されど本心にございます
国子はそこで初めて、わずかに声の調子を変えた。
外の道を守るにも、内の不定を限りなく延ばすことはできませぬ。皆が待っておれると思うております。されど、待つにも力が要る。いまは、その力そのものが痩せております
このとき鎌足は、国子がただ理を言っているのではないと気づいた。焦っているのである。外の細りを見すぎた者の焦りであった。まだ誰の名も口にはせぬ。だが、何かが間に合わぬかもしれぬと感じている顔であった。
御食子は、そのとき初めて鎌足の方を見た。いや、見たように見えただけかもしれぬ。だが鎌足には、その視線の先に、自分もまた含まれている気がした。
上宮の家を立てれば、朝は保つと思うか
国子は少し間を置いた。
保つとは申しますまい
では、田村を立てれば保つか
それもまた、申せませぬ
御食子は、かすかにうなずいた。
結局は、そこだ
国子は退かなかった。
だからこそ、なお申すのです。決めぬことで保てる朝にも、限りがございます
鎌足は、その言葉が重く響くのを感じた。
決めぬことが政である。
それは御食子が繰り返し示してきたことである。
だが、決めぬままでいつまで保てるのか。
国子は、その限りを見ていた。
御食子は庭の方を見た。
雨が来る
そう申しましょう
国子は答えた。
まだ落ちぬうちに、屋根を見ねばなりませぬ
その言い方で、鎌足には、国子がただ急いているのではなく、本当に朝を案じているのだと分かった。御食子と違うのは、急ぐことを恐れぬだけである。
そのとき、外から川瀬が来た。
戸口の脇で膝をつく。
何だ
難波より追って簡が届きました
川瀬は中へは入らなかった。だが、その短い一言で、ここにいる全員が、話していることと外の道が、なお続いている同じ流れの上にあることを思い出した。
御食子が受け取れ、と命ずると、簡はすぐ内へ渡された。
国子はその簡を見ていない。だが、見ぬまま言った。
こうしているあいだにも、外は動きます
御食子は、簡をひらいた。ひらいたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて川瀬に向かって言った。
外で待て
は
川瀬はすぐに退いた。
国子は、御食子の顔色を見た。
どうでございます
御食子は、簡を伏せた。
悪くはない
よいわけでもない、か
よいわけではない
御食子は言った。
悪くはない。
よいわけでもない。
道が残っているからこそ、なお厄介なのだ。
国子は深く頭を下げた。
兄者
何だ
いずれ、どちらかを申さねばならぬ日が参ります
御食子は答えなかった。
その日が来たとき、外の道も、内の御座も、どちらも痩せておれば、朝は一つにまとまりませぬ
分かっておる
御食子は静かに言った。
ならば
分かっておるから、いま急がぬのだ
国子は、そこで初めて沈黙した。
その沈黙は、納得ではない。これ以上は押しても動かぬと知った沈黙であった。
しばらくして、国子は立った。
では、わたくしは外の手を厚くしておきます
御食子はうなずいた。
せよ
国子は去った。
板敷には、急に広い静けさが残った。
その静けさの中で、御食子はしばらく動かなかった。簡を前に置いたまま、ただ庭の重い空を見ていた。
やがて言った。
鎌足
は
聞いていたな
少し
それでよい
御食子は言った。
外の道が細れば、内を固めよという声が強くなる。内が定まらねば、外を守れぬという声もまた、強くなる。どちらも誤りではない
では、どちらが正しいのでございます
御食子は、少しだけ間を置いた。
その問いを急ぐ者が、たいてい朝を壊す
鎌足は黙った。
国子は誤ってはおらぬ。されど、正しいことを急いで言えば、その正しさが人を動かしすぎることがある
鎌足には、その言葉がすぐには分からなかった。だが、分からぬまま、深く覚えておかねばならぬ言葉であることだけは分かった。
御食子は簡を取り上げた。
外は細る。内はなお決まらぬ。だからこそ、今はまだ、誰も前へ出さぬようにする
誰も
皆をだ
皆を前へ出さぬようにする。
外の道と内の御座、その二つが同時に揺れているときには、なおさらそうせねばならぬ。
その夜、とうとう雨が落ちた。
はじめは細く、やがて絶え間なく、宮の板葺きの屋を打った。庭の土はすぐに色を変え、灯の届くところだけが黒く光った。
鎌足は廊の端に立って、その雨を見た。
雨は空から落ちてくる。
だが、地に落ちれば、どこへ流れるかは地のかたちで決まる。
いま朝の上に降りはじめているものも、きっと同じなのだろうと、ふと思った。
上宮皇子はもういない。
大王は老い、
大臣も老い、
御食子はなお決めず、
国子は決める日の近さを見ている。
山背の王は静かに立ち、
田村皇子もまた、まだ動かぬ。
そのすべての上に、雨のように時が降っていた。
鎌足は、その冷たさを、まだ名にすることはできなかった。だが、朝がこれまでと同じ顔のまま、もう同じではいられなくなっていることだけは、はっきりと感じていた。




