表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/11

第10話 細る道


十六


 その静けさを、外の道は一年ほどは待ってはくれた。


 上宮皇子が薨ってより二年あまり。大王の御座はいまだ揺らがず、日嗣はいまだ定まらず、朝はなお表向きの平穏を保っていた。だが、それは倭の内の話である。海の向こうの道は、倭の都合にあわせて細ったり広がったりするものではなかった。


 小墾田宮へ入る簡の中で、御食子がもっとも長く指を止めるのは、半島より来る報であった。


 新羅の使いはなお来る。

 百済の使いも来る。

 だが、来ることと、道が保たれていることとは同じではない。


 ことばは届く。

 贈り物も届く。

 されど、工人の動き、鉄の動き、馬飼の動き、港に集まる船の数、それらは別の顔をしていた。


 鎌足は、その違いを、はじめは分からなかった。


 使いが来ている。

 朝貢もある。

 ならば道は保たれているのではないか。


 そう思った。


 だが、御食子はそうは見なかった。川瀬もまた、簡を見ぬまま、荷の減りと馬の入りを見て、それを知るらしかった。


 ある日、難波から上がってきた簡に、鉄の塊の数が記されていた。例年より少ない。だが、絶えたわけではない。鎌足は、それを重大とは思わなかった。


 御食子は、その簡を畳んでから、しばらく黙っていた。


 少ないのでございますか


 少ない


 御食子は言った。


 されど、数が少ないことだけが問題ではない


 御食子は、簡を指先で軽く叩いた。


 来るべきものが来ぬなら、人は不足を見る。されど、来るべきものが、来るには来るが、細く、遅く、不安定に来るとき、人はまだ保たれていると思う

 その方が、怖ろしい


 鎌足は、そのことばを胸のうちで転がした。


 絶えることの方が、まだ分かりやすい。

 細りながら続く方が怖ろしい。


 なぜでございます


 絶えれば、皆が騒ぐ


 御食子は言った。


 細れば、皆がまだ保つと思う。まだ保つと思いながら、手の中のものだけが痩せてゆく


 少し置いて、さらに言った。


 任那の名が惜しいのではない。そこに集まっていた物と人と手が惜しいのだ


 鎌足は、そのことばを覚えた。


 そのころ、小墾田宮では、半島より戻る者、難波へ下る者、河内で荷を受ける者、信濃の牧とやり取りする者、そのすべてが少しずつ忙しくなっていた。


 忙しいのに、表は静かである。


 それが、鎌足には不思議であった。


 ある夕べ、川瀬が宮の西の廊へ呼ばれた。鎌足もまた、その少し後ろに控えた。


 御食子は、灯の入る前の薄暗がりの中に坐っていた。


 川瀬


 は


 難波に入る荷は、なお細っております


 鉄は


 細うございます


 馬具の革は


 まだ保ちます


 人は


 動いております。されど、前のような定まりはございませぬ


 御食子は、そこで少し黙った。


 川瀬は、簡を持っていない。だが、簡に書かれたことより先を、荷の動きと人の顔と道の日数で見ているのであろうと、鎌足は思った。


 道はまだ切れてはおりませぬ。されど、手を伸ばせば届くという道ではなくなりつつございます


 鎌足は、かつて川瀬が言った、

 道が切れれば、馬もただの獣に戻ります

 ということばを思い出した。


 御食子は言った。


 大臣にも知らせねばならぬな


 すでに半ばは知っておられましょう


 知っておっても、知りなおしていただかねばならぬ


 御食子の声は低かった。


 御座を守ることと、外の道を守ることとが、いよいよ一つになってきた


 鎌足は、その意味をすぐには取れなかった。御座は宮の中にある。道は海の向こうにある。どうしてそれが一つなのか。


 御食子は、鎌足の顔を見て、その問いを読んだらしかった。


 王権は、高いところに坐るから王権なのではない

 欲しいものを、欲しいところへ配れるから王権なのだ


 御食子はそれだけ言った。


 その数日後、半島より戻った者のひとりが、小墾田宮へ入った。難波吉士磐金であった。新羅から戻ったのである。


 年はすでに若くない。日に焼け、衣の端々に海路の汚れが残っている。都の者のように整ってはいない。だが、歩みだけは乱れていなかった。長く遠い道を行き来する者だけが持つ、無駄のない歩みであった。


 倉下は


 御食子が問うた。


 まもなく、任那から戻ろうかと


 向こうはどうだ


 磐金はすぐには答えなかった。言葉を選ぶより、どこから言えばよいかを量っているようであった。


 名はまだ残っております


 名


 はい


 向こうの者どもも、こちらの者どもも、なお古い名で呼びます。されど、名の下に集まる物も人も、前ほどには定まっておりませぬ


 新羅は


 手を伸ばしております


 どこへ


 港へ。人へ。ことばへ


 御食子は黙った。


 磐金はさらに続けた。


 新羅は、ただ兵で呑むのではありませぬ。残っているものへ、先に手を入れます。工人へ。船へ。馬飼へ。動く者から先に、向こうの手へ寄せてゆきます


 鎌足は、ぞっとした。兵で奪うよりも、静かである。だが、静かである分だけ、根が深い。


 百済は


 御食子が問うた。


 なおこちらを頼ります。されど、頼ることと、支えられることとは同じではありませぬ


 皆、互いに使いを立てます。ことばは届きます。されど、ことばの下で動いているものは、もう前のようには一つの手に収まってはおりませぬ


 御食子は長く黙っていた。


 絶えたのではない。

 切れたのでもない。

 だが、一つの手に収まらなくなっている。


 それは、戦で負けたという顔をしていない。

 だからこそ、怖ろしい。


 御食子がようやく言った。


 倉下が戻れば、なお聞けるか


 聞けます

 されど、大きくは変わりますまい


 御食子は、そこで初めて少しだけ目を閉じた。


 その夜、嶋大臣のもとへ使いが走った。


 蝦夷のもとへも走った。

 難波へも走った。

 河内へも走った。

 信濃へも、まだ細くではあるが、道を確かめる簡が下った。


 小墾田宮の内は静かであった。だが、その静けさの内側で、四方へ見えぬ糸が引かれなおされていた。


 鎌足は、その夜も廊の端に控えていた。


 御食子は、灯の下で簡を広げていた。

 川瀬は、外で馬の鼻息を聞いていた。

 御座は、なお宮の奥にある。


 そのとき鎌足は、山背皇子の松影の下の姿を思い出していた。


 自ら前へ出ようとはしておらぬ人。

 それでも、立っているだけで人がその方へ目を向けてしまう人。


 そしてまた、父君たる上宮皇子のことも思い出していた。


 上宮皇子は、戦に勝ってなお、そのまま王にならなかった。刃が一度通れば、つぎもまた刃で片をつける朝になることを、知っていたからである。


 では今はどうか。


 外の道が細っている。

 内では、なお日嗣が決まらぬ。

 ここで誰かを立てれば、争いの手は前へ出る。

 立てねば、外の道はさらに痩せる。


 どちらへ行っても、刃の気が潜んでいるように鎌足には思えた。


 御食子は、簡から目を離さぬまま言った。


 鎌足


 は


 上宮皇子がおられたなら、どうなされようか


 その問いは、独り言のようでもあり、試すようでもあった。


 鎌足はすぐには答えられなかった。


 ただ、前へ出られぬようになさるかと


 誰を


 皆を


 御食子はそこで初めて、ほんのわずかに鎌足を見た。


 よい


 それだけであった。


 だが鎌足には、その一言が重かった。


 前へ出られぬようにする。

 それは、何もさせぬことではない。

 皆が手を持ちながら、その手を互いに急には伸ばせぬようにしておくことだ。


 それが、いま御食子のしていることなのかもしれなかった。


 外では風が起こり、宮の庭木が低く鳴った。海の向こうの風が、やがて倭の朝へも届くように思われた。


 静けさは、まだ破れてはいない。


 だが鎌足には、その静けさの下を、見えぬ水がすでに速く流れはじめているように感じられた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ