第10話 細る道
十六
その静けさを、外の道は一年ほどは待ってはくれた。
上宮皇子が薨ってより二年あまり。大王の御座はいまだ揺らがず、日嗣はいまだ定まらず、朝はなお表向きの平穏を保っていた。だが、それは倭の内の話である。海の向こうの道は、倭の都合にあわせて細ったり広がったりするものではなかった。
小墾田宮へ入る簡の中で、御食子がもっとも長く指を止めるのは、半島より来る報であった。
新羅の使いはなお来る。
百済の使いも来る。
だが、来ることと、道が保たれていることとは同じではない。
ことばは届く。
贈り物も届く。
されど、工人の動き、鉄の動き、馬飼の動き、港に集まる船の数、それらは別の顔をしていた。
鎌足は、その違いを、はじめは分からなかった。
使いが来ている。
朝貢もある。
ならば道は保たれているのではないか。
そう思った。
だが、御食子はそうは見なかった。川瀬もまた、簡を見ぬまま、荷の減りと馬の入りを見て、それを知るらしかった。
ある日、難波から上がってきた簡に、鉄の塊の数が記されていた。例年より少ない。だが、絶えたわけではない。鎌足は、それを重大とは思わなかった。
御食子は、その簡を畳んでから、しばらく黙っていた。
少ないのでございますか
少ない
御食子は言った。
されど、数が少ないことだけが問題ではない
御食子は、簡を指先で軽く叩いた。
来るべきものが来ぬなら、人は不足を見る。されど、来るべきものが、来るには来るが、細く、遅く、不安定に来るとき、人はまだ保たれていると思う
その方が、怖ろしい
鎌足は、そのことばを胸のうちで転がした。
絶えることの方が、まだ分かりやすい。
細りながら続く方が怖ろしい。
なぜでございます
絶えれば、皆が騒ぐ
御食子は言った。
細れば、皆がまだ保つと思う。まだ保つと思いながら、手の中のものだけが痩せてゆく
少し置いて、さらに言った。
任那の名が惜しいのではない。そこに集まっていた物と人と手が惜しいのだ
鎌足は、そのことばを覚えた。
そのころ、小墾田宮では、半島より戻る者、難波へ下る者、河内で荷を受ける者、信濃の牧とやり取りする者、そのすべてが少しずつ忙しくなっていた。
忙しいのに、表は静かである。
それが、鎌足には不思議であった。
ある夕べ、川瀬が宮の西の廊へ呼ばれた。鎌足もまた、その少し後ろに控えた。
御食子は、灯の入る前の薄暗がりの中に坐っていた。
川瀬
は
難波に入る荷は、なお細っております
鉄は
細うございます
馬具の革は
まだ保ちます
人は
動いております。されど、前のような定まりはございませぬ
御食子は、そこで少し黙った。
川瀬は、簡を持っていない。だが、簡に書かれたことより先を、荷の動きと人の顔と道の日数で見ているのであろうと、鎌足は思った。
道はまだ切れてはおりませぬ。されど、手を伸ばせば届くという道ではなくなりつつございます
鎌足は、かつて川瀬が言った、
道が切れれば、馬もただの獣に戻ります
ということばを思い出した。
御食子は言った。
大臣にも知らせねばならぬな
すでに半ばは知っておられましょう
知っておっても、知りなおしていただかねばならぬ
御食子の声は低かった。
御座を守ることと、外の道を守ることとが、いよいよ一つになってきた
鎌足は、その意味をすぐには取れなかった。御座は宮の中にある。道は海の向こうにある。どうしてそれが一つなのか。
御食子は、鎌足の顔を見て、その問いを読んだらしかった。
王権は、高いところに坐るから王権なのではない
欲しいものを、欲しいところへ配れるから王権なのだ
御食子はそれだけ言った。
その数日後、半島より戻った者のひとりが、小墾田宮へ入った。難波吉士磐金であった。新羅から戻ったのである。
年はすでに若くない。日に焼け、衣の端々に海路の汚れが残っている。都の者のように整ってはいない。だが、歩みだけは乱れていなかった。長く遠い道を行き来する者だけが持つ、無駄のない歩みであった。
倉下は
御食子が問うた。
まもなく、任那から戻ろうかと
向こうはどうだ
磐金はすぐには答えなかった。言葉を選ぶより、どこから言えばよいかを量っているようであった。
名はまだ残っております
名
はい
向こうの者どもも、こちらの者どもも、なお古い名で呼びます。されど、名の下に集まる物も人も、前ほどには定まっておりませぬ
新羅は
手を伸ばしております
どこへ
港へ。人へ。ことばへ
御食子は黙った。
磐金はさらに続けた。
新羅は、ただ兵で呑むのではありませぬ。残っているものへ、先に手を入れます。工人へ。船へ。馬飼へ。動く者から先に、向こうの手へ寄せてゆきます
鎌足は、ぞっとした。兵で奪うよりも、静かである。だが、静かである分だけ、根が深い。
百済は
御食子が問うた。
なおこちらを頼ります。されど、頼ることと、支えられることとは同じではありませぬ
皆、互いに使いを立てます。ことばは届きます。されど、ことばの下で動いているものは、もう前のようには一つの手に収まってはおりませぬ
御食子は長く黙っていた。
絶えたのではない。
切れたのでもない。
だが、一つの手に収まらなくなっている。
それは、戦で負けたという顔をしていない。
だからこそ、怖ろしい。
御食子がようやく言った。
倉下が戻れば、なお聞けるか
聞けます
されど、大きくは変わりますまい
御食子は、そこで初めて少しだけ目を閉じた。
その夜、嶋大臣のもとへ使いが走った。
蝦夷のもとへも走った。
難波へも走った。
河内へも走った。
信濃へも、まだ細くではあるが、道を確かめる簡が下った。
小墾田宮の内は静かであった。だが、その静けさの内側で、四方へ見えぬ糸が引かれなおされていた。
鎌足は、その夜も廊の端に控えていた。
御食子は、灯の下で簡を広げていた。
川瀬は、外で馬の鼻息を聞いていた。
御座は、なお宮の奥にある。
そのとき鎌足は、山背皇子の松影の下の姿を思い出していた。
自ら前へ出ようとはしておらぬ人。
それでも、立っているだけで人がその方へ目を向けてしまう人。
そしてまた、父君たる上宮皇子のことも思い出していた。
上宮皇子は、戦に勝ってなお、そのまま王にならなかった。刃が一度通れば、つぎもまた刃で片をつける朝になることを、知っていたからである。
では今はどうか。
外の道が細っている。
内では、なお日嗣が決まらぬ。
ここで誰かを立てれば、争いの手は前へ出る。
立てねば、外の道はさらに痩せる。
どちらへ行っても、刃の気が潜んでいるように鎌足には思えた。
御食子は、簡から目を離さぬまま言った。
鎌足
は
上宮皇子がおられたなら、どうなされようか
その問いは、独り言のようでもあり、試すようでもあった。
鎌足はすぐには答えられなかった。
ただ、前へ出られぬようになさるかと
誰を
皆を
御食子はそこで初めて、ほんのわずかに鎌足を見た。
よい
それだけであった。
だが鎌足には、その一言が重かった。
前へ出られぬようにする。
それは、何もさせぬことではない。
皆が手を持ちながら、その手を互いに急には伸ばせぬようにしておくことだ。
それが、いま御食子のしていることなのかもしれなかった。
外では風が起こり、宮の庭木が低く鳴った。海の向こうの風が、やがて倭の朝へも届くように思われた。
静けさは、まだ破れてはいない。
だが鎌足には、その静けさの下を、見えぬ水がすでに速く流れはじめているように感じられた。




