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第1話 新しい名

    一


 行かぬか


 老人がそう尋ねる。


 少年は答えなかった。

 いずこへ、と聞ける相手ではない。視線だけを合わせ、次のことばを待つ。


 行くか


 少しの間ののち、老人が問い方を変える。


 少年は坐り直して威儀を正し、叩頭した。


 参りまする


 顔を上げる。老人はなお見下ろしていた。行くか行かぬかと問われて、行かぬとは言えぬ。老人は問うているのではないのだから。


 上宮皇子かみつみやのみこみまかった


 老人が言う。


 上宮皇子。日嗣皇子ひつぎのみこである。のちに聖徳太子と呼ばれることになる。


 本宗家の君が、子をご所望じゃ。河内枚岡かわちひらおか御屋みやへ参れ。川瀬をつける。すぐに向かうがよい。あと、馬を二十ばかり率いてまいれ


 上宮皇子の死と、本宗家が子を所望することのわけは分からぬ。少年は、まだかぞえ九つである。


 それと、鎌子という名は宗家にすでにおられる。これよりは、鎌足と名乗るがよい。


 少年は再び叩頭した。


 御屋を出たときには、もう鎌足であった。


 老人は鹿嶋の中臣の長であり、少年にとっては祖父である。父はすでに亡く、兄とともにこの老人に育てられてきた。


 中臣本宗家。その家は王権の中枢にある。


 だが、少年にとって今たしかなのは、そのような遠いことではなかった。

 鹿嶋を離れること。

 新しい名を与えられたこと。

 そして、命じた老人の顔に、少しの迷いもなかったこと。


 鎌足は春の空を見上げた。


 河内は遠いな



 鹿嶋は、単なる地方祭祀の拠点ではない。経済拠点であり、軍事拠点であり、東方経営の要衝である。


 鹿嶋の社が鹿嶋を重くしたのではない。鹿嶋という土地の富と交通と軍事的重要性が、鹿嶋の社を重くしたのである。


 この時代、後の律令の世にいう畿内は、まだ定まってはいない。だが、ヤマト王権には、すでに中心と辺境と異界とを分節する空間認識があった。


 あめ、あづま、ひなという区分は、その一つのあらわれである。


 ひなとは、単に遠隔地を意味しない。王権の統治が及ばず、文化的にも政治的にもなお内地化されていない領域である。


 あづまとは、そのような異界と接し、中央すなわちあめと分ける辺境であった。内でもなく、外でもない。


 その中で、鹿嶋は単なる辺境ではない。辺境管理の拠点である。


 鹿嶋は、あづまのかなめなのである。


 王権の手に入った物が、東へ配られる端でもあった。海を越えて来る物、半島より渡る新しい技、それらがまず王権の手へ入り、そこから各地へ流れてゆく。鹿嶋は、その流れの東の端にあった。


 ゆえに、鹿嶋の中臣は寿詞よごとだけを覚えて大きくなるのではない。馬を見、武具を見、渡来のことばを聞き、王権の道がどこへ延びているかを、幼いころから身のうちへ入れて育つ。


 鎌足もまた、そのように育った。


 鎌足には、ごく幼いころの記憶がある。


 浜の方より荷が着いた日であった。人が多く、馬も落ち着かず、いつもの祭の日とは空気が違っていた。男たちは濡れた筵をほどき、その下から黒い塊をいくつも取り出した。石のようでありながら、石とは違う鈍い光があった。


 幼い鎌足は、それに手を伸ばしかけて、すぐに止められた。熱くはなかった。だが、触れてはならぬものに思えた。


 その黒いものの前では、大人たちの顔つきが変わった。寿詞のときとも、供物を運ぶときとも違っていた。声は低くなり、手つきは早くなった。何に使う物であるか、そのときの鎌足は知らなかった。ただ、それが神へ供える物とは違って、人の声を低くし、手つきを早くするものであることだけは分かった。


 ことばを教えられる前に、馬の気配を覚えた。

 寿詞の音を習う前に、海の向こうの者の顔立ちを見分けるようになった。

 何が神へ供えられる物で、何が人を従わせる物であるかを、まだ理で知らぬうちに、目で見て覚えた。


 鹿嶋とは、そういう土地であった。



 その鹿嶋を、鎌足は去ろうとしていた。


 御屋の南の庭では、すでに馬が引き出されていた。二十騎に足りるか足りぬか、そのあたりである。どれもまだ若く、脚が張っていた。田畑に入れて土を返す馬ではない。男が鞍を置いても騒がず、腹帯を締めても身をよじらせぬ。手綱を引かれれば、すぐ人の方へ首を返す。人を背に乗せ、人の指図に従うことを覚え込んだ馬である。毛並みのよいものが多い。旅のために寄せ集めたのではないことは、鎌足にも分かった。


 男たちが黙々と具を改めている。鞍を置き、腹帯を締め、轡を洗い、革を撫でる。槍もある。弓もある。矢を収めた靫も見える。河内へ行くのに、ここまで要るのかと鎌足は思った。


 その男たちのなかに、渡来人がひとり混じっていた。鼻梁の高い、骨ばった男で、鞍の革を指でしごきながら、隣の者に半島ことばで何か言った。鎌足にはその半ばほどが聞き取れた。革がまだ乾ききっておらず、このままでは道中で伸びる、そう言っているらしかった。


 その男たちのあいだを、ひとりの男が歩いていた。


 肩の張った男である。年は三十に少し届くか届かぬか。日に灼けているが、顔つきは荒れていない。目だけがよく動いた。馬の脚も、人の手つきも、荷の積まれ方も、ひと目で見ている。


 川瀬であった。


 鎌足は、川瀬の名も顔も知っていた。祖父のそば近くにいることの多い男である。ことに馬のこととなると、鹿嶋の君もこの男に任せる。ただ、誰もが川瀬の前では無駄口をきかなかった。


 川瀬は一頭の馬の口を押し開き、歯を見た。ついで前脚を取って蹄を確かめ、手綱を引いて二、三歩歩かせた。


 これは遅い。替えよ


 声は高くなかった。だが、言われた男はすぐに頭を下げ、別の馬を引いてきた。


 川瀬は次に、積まれた革袋を指で叩いた。


 軽いな


 はい


 干し肉を減らしたか


 馬の負いを考えまして


 考えるな。河内までの道で減らすものではない


 それだけ言って、川瀬は次の荷へ移った。


 鎌足はしばらく見ていた。あれは従者ではない、と思った。供ではある。だが、それだけではない。あの男は、人ではなく、数を見ている。馬の数、矢の数、道の日数、その減り方まで見ている。


 川瀬がようやくこちらに気づいた。歩み寄って、膝をつくでもなく、ただ腰を折った。


 川瀬にございます。これより河内まで、おそばに仕えます


 鎌足はうなずいた。新しい名で呼ばれる前に、自分から名乗るべきかどうか、一瞬ためらった。


 鎌足だ


 口にしてから、まだそれが自分の名に思えぬことに気づいた。


 では、鎌足さま。ほどなく発ちます


 馬が多いな


 遠道にございます


 河内まで行くのに、兵まで要るのか


 兵、とは申しますまい


 川瀬は庭を見た。


 お供にございます


 その言い方で、鎌足は分かった。答えているようで、答えていない。


 祖父上は、馬を二十ばかり率いて行けと言った


 さようにございます


 宗家には、馬が足りぬのか


 足りる足りぬではございませぬ


 川瀬はようやく鎌足をまっすぐ見た。


 要るところへ、要るものをお届けするまでにございます


 日嗣皇子が薨ったゆえか


 鎌足がそう言うと、川瀬の目がわずかに動いた。


 それを、もうお聞きになりましたか


 聞いた


 では、それで十分にございます


 それ以上は言わなかった。後ろで馬がいなないた。男がひとり、手綱を引き損ねたらしい。川瀬はそちらを振り向いただけで、その男はすぐに姿勢を正した。


 春の空気はまだ冷えていた。だが庭には、もう別れの気が満ちていた。人が動き、馬が息を吐き、革が鳴る。


 ただの旅立ちの支度ではなかろう。鎌足はそう思った。


 自分は河内へ行く。


 それだけではないらしい。


 何をしにいくのか


 それを問うてよいものか、少年にはわからなかった。




   四


 発つとき、祖父は見送りに出なかった。


 それでよいと、鎌足は思った。あの老人が門まで出れば、それだけで別れが形になる。形になれば、まだそこに留まる心が動く。祖父はそれを嫌ったのであろう。


 兄だけがいた。何か言いかけて、言わなかった。鎌足もまた、何も言わなかった。ただ、馬に手を置いたとき、兄が低く言った。


 鎌子


 鎌足は振り向いた。


 兄はそれきり、新しい名を呼ばなかった。


 鎌足は鞍に手をかけ、ひと息で馬上に上がった。飛び乗るのにためらいはなかった。馬は耳を動かしただけで、身を振らぬ。


 川瀬がそれを見ていた。


 鎌足さまは、馬をお嫌いではないと見えます


 嫌えば乗らずに済むのか


 済みませぬ


 それなら、慣れるほかない


 川瀬は何も言わなかった。ただ、最初に鎌足を子どもとして見たときの目では、もう見ていなかった。


 一行は鹿嶋を出た。春の光はまだ浅く、馬の吐く息は白かった。道の両側に立つ者らは、鎌足に頭を下げるより、馬と荷と人の数を見ているようであった。


 鎌足は馬上から、それを見た。


 やはり、ただの旅ではない。

 その思いだけが、馬の歩みに揺られながら、少しずつ胸の底へ沈んでいった。




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