第五話 さらば陸地(おか)、私はイワシとして生きる!
「やばいやばいやばい! とてつもなく大変ですわぁぁぁ!!」
自室に戻ったセレスティアラは、優雅な令嬢らしさを1ミリも残さず、部屋の中を高速で往復していた。
脳裏に焼き付いて離れないのは、推し(スカイフォール)と泥棒猫(聖女アリシア)の濃厚なキスシーン。
「ショックすぎて逃げ帰りましたけど、これ確実に『明日、婚約破棄して処刑するね!』のフラグ立ちましたわよね!? ああもう、私の人生、詰みの速度が光速なんですけれど!」
目を閉じれば、ゲームで見た最悪のエンディングがリフレインする。冷酷な声、首元に突きつけられる剣。
「転生してから、アリシアには指一本触れてませんわよ!? むしろエンカウントを避けて爆走逃走してましたのに! それでも冤罪で殺されるなんて、乙女ゲームの強制力、理不尽すぎて泣けますわ……」
回避策を練るが、権力も推しの愛も持たない今の彼女に勝ち筋はない。完全に詰んだ。
しかし、彼女はただでは起きない転生者だった。やるせない感情を抱えつつも、クローゼットの奥から一着のドレスを引っ張り出す。
「どうせ破滅するなら、推し好みの地味な服(悪役令嬢ブラック)なんて着てあげませんわ。最後くらい、自分の好きな服を着て散ってやります!」
それは、亡き母の形見のドレスだった。
淡いピンクの生地に、アクアマリンが流星のように煌めき、腰のリボンが春の風に誘われるように揺れる。
「お母様……私、諦めませんわ。最後まで、全力で生を貪って見せます!」
翌朝。
セレスティアラは、凛とした表情でピンクのドレスを纏い、運命の王城へと足を踏み入れた。
そして、
「セレスティアラ! お前との婚約を破棄する! 僕は、聖女アリシアと共に空を駆けることに決めたんだ!」
大広間に響き渡る、スカイフォールの宣告。
わかっていた。わかっていたけれど、推しから向けられる敵意は、胸をえぐられるほどに痛い。セレスティアラは、指が白くなるほど拳を握りしめた。
「……分かりました。婚約破棄、謹んでお受けいたしますわ」
それが、彼女の精いっぱいの虚勢だった。
だが、スカイフォールは止まらない。
「そして、アリシアへのこれまでの蛮行、看過できん! フロレスタの名においてお前を処刑する!」
ギラリと光る剣が、彼女の白く細い喉元を狙う。
(私は、何もしていない……。なのに、どうして!)
怒りと悲しみが爆発する。惨めでもいい、笑われてもいい。私は、死にたくない!
「誰が死んでやるもんですかぁぁぁ!!」
セレスティアラは豹変した。
突きつけられた剣をサッと華麗にかわすと、ピンクのドレスをたくし上げ、全力で広間を駆け抜けた。
「罪人を逃すな! 追え!!」
スカイフォールの怒号と、背後で響くアリシアの高笑い。
「はっ、前世で培った社畜のダッシュ、舐めないでくださいまし!」
城門を突破する。だが、その前に立ちふさがったのは、実の父だった。
「お前のような醜い女が娘だと思いたくない。名を語るな、破門だ!」
父の手には魔力が宿っている。絶体絶命。
お金も、家も、家族も、そして愛した推しも。すべてを失ったセレスティアラは、そのまま断崖絶壁へと追い詰められた。
眼下には、牙をむく荒れ狂う海。
セレスティアラは、すべてを吹っ切ったように笑い、空を仰いだ。
「さらば!!来世ではイワシになって、絶対!!悠々自適に暮らしてやるもんねーーー!!」
スカートを大きく翻し、彼女は青い虚空へと身を投げた。
「セレスティアラ……っ!?」
崖っぷちに駆け寄ったスカイフォールが目にしたのは、異様な光景だった。
アリシアは「あはは、自業自得ですわ!」と嘲笑っている。だが、スカイフォールの肌は粟立っていた。
突如として、海の色が深い漆黒へと染まり、世界が震えるような咆哮が潮騒に混じる。
「……海が、怒っているのか?」
得体の知れない恐怖がスカイフォールを襲っていた。
***
一方、冷たい水の底で、セレスティアラの意識は薄れゆく。
(ああ、本当にイワシになれるかしら……。暗くて、静かで、でもなんだか温かい……)
その時。
水の揺らぎの向こうから、目を疑うほど美しい「何か」が近づいてきた。
月光を閉じ込めたような銀色の鱗、しなやかに躍動する美しい尾鰭。
(……人魚? 嘘、この世界に人魚なんて設定なかったはず。きっと都合のいい夢を見てるんだわ、私……)
人魚の姿となったオーシャノスは、沈みゆく彼女を力強く、そして壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
水中で海色の髪が広がり、彼女の群青と重なり合う。
オーシャノスは、彼女の冷え切った頬をなぞり、琥珀色の瞳に狂おしいほどの情愛を宿して囁いた。
「待たせてごめんね。僕の女神様。……迎えに来たよ」
彼の声は、水の壁を突き抜けて彼女の心に直接響いた。
甘く、深く、そしてどこまでも独占的な響き。
「心配しないで。これからの君の涙も、笑顔も、そのすべては僕が守るから。……もう、誰にも触れさせない。君を、やっと僕のものにできるんだから」
それは、世界で一番甘い誓い。
そして、二度と彼女を逃がさないという、深海よりも深い執着の宣言だった。




