第二十九話 断崖の再演。さらば、偽りの聖女
フロレスタ王城内は、阿鼻叫喚の図頭を呈していた。
「幽霊だ! セレスティアラ様の亡霊が呪い殺しに来たぞ!」
「人魚を捕らえた罰だ! 海神様がお怒りだ!」
「おや失礼! 幽霊の通り道ですので、そこをどいてくださいまし!」
赤いドレスを翻し、セレスティアラは全速力で回廊を駆け抜ける。前世の社畜時代、締め切り直前にクライアントへ書類を届けた際の、あの「火事場の馬鹿力」が今ここに結実していた。
わざと豪華な花瓶を倒し、騎士たちの行く手を阻み、曲がり角では「うらめしや~」と声をかける。彼女の巻き起こすパニックは、瞬く間に城を越え、フロレスタの街中へと波及していった。
(ふふふ、作戦勝ちですわね!)
騒ぎの隙を見て、彼女はシュタッと物陰に隠れると、窮屈なドレスを脱ぎ捨てた。下に着込んでいた庶民の服になり、平然と群衆に紛れる――はずだった。
「あ、あの群青の髪を見ろ! あいつが元凶だ!」
「……不覚! 帽子を落としてしまいましたわ!」
必死に走りすぎて、いつの間にか変装の帽子が脱げていた。流れるような群青の髪は、月夜に嫌でも目立つ。背後からは「人魚を返せ!」と狂乱するアリシアと、血眼になった騎士団が迫っていた。
流石に、城と街を往復三周もすれば限界である。
「はぁ、はぁ……流石に、走り回りすぎて疲れましたわ……」
彼女がたどり着いたのは、奇しくもあの日、すべてを捨てて身を投げたあの断崖だった。
「逃げ場はないわよ、セレスティアラ! 貴方、また死にたいの!?」
肩で息をするアリシアが、勝ち誇ったように叫ぶ。かつての絶望とは違う。今のセレスティアラの瞳には、揺るぎない希望の光が宿っていた。
「いいえ、今度は『帰る』のですわ。最愛の彼の方の元へ!」
そう言って、彼女が最高の笑顔で断崖を蹴ろうとした、その瞬間だった。
「逃がすか!」という騎士の声と共に、一本の鋭い矢が放たれた。
「うっ……!」
背中に走る、焼けるような痛み。
衝撃で体は宙を舞い、波立つ海へと吸い込まれていく。
(……加護を使えば……大丈夫……!)
空中でもがくセレスティアラは、治癒の光を出そうと手を伸ばした。しかし、先ほどの脱出工作と人魚の彫像維持に魔力を使い果たした彼女の指先からは、小さな火花のような光が散るだけだった。
(嘘……出ない……!? このまま、私は海に沈むの……?)
冷たい海面が背中に叩きつけられる。視界が泡に包まれ、塩辛い水が肺に入りそうになる。
「いいえ、ダメよ……シャノ様が、マリナマスの皆さんが……待っているもの!」
セレスティアラは傷を負った体で、必死に水をかいた。背中の傷から流れる血が、青い海に溶けていく。ただ、愛する人に一目会いたい。その一心だけで、彼女は本能のままに泳ぎ続けた。
意識が朦朧とする中、ようやくマリナマスの入り口を照らす「海神の灯火」が見えてきた。
(やっと……たどり着いた……シャノ、様……)
しかし、そこが限界だった。指先から力が抜け、体から全ての熱が失われていく。
群青の髪が海藻のように漂い、彼女の体は静かに海底へと沈んでいった。
(シャノ様……ごめんなさい……約束……守れなかった……)
深い青の闇の中へ、セレスティアラの意識は静かに沈んでいった。




