第十六話 深淵のマーキング。揺るがぬ愛と不穏な謁見
セレスティアラは、不安な心を抑え込みながら、マリナマスの侍女たちによって丁寧に磨き上げられていた。
艶やかな群青の髪は繊細に編み込まれ、真珠のピンで結い上げられる。デコルテが大きく開いた純白のドレスは、オーシャノスが彼女のためだけに選んだ特注品だ。
「このドレス、本当にセレスティアラ様に似合っておりますわ! 殿下の眼力に狂いはありませんね」
「私たちだけでなく、マリナマスの国民全員が貴女様に感謝しているのですよ」
侍女たちは誇らしげに語る。彼女たちが言うには、オーシャノスの心情と海の平穏はリンクしており、以前は荒れていた海が、セレスティアラが来てからというもの、嘘のように凪いでいるのだという。
(……いえ、それは全て殿下の御心が立派だからですわ。私なんて、ただ助けていただいた身。でも、そんな風に言っていただけるなんて、少し照れますわね……)
セレスティアラは自分の『アビス・グレイス』が無意識に海を浄化していることなど露知らず、侍女たちの艶やかな鱗を見て、純粋にこの国の平穏を喜んでいた。
しかし、鏡に映る自分を見つめると、カスピアンの言葉が蘇る。
『国王陛下が、アリシア姫を伴って殿下をお呼びです』
(……もし、殿下がアリシア様に再会して、眠っていた恋心が目覚めてしまったら? 「やっぱり聖女の方がいい」なんて言われたら、私……ショックで今度こそイワシになって漂流してしまいますわ……!)
ソワソワと落ち着かない彼女の前に、正装に着替えたオーシャノスが現れた。
尾鰭は消え、完璧な人間の姿。海色の髪に合わせた白い燕尾服にはアクアマリンが煌めき、胸元のトパーズが太陽の光を反射して、神々しいまでの輝きを放っている。
(……人魚姿もSSRでしたが、人間の姿は……SSSRですわ……! カッコ良すぎますわ、この王子……!!)
「……っ!!」
あまりの尊さに、セレスティアラの鼻からツーッと一筋の赤い液体が流れた。
「セレスティアラ!? 鼻血が出てるよ! 大丈夫かい!?」
「……失敬。貴方様の美しさに酔って、少々知恵熱……いえ、鼻血が出てしまいましたわ……」
慌ててハンカチで抑える彼女を見て、オーシャノスは呆れつつも愛おしそうに目を細める。
鼻血が止まり、彼が謁見の間へと足を向けようとした、その時だった。
セレスティアラは、後ろから縋り付くように彼をぎゅっと抱きしめた。
「殿下……っ、アリシア様と会わないでくださいまし! 私の我が儘だとは分かっております。ですが……貴方様を奪われたくないのです!」
背中に伝わる彼女の震えに、オーシャノスの動きが止まる。
「貴方様が好きで仕方がないのです。どうか、私から離れないで。貴方がいなくなってしまったら、私の心は枯れてしまいます……だから……っ」
言い切る前に、振り返ったオーシャノスによって唇を塞がれた。
朝よりも深く、独占欲を孕んだ情熱的な口づけ。
「ふふっ。君にそんな風に焼きもちを妬いてもらえるなんて、嬉しいな」
「……それは、その……殿下が好きなのですから、妬きますわよ……」
「えっ? なんて言ったの?」
わざと聞き返す意地悪なオーシャノスに、セレスティアラは顔を真っ赤にして叫んだ。
「ですから! 殿下が好きだから妬いたのです! アリシア様を見て、恋心が再燃するのが嫌なのです!」
その瞬間、熱を帯びたオーシャノスの唇が、彼女の白い首筋に寄せられた。
チクリとした鋭い痛み。鏡を見れば、そこには鮮明な赤い痕が残されていた。
「殿下っ……! こんなところ、見えてしまいますわ!」
「うん、見せるためにつけたんだよ。あの姫君にね」
オーシャノスは冷徹なほどに美しい微笑を浮かべ、彼女の腰をぐいと引き寄せた。
「セレスティアラ。君への想いが、あんな女を見たぐらいで揺らぐと思っているなら、心外だな。……僕が愛しているのは、世界で君一人だけだよ」
何度も角度を変え、深い愛を刻み込むようなキスを交わした後、彼は優しく手を差し出した。
「さあ、一緒に行こう。君がいないと、あの姫の『化けの皮』を剥ぐ楽しみが減ってしまうからね」
「……化けの皮?」
首を傾げるセレスティアラだったが、握られた手の温もりに、先ほどまでの不安は嘘のように消えていた。
二人が向かう先には、自分がいまだにヒロインだと思い込んでいる、哀れな聖女が待っていた。




