第十二話 空の王太子の誤算。完璧な聖女の仮面が割れる時
「……あの海の咆哮は、一体何だったんだ」
窓の外、遠くに見える海を見つめ、スカイフォールは忌々しげに舌を打った。
セレスティアラが断崖から身を投げたあの日。海はまるで、この世の終わりを告げるかのように荒れ狂い、天を衝くほどの高波がフロレスタの岸壁を叩いた。
エリアルの王族として潮の流れを読むことに長けている彼は、あの時、得体の知れない「怒り」の波動を感じて震えが止まらなかったのだ。
だが、今の彼を悩ませているのは、海の機嫌だけではなかった。
「……おい、この書類の不備はなんだ! 前回の公務の予算と、今回の執行額が全く合っていないじゃないか!」
執務室にスカイフォールの怒号が響く。だが、返ってくるのは怯えた文官の困惑した声だけだ。
「も、申し訳ございません。以前はセレスティアラ様がすべて事前に精査され、殿下が判を押すだけの状態に整えてくださっていたのですが……今は、その……」
「セレスティアラ、セレスティアラと……どいつもこいつも!!」
スカイフォールは机を叩いた。
以前は完璧だったスケジュールはガタガタ、公務の書類はミスだらけ。
かつて彼女に「スカイフォール様、王太子としての自覚をお持ちくださいませ!」と小言を言われていた時は、耳障りな雑音だと思っていた。だが、彼女がいなくなった途端、王宮の機能そのものが麻痺し始めている。
そこへ、ふわふわとした足取りでアリシアがやってきた。
「殿下ぁ♡ お仕事大変そうね? 差し入れを持ってきましたわ♪」
「……ああ、アリシア。君だけが僕の癒やしだ」
差し出された焼き菓子を口に含んだ瞬間、スカイフォールの顔が歪んだ。
「……っ! アリシア、これは……シナモンが入っているのか?」
「ええ、たっぷり! 美味しいでしょう?」
「僕は……シナモンが苦手だと言ったはずだ。香りを嗅ぐだけで気分が悪くなる」
すると、アリシアはあからさまに頬を膨らませて逆ギレした。
「えー! セレスティアラ様がいた時は、文句も言わずに食べてたじゃない! 私の愛を受け取れないの!? 最低だわ、殿下!」
(……違う。あの時は、セレスティアラが事前に材料をすべてチェックして、僕の嫌いなものを徹底的に排除させていたんだ……)
気づきたくもない事実に、スカイフォールの胃がキリキリと痛む。
さらに追い打ちをかけるように、アリシアはスカイフォールの腕をすり抜けて窓際へ向かった。
「ねぇ、オーシャノス様はどうして帰っちゃったの? 私に何も言わずに……あんなに私のことが好きだったはずなのに」
「……アリシア? 今、僕の話をして……」
「あーあ、オーシャノス様に会いたぁい♡ あの琥珀色の瞳に見つめられたら、私、もっと輝ける気がするのに!」
スカイフォールのプライドはズタズタだった。
隣にいるのは自分なのに、彼女が呼ぶのは「弱虫」の名。
陸では何もできない、ただ顔がいいだけのあの男のどこがいいというのか。
そして、ついに「決定的な崩壊」が訪れる。
「殿下! 大変です! 王都の聖なる庭園が枯れ始めました! 国民が不安がり、聖女様の祈りを求めて集まっています!」
駆け込んできた騎士の報告に、スカイフォールはアリシアを見た。
「アリシア、行ってくれ。君の『アリア』の力で、民を安心させてやるんだ」
だが、アリシアは爪を弄りながら、面倒くさそうに吐き捨てた。
「えー、やだ。今日は海の方が気になるの。ちょっとお休みしていい? 聖女だって労働基準法とかあるんじゃないのぉ? ♡」
「な……っ、何を言っているんだ! 庭園が枯れれば、エリアルとフロレスタの同盟の象徴が失われるんだぞ!」
「そんなの知らなーい。フロレスタの聖女は今日はお休みなの!オーシャノス様、何してるかしら♡」
あくびをして部屋を出ていくアリシアの背中を、スカイフォールは呆然と見送った。
窓の外を見れば、美しかった庭園の花々は無惨に黒ずみ、大地はひび割れている。
かつてセレスティアラが、泥にまみれながら土壌を整え、魔法騎士団を動かして維持していたあの美しい景色が、音を立てて崩れていく。
(……僕が選んだのは、本当に、この女だったのか……?)
脳裏をよぎるのは、いつも凛として、自分の背中を支えてくれていた婚約者の姿。
自分を空いていた彼女なら、こんな時、絶対に自分を一人にはしなかった。
「セレスティアラ……お前、今どこに……」
その呟きは、誰に届くこともなく、どんよりと濁り始めた空に消えていった。
彼はまだ知らない。
自分が捨てた「宝石」を、海の底の怪物がどれほど狂おしく、愛おしく、艶やかに磨き上げているかを。




