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強い雨の降りつける深夜。大通りから少し離れた路地裏に、雨粒とは違う不規則な音が響いていた。それはもつれたステップで踊るように、濡れたアスファルトを踏み叩く音だ。
出処は老齢も半ばに入った頃合いの男性だった。荒い息を吐き出しながら、かつては値が張っていたであろうスーツで包んだ大きな腹を震わせて、せわしなく足を動かしている。彼の形相は必死そのものであった。まるで何かに追われ、逃れるように。
いや、彼は正に今、追われているのだ――その命を狙う何者かに。
老人はいわゆる闇金業者を取り仕切るオーナーだった。傘下の賭場で客から金を巻き上げては困窮した連中を生み出し、それらを相手に暴利での貸付や違法な取立てを行い、返済出来ないとなると人身売買や臓器売買に出て、間接的にだが人をも殺す。そんな組織のトップだった。だからこそ、常日頃から報復には備えていたし、また万全の態勢であると自信を持っていた。金やコネに物を言わせて、退役した陸上自衛隊員のみならず、米海兵隊やフランス外人部隊上がりの戦闘狂な傭兵達で揃えたツワモノどもを雇い、近代火器と装具を配備して、最強の私兵兼護衛としていたからだ。
しかし、今の自分はどうだろうか? 老人は泥だらけの濡れ鼠な姿を見て思った。それだけのモノを顎で使える立場にありながら、全くもって相応しいとは言えない有り様――威厳も余裕も感じられない無様な体たらくで、地を這いずり転げ回るように逃げ続けている。それもこれも全ては奴の――万全だったはずの警護陣をたった一人でいとも容易く壊滅させた男の所為だ。
背後に迫った気配に、老人は足を止めずに振り向いた。暗がりが続くだけで何もいないが、しかしどこからか絶えず風にはためく音が響いている。奴の着込んだあのコートが、水を含んで重々しい音を立て、派手に翻っているのだ。彼は悟った。一寸先の暗闇の向こう――もうすぐそこまで追って来ている。
老人は出来得る限りの力で速度を上げた。弛んだ肉体が脈打つかのように、一層強く震える。しかし、彼の恐怖から来る震えはそんな物の比にはならない。足がすくんでもつれてしまうが、本能的な危機感で無理矢理体を突き動かしていく。
何度も角を曲がり、幾度も転びかけながら立て直し、まるで迷宮のようにも思えるビルの狭間を、老人は走り続けた。ひたすらに、狂えるように、懸命に……。
やがて眼前に、薄らと極彩色の電飾の光が差し込み、老人は表通りがもう間近なのだと悟った。耳を澄ませば、雨音に紛れて、夜更けだと言うのに未だ姦しい喧騒が聞こえてくる。
あと一息だ、もうすぐだ。そうすれば人混みに紛れて逃げられる。如何な奴だって衆人環視の中で騒ぎを起こしたくはないはずだし、邪魔だからと言って片っ端から殺して回るほどの余裕も愚かさも持たないはずだ。そう思うと同時に、老人は背後の気配が失せている事にも気が付いた。
歩みを止めて振り返り、確認する。そこには変わらずただ風が吹き抜けるだけで、矢張り誰の姿も見えない。しかし、明らかに先程までの空気と違う。
――そうだ、音だ。あの迫り来る、はためく音がしないのだ。
撒いたのだろうか? 溜息を一つ深く吐き出して、彼は思う。いや、きっとそうに違いない。影も形も無ければ、微塵も欠片も気配が無いのだから。恐らくは通りがもう間近と知り、流石に間に合わないと悟って諦めたのだろう。
「や、やったぞ……!」老人は思わず笑みを漏らしながら呟き、握り拳を小さくもたげて喜びを噛み締めた。全力を尽くした甲斐があった。いや、生死が掛かっている以上、全力を尽くさない道も無いが、ともかく諦めなかった者の勝利だ。「なぁにが死の騎士だ……ふざけやがって……」
安心しきって悪態をつきながら、彼は表通りへと歩き出そうとした。通りに出たら現在地を確認して社に連絡し、待機中の護衛と合流しよう。走りながらでは携帯電話を弄るなんて余裕などなかったし、自分が今どこにいるのかなんて把握している暇も無かったが、追手が消えた今ならそれもゆっくりと処理出来る。護衛の数も倍以上に増員すれば、敵も如何に凄腕とは言え、そう簡単には手出し出来ないだろう。それから、買収してある警官たちを総動員させて奴の居場所と正体を突き止め、報復にこちらから仕掛けてやるのだ。追い掛け回された分、惨たらしく痛め付けて殺してやらねば気が済まない。体を引き裂いて、取り出した臓器は派手に高く売り捌いて酒のつまみにでも変えてやる……。
そうして正面へと目を向けて、この暗く陰鬱とした空間や状況から抜け出ようとした時、彼は絶句と共に固まる事となった。
「まぁまぁ待て待て、そう慌てなさんなよ」くぐもった低い男性の声がして、彼の目の前に、一つの影が舞い降りた。落着と同時に水飛沫が派手に舞う。薄明かりを乱反射して煌めく中に蠢くそれを、老人は一瞬闇の塊のように思ったが、実際は確かに四肢ある人間の姿であった。全身を包み込む黒衣が、まるで暗闇と同化しているかのように見せたのだ。
片手と片膝を地面に突き、こうべを垂れるようにして着地した人影が、ゆっくりと立ち上がり、その顔を上げる。目深に被られたつば広のハットの影から、酷く汚れた白い髑髏の紋様が現れた。覆面で素顔を隠しているのだ。そしてその紋様にベッタリと付いた赤黒い染みは、駐車場に止まっていた老人の車両を襲撃し、護衛達を次々引き摺り降ろしてはズタズタに引き裂いていった際に浴びたであろう返り血に違いなかった。屈強な男達を全員見るも無惨に殺して回るその様は、酷い悪夢のように脳裏に焼き付いて消えない。
「まさかその歳で鬼ごっこが趣味とは思いもしなかったな。年甲斐もなく楽しめたようで、何よりだよ」息を切らしながら、苛つきを隠す事無く表した声色で、髑髏の覆面を被った刺客は言う。「だが、見ての通り俺は鬼じゃあなくてね。分かるだろう?」
「そ、そんな……てめぇ……畜生……!」老人は後じさりながら、眼前に立ち塞がる男の名を漏らした。「ペイル、ライダー……!」
「そう、死神さんさねな。悪いがそう簡単には振り切れやしないぞ」死の騎士の名を騙った男は、髑髏の口元を笑みのように歪ませた。「なんせこいつはあの世からの依頼なもんでな、お前さんの命を取り立てるまでは終われないんだよ」
老人は息を呑み、掠れた悲鳴を漏らしながら思った。ろくに運動も出来ないような自分が、複数の護衛を一方的に血の海へ沈められる程の存在を撒けるなど、そんな都合のいい話なんてありはしないのだ。冷静に考えれば分かるはずの事だろうに、それでも希望に縋りたかったので、無意識に受け入れないようにしていただけの話だ。
「さぁて、そろそろ遊びの時間は終わり……いい子も悪い子もオヤスミの時間にしようさねな。見ろよ、もう随分と夜も遅い」そう言うと、ペイルライダーの名を掲げた髑髏の刺客は素早く老人へと迫った。防御するように突き出した老人の腕を掻い潜って、喉元を左手で掴み上げ、そのまま強引に引き摺り回すように路地の奥へと走る。「これから街に繰り出すだなんてのは、もってのほか、でな!」
通りの明かりが遠退いて行き、希望の光が失われていく。老人は苦しみの中で呻き、藻掻きながら涙を流した。手を伸ばせば届きそうなのに、もう遥か彼方にある。声を上げれば聞こえそうなのに、雨音に掻き消されてしまう。正しく文字通り、光明を失いつつあるのだ。
ペイルライダーは老人をゴミ箱と室外機の影に引き摺り込むと、彼を壁に向けて突き飛ばしてから、その顔に右拳を叩き込み、殴り倒した。潰れた蛙のような声を上げて、老人は水飛沫と共に地面に転がった。口の中で歯が何本か折れている感触がして、ドロリとした黒い血と共にそれらを吐き出す。その様を見下ろしながら、ペイルライダーは肩から吊り下げていた消音器付きの短機関銃を両手で構えて、素早く標的へとポイントした。それと言うのは詰まる所、老人の左胸の奥で早鐘を打ち続けている心臓の事だった。
銃口を突き付けられて、改めて老人は、間近に迫りつつある死の恐怖に慄いた。むせ返って腰が抜け、へたり込んだままで後退ろうとしたが、すぐに背中が冷たい壁にひっついて、これ以上の逃げ場は無いと彼に知らしめる。
「言い残したい事でも聞いてやろうかい?」歪んだ髑髏の顔が言った。「内容次第じゃあ、叶えてやれるかもね」
その声には決して慈悲がある訳ではなく、むしろどこまでも無情な残酷さと冷酷さが漂っていた。
サブマシンガンを構えたまま、ペイルライダーは微動だにしないでいた。だが引き金には既に指が掛かっており、少しでも妙な動きをしようものなら即座に発砲出来るようにしているのだと分かる。老人に許されるのは、呼吸をする事と声を出す事、あとは無様に身を震わせる事くらいだろう。こんな事ならボディアーマーでも着ておくべきだった、と老人は思った。しかしそれで助かる訳も無いのは分かっていた。死神が少し腕を動かすだけで、照準はすぐにでも彼の胸から頭に変えられるのだから。
「さぁ、どうした……? 言ってみなよ」まるで弄ぶような声色で、ペイルライダーは言った。
老人はどうにか命乞いをしようと試みた。だが余りの恐怖にか、ガチガチと歯がかち合って、その隙間から表し難い声が漏れ続けるだけに陥っていた。なんとか言葉を紡ぎ出そうとしても、口も舌もすぐには言う事を聞いてくれそうもない。そうやって少しの間まごついた後、老人はやっとの事で絞り出すように一言発した。
「た……助けてくれ!」
「そうかい、分かった」髑髏の刺客が小さく頷いた。そして次の途端には、なんの躊躇いも無く発砲していた。「残念だ」
消音機によって抑えられた銃声が一度、雨音の中に響いた。ほぼ同時に、老人の胸から血飛沫が吹き出した。体がビクリと跳ね上がって震え、ずり落ちるように地面に落着する。
老人は一瞬、まるで何も感じず、訳の分からない空虚な気分になった。全身から力が抜けていくような感覚がして、体が動かなくなっていく。それからすぐに、耐え難い痛みが、じわり、じわりと、胸の奥深くから溢れ出して来た。その苦しみに、涙と呻きが自然と漏れ始める。熱く疼くような激痛が、噴火の時を待つマグマのように彼の胸の中から湧き上がって来て、それとは対象的に体の端から氷のように冷たくなっていくのが分かる。
「そいつは俺じゃあなくて、依頼人に頼んでもらえるかい。……お前さんが先に送ってしまったけれどね」まるで地獄の底を覗き込むかのように見下ろしながら、ペイルライダーが言った。その顔に浮かぶ紋様は、口元を笑みのように歪ませていたが、声からは隠しきれない憤りを感じられた。
「直接伝えてみるんだな。今頃は到着を待ち侘びているかも知れないぞ」藻掻き苦しむ老人に向けて、ペイルライダーは不気味に吐息を漏らしながら、再び銃を突き付けるように構える。その照準は、老人の目と目の間に重ねられている。そこで、一発目は痛めつける為、二発目は確実に仕留める為なのだと悟った。もう言葉を出す力すら無かったが、老人はやめてくれと叫ぼうとして全力で口を開けた。
「いや、待てよ……行き先が違うか」ペイルライダーは迷う事無く引き金を引いた。またもくぐもった銃声が響き、鋭い鉛の弾丸が頭蓋骨を突き破って、灰色の脳細胞を完膚無きまでに叩き潰すと、老人の体は衝撃に再びビクリと波打ち、そしてその後一切の動きと音を失くした。開いた目も口も、閉じる事はもう二度と無い。
※
胸と額に風穴を開け、力無く大口を開いたままに赤い海に沈む骸を見詰め、ペイルライダーはH&K MP7短機関銃を下ろした。疲れのこもった深い息を吐く。それから小型のカメラで写真を数枚撮ると、バラクラバ越しに、左耳に装着したインカムのスイッチに触れた。
「聞こえるかい、便利屋? ……あぁ、終わったよ。始末はついた」
始末をつける――それはつまり、正当な復讐を果たしたと言う事だった。悪党がくたばり、この世から消え去ったのだから、本来なら清々しい気分になるはずなのだが、しかし彼の声にそう言った色は無い。ただひたすらに、深い憎悪とやり切れない怒りだけが滲み出ている。
「奴さんには鉛の片道切符を贈っておいたよ。下衆外道の畜生に相応しい最期さ。後は文字通りの地獄巡りを堪能してもらうとしよう」力尽きて何もかもがだらしなく開いたままの顔に一瞥をくれてやると、纏わりつく感情を払うようにかぶりを振って、マイクの向こうに向けて続けた。「いや、大丈夫だ。これから帰るよ。……あぁ。じゃあ、また後でな」
通信を切り、再び小さく溜め息を漏らすと、彼は抱えていたMP7をベルトに備えたウェポンキャッチで留めた。こんな場所からはさっさと立ち去りたかった。もう息をしていないとは言え、こんな輩と同じ空気を吸っていたくもない。こんな汚らわしいクズの傍になど一秒たりとも……。苛立ちをぶつけるようにコートを跳ね除け、防弾ベストの背面に取り付けたホルスターから角張った大柄な銃のようなガジェットを取り出した。ビルの屋上へと照準を合わせて引き金を引くと、銃口からワイヤーで繋がった展開式のフックが発射され、程無くして壁面にガチりと食らい付く。ペイルライダーはグリップに設置されたレバースイッチを親指で押しやると、ワイヤーが勢い良く巻き取られるのに身を任せて、天高く舞い上がった。その姿はさながら再び影の塊となるかようで、夜の闇に飛び込んで、あっと言う間に消えていった。
※
遂に路地から人の気配は消え失せた。残されたものは、地面に広がり雨によって波打つ赤い海と、そこに沈む無残な抜け殻だけだった。
暗がりの中に捨て置かれた骸は、その後数時間、誰にも気付かれる事の無いまま雨粒に晒され続けた。そして朝日が昇り、晴れ間の出始めた頃合いになって、血の気の抜けきって青褪めた体は、ようやく人の目に触れる事となる。だがそれは、面倒臭そうに職務に向かう警官や、恐怖をこらえる市民の目などではない。金目の物を探してそこらを漁るストリートギャングの、好機に満ちた非情の目であった。
人の命が消えたと言うのに、この街ではそれが当然で、普通であるかのように、新たな一日が始まり、そして過ぎて行く。まるで異常など、どこにも無いと示しているかのように。




