第8話:帝国は知っている
続きは朝8時くらいにー
その夜、タヴェルニエ帝国の皇帝、マクシミリアン・フォン・タヴェルニエは、私室の椅子に深く身を沈めていた。
傍らには、長年彼に仕える侍従長と、近衛騎士団長が控えている。
沈黙。
重苦しい沈黙ではなく、何かが喉元まで出かかっているのを必死に抑え込んでいる、独特の静寂だ。
「…なぁ、お前たち」
皇帝が、絞り出すような声で口を開いた。
「はっ。何なりと」
「…今日の、フェルディナンドの『妻』だが。…あれは、その、なんだ。…男だったよな?」
その問いに、侍従長は一瞬だけ天を仰ぎ、近衛騎士団長は無言で首を縦に振った。
「左様でございます。声、骨格、歩法…。どこをどう見ても、麗しい王女殿下ではなく、将来有望な若き少年、あるいは青年でございました」
「そうか…やはり、私の見間違いではなかったのだな…」
皇帝は片手で顔を覆った。
「カルヴァ王国は何を考えている? 帝国を侮辱しているのか、それとも…あの国にはもう、男を女として送り込む以外の選択肢がないほど追い詰められているのか? あんなに震えながら、裏声で『うふふ』などと…。私は誓いの言葉を交わす二人を見た時、腹筋が引きちぎれるかと思ったぞ。あんなに震えながら、必死に裏声を捻り出して『うふふ』だぞ? しかも、跪く瞬間に膝から音が響かなかったか? 」
騎士団長が真面目な顔で追撃する。
「さらに申し上げれば、あの王女殿下、私の視線を避ける際に、無意識に顎を引いて急所を守るような動作を見せました。あれは護身の心得がある者の動き。あるいは、常に背後を警戒して生きてきた野生生物の反応です。およそ深窓の令嬢が身につける所作ではございません」
騎士団長の無駄に鋭い分析に、皇帝はますます頭を抱えた。
「そこへ追い打ちをかけるように、侍女長からの報告です。侍従長、あれを陛下にお伝えしろ」
促された侍従長が、一枚の報告書を読み上げる。
「はっ。…『王女殿下の胸部について。通常の三倍の綿を詰め込みましたが、それでもなお平坦であり、コルセットの締め上げに際しては「肺が潰れる」という、女性からはまず聞かれないような野太い悲鳴が確認されました』…とのことです」
「……もうやめてくれ。笑い死にさせる気か」
皇帝は机を叩いて笑いを堪えた。
そう、皇帝マクシミリアンは、軍事国家の長として威厳を保っているが、その本質は『真面目すぎて一度ツボに入ると止まらない』性格なのだ。
「しかし陛下、よろしいのですか? 国際的な問題でございます。本来なら即刻処刑し、王国へ宣戦布告すべき案件かと」
騎士団長の至極真っ当な進言に、皇帝はふう、と大きな溜息をついた。
「そのつもりだった。フェルディナンドがあの花嫁の首を即座に飛ばせば、私もこれ幸いと軍を動かしただろう。…だが、見たか? あの弟の顔を」
側近二人が顔を見合わせる。
「…閣下が、あれほど熱心に他人を見つめる姿は、戦場での獲物を除けば初めてでございましたな」
「あいつは、あの偽物の小僧を、まるで珍しい新種の生き物でも見るかのような目で慈しんでいた。披露宴を中止にした時もそうだ。あんなに過保護に振る舞い、自ら食事を運ぶ弟を、私は三十年近く生きてきて一度も見たことがない」
皇帝は思い出す。
幼い頃から感情の起伏が乏しく、『死神』とまで呼ばれた弟を思い出す。
その彼が、震える偽物の王女を支え、どこか楽しそうに…そう、確かに楽しそうにエスコートしていたのだ。
「…仕方ないだろう。フェルディナンドが、あそこまで気に入っているのだ。ここで私が『そいつは男だ、殺せ』と言い出すのは無粋だろう。あいつが満足するまで、あの王女という名のペットを飼わせてやればいい。…もし飽きたら、その時こそ地図から王国を消せば済む話だ」
「つまり、我らも知らないふりを突き通せと?」
「ああ。侍従長、城の使用人たちにも徹底させろ。たとえ、風呂に入っている時に何らかの突起物を目撃したとしても、それは『個性的な形状をした王女の何か』であると自分を洗脳しろ」
「承知いたしました。帝国全土に『あの御方は絶世の美女である』という通達を出しましょう」
「頼む。…くっ、ふふふ…。しかし、いつまで持つかな。あの少年、自分がバレていないと思って必死に女の振りをしていたが……明日には何かやらかしそうな気がしてならない」
皇帝はついに堪えきれず、低い笑い声を上げた。
それは弟への親愛と、これから始まる最高に馬鹿げた盛大な茶番劇への、ワクワクした期待の色が混ざっていた。
同じ頃、帝国の有能すぎる料理長や侍女たちの間でも、ある一つの結論が共有されていた。
『――あの王女様、肩幅がたくましいから、明日は肉を多めに焼いてあげましょう』
こうしてレナートの預かり知らぬところで、帝国の体制が密かに構築されたのである。
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