第22話:王女の執念
続きは明日のこの時間くらいにー
――ガリッ。
不快な音が、薄暗い離れの一室に響いた。
「痛っ…! ちょっと、何なのよ、このパンは! 石!? これ石膏か何かなの!?」
カルヴァ王国の第二王女、エルゼ・フォン・カルヴァは、手にした茶褐色の物体を床に叩きつけた。かつては宝石のように磨き上げられていた彼女の爪は、今や汚れと乾燥でボロボロになり、その自慢の指先も、硬すぎるパンの抵抗によって赤く腫れている。
「…エルゼ様。いえ、今は『第三王子』でしたわね。この離れでは、それが通常の食事です。文句があるなら、庭の雑草でも煮て召し上がればよろしいのでは?」
扉の脇に立つ老侍女が、心底面倒そうに吐き捨てた。
エルゼは、その無礼な態度に激昂し、立ち上がろうとした。だが、空腹のあまり立ち眩みがし、そのまま冷たい石畳に膝をつく。
「な、なによ、その目は! 私は王女なのよ! エルゼ・フォン・カルヴァなのよ! こんな扱い、お父様が…国王陛下が許すはずがないわ!」
「おやおや、まだそんな寝言を。あなたをここへ押し込め、『死ぬまで王子のふりをして大人しくしていろ』と命じたのは、他ならぬ陛下ではありませんか。…それとも、今さら『やっぱり私が王女です。弟を身代わりにしました』と公表して、帝国を欺いた罪で一家心中でもなさいますか?」
老侍女の冷徹な正論に、エルゼは言葉を詰まらせた。
…そうだった。この状況を仕組んだのは、自分なのだ。
あの野蛮な帝国に嫁ぐのが嫌で、自分と背格好が似ていた「いないもの扱い」の弟、レナートを身代わりに仕立て上げた。あの時は、自分の完璧な計画に酔いしれていた。レナートさえ帝国で死んでくれれば、自分はこの城で一生、自由を謳歌できると信じていたのだ。
だが、現実は甘くなかった。
レナートがいなくなった後の「第三王子の席」に座った彼女を待っていたのは、彼女自身がこれまでレナートに強いてきた『無視と侮蔑と飢餓』の再現だった。
(なんで!? なんで誰も、私がエルゼだって気づかないのよ!? 私はあんな薄気味悪い弟とは違う、気品に溢れた王女なのよ!)
叫びたくても、叫べば自らの首を絞めることになる。
彼女が「レナート」として扱われる限り、食事はカビたパンと泥水のようなスープだけ。冬の暖炉に火が入ることもなく、かつての取り巻きたちは彼女を「汚らわしいもの」として視界から排除する。
彼女がかつて楽しんでいた贅沢な日々は、すべて帝国にいるレナート(エルゼ)に譲り渡してしまったのだ。
「…あ。そうだわ、帝国。……あのバカな弟、今頃はどうなっているのかしら」
エルゼは、床に落ちたパンを拾い上げ、憎々しげに睨んだ。
彼女の脳内では、レナートは今頃、恐ろしい帝国将軍に鞭打たれ、鎖に繋がれ、冷たい地下牢で涙を流しているはずだった。そうでなければ、自分のこの惨めな生活のバランスが取れない。
「ねえ、マーサから連絡はないの!? あの役立たず、あいつを監視するために付けたのに!」
「マーサなら、先週帰ってきましたよ。…『王女殿下は帝国で病を患い、精神に異常をきたしている。もう自分は手に負えない』と言って、さっさと実家に帰って隠居しましたわ。…おかげで陛下は、『身代わりがいつバレて宣戦布告されるか』と、毎日気が気ではないご様子です」
エルゼの瞳に、歪んだ光が宿った。
(そう、病気…! やっぱり、レナートも地獄を見てるんだわ! ざまあみろ、あんなゴミ、私に代わって苦しめばいいのよ!)
だが、その歪んだ喜びも長くは続かなかった。
数日後、彼女は城の廊下で掃除をしている際(王子のふりをしているため、最近は雑用まで押し付けられている)、偶然、国王と宰相の密談を耳にしてしまったのだ。
「…陛下。帝国からの最新の定期報告によれば、王女、いえ、身代わりの小僧は、毎日『肉が美味い』だの『天国だ』だのと書いているようですぞ」
「ふん、あまりの恐怖に気が触れたのだろう。あるいは、帝国側が我らを油断させるために書かせた捏造か。…だが、今度の視察団の派遣、帝国側が快く受け入れたのが解せん」
「将軍は『エルゼは健康そのもので、以前よりも豊満になった』とまで言っているそうです。…あのような蛮族の地で、豊満になるなど…。もしや、あちらの趣味で、家畜のように太らされているのでは…?」
エルゼは、物陰で息を呑んだ。
…天国? 肉が美味い? 豊満になった?
(冗談じゃないわ……。私はこんなに痩せて、肌もガサガサで、毎日雑草の味を研究しているっていうのに!)
不公平だ。
あんな、自分をいじめていた姉の言いなりになるしかなかった、ノロマで無能なレナートが。
今、帝国の豪華な宮殿で、自分よりも贅沢な思いをしているかもしれない?
もし将軍の「お気に入り」にでもなっていたとしたら?
(許せない……。絶対に許せない! 私の場所を、あいつが奪っているのよ!)
彼女の思考は、既に正気の一線を越えていた。
自分が帝国を拒絶した事実は棚に上げ、「自分の代わりに贅沢をしている弟」への殺意に近い嫉妬だけが、彼女を突き動かした。
――作戦は簡単だった。
来週派遣される視察団。その構成員は、帝国に不慣れな下級役人と、数人の侍女たちだ。
エルゼは夜陰に乗じて離れを抜け出し、自分を監視していた老侍女の酒に眠り薬を盛った。そして、視察団に加わる予定だった若い侍女の一人を絞め殺さんばかりの勢いで脅し、服を奪い取った。
今のエルゼは、あまりの飢餓で以前よりもずっと細身になっていた。顔を泥と薄汚い化粧で隠せば、一人の下級侍女として紛れ込むのは、驚くほど容易だった。
「……待ってなさい、レナート。私が、あなたの化けの皮を剥いでやるわ」
視察団の荷馬車の隅で、エルゼはガタガタと震えながら笑った。
帝国の将軍の前で、あいつが男であることを暴露してやる。そうすれば、帝国は怒り狂い、レナートは即座に処刑されるだろう。自分も無事では済まないかもしれないが、あいつだけが幸せになるよりは、共倒れの方が一億倍マシだ。
「……お肉……美味しいパン……ふかふかのベッド……。全部、私が取り戻すの。……あるいは、全部壊してやるわ」
一週間後。
視察団を乗せた馬車が、帝国の国境を越えた。
エルゼは、馬車の窓から見える帝国の景色に、目を見張った。
カルヴァ王国の寂れた風景とは違う、活気に溢れ、豊かさに満ちた街並み。そして、近づくにつれて鼻を突く、香ばしい肉を焼く匂い。
(な、何よこれ……。ここが、野蛮な国? カルヴァよりもずっと立派じゃない!)
後悔が、毒のように全身を回る。
こんなに素晴らしい場所だと知っていたら、身代わりなんて出さなかった。自分こそが、この豊かさを享受すべき王女だったのに。
そして、ついに帝国宮殿に到着したその日。
エルゼは、視察団の最後列に並び、伏せ目がちにその時を待った。
広間の大きな扉が開く。
そこに現れたのは、漆黒の軍服を纏った、圧倒的な威圧感を放つ美丈夫――フェルディナンド将軍。
そして、その傍らに寄り添う、眩いばかりの純白のドレスに身を包んだ…「王女」。
「……え?」
エルゼは、思わず声を上げそうになった。
そこにいたのは、自分が知っているレナートではなかった。
頬には健康的な赤みが差し、肌は真珠のように輝いている。コルセットをしていないはずなのに、その立ち振る舞いは堂々としていて、何より、その表情には微塵の悲壮感もない。
レナートは、将軍と親しげに視線を交わし、何やら楽しげに笑いながら、差し出された最高級の果実を口に運んでいる。
「…あ、あいつ……」
エルゼの視界が、真っ赤に染まった。
自分がカビたパンを齧っている間、あいつは。
自分が無視され続けている間、あいつは。
あんな、帝国の死神のような男に、まるで宝物のように扱われている。
「…………レナートォォォォォォォ!!!」
心の中の絶叫が、今にも口から漏れ出しそうだった。
嫉妬、怒り、屈辱。
エルゼは、侍女の制服の裾を、爪が割れるほど強く握りしめた。
「殺してやる……。正体をバラして、地獄に叩き落としてやるわ……! 見てなさい……今のうちに、その汚い口で美味しいものを食べておくがいいわ……っ!」
復讐に狂った偽りの侍女は、獲物を狙う蛇のような目で、幸せの絶頂にいる(ように見える)弟を凝視し続けた。
――しかし、彼女はまだ知らない。
レナートが今、将軍との会話で「閣下、このブドウ、わたくしの魔力で勝手に皮が剥けましたわ!」という、またしても支離滅裂な嘘を吐き、将軍が「ほう、便利だな。今度は俺の服も剥いてくれるか?」と返し、周囲の侍女たちが笑いを堪えるのに必死になっているという、この異様な状況の全貌を。
そして、自分が正体を暴露した瞬間に待ち受けているのが、帝国側の「知ってた」という無慈悲な一言と、さらなる絶望であるということを。
運命の視察会が、今、最悪の形で幕を開けようとしていた。
・豆知識
黒パンは斧でカチ割るくらい硬くて長期保存に向いている。薄くスライスしてバターやチーズ、スモークサーモンなどを乗せて食べるのが一般的らしい。またはスープやワインに浸して柔らかくして食べることも。
まあ食べたことないから知らんけど。
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