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第18話:淑女の嗜み(物理)

続きは明日のこの時間くらいにー

 マーサという名の唯一の盾を失い、俺は今、帝国の精鋭侍女三名という名の『最強の監視網』に囲まれている。

 正直に言おう。怖い。

 彼女たちは有能すぎる。朝、俺が目を覚ます一秒前には枕元に待機し、俺が「…ふわぁ」と欠伸あくびをする瞬間に「おはようございます、殿下」と完璧なタイミングで声をかけてくる。その際、俺の喉仏が大きく動くのを、彼女たちの鋭い眼光が見逃しているはずがないのだ。


 だが、俺は諦めない。

 なぜなら、昨夜の赤エビが美味すぎたからだ。

 あのプリプリの食感、脳を揺さぶる濃厚な味噌の味…。あの味を知ってしまった以上、王国での『石のようなパンと白湯』の生活に戻るくらいなら、俺は一生、女装という名の戦場で踊り続けてやる。


「殿下。本日のドレスですが、こちらの『深海の真珠』をあしらったシルクのものはいかがでしょうか?」

「う、うふふ。素敵ですわ。…でも、もう少し胸元が詰まったものはございませんこと? わたくし、鎖骨が非常にデリケートでして…。日光に当たると、そこから『魔力』が漏れ出してしまう体質なのですの」

「さようですか。日光で漏れ出す魔力。承知いたしました」


 侍女の一人、カミラが一切の表情を変えずに頷く。

 嘘だ。自分でも何を言っているのか分からない。鎖骨から魔力が漏れる王女なんて、設定が盛りすぎだ。だが、彼女は「そういう設定ですね」と言わんばかりのプロの手つきで、ハイネックのドレスを準備し始めた。


 着替えの際、俺は細心の注意を払う。

 脇を締め、股を閉じ、絶対に重大なものが露見しないよう、常に不自然な内股で静止する。その姿は、端から見れば「今すぐトイレに駆け込みたい人」にしか見えないだろう。


「殿下、そんなに震えて…。やはり体調が?」

「い、いえ、これは……『喜びの振動』ですわ。帝国の素晴らしい空気を全身で受け止めているのですの。ほら、わたくしの細胞が鳴っているのが聞こえませんこと?」

「ええ、しっかりと。殿下の細胞は、非常に力強い鼓動を刻んでおられますね」


 侍女たちが背中の紐を締め上げる。

 …重い。今日の詰め物は、彼女たちの提案で帝国の最高級綿にアップグレードされた。おかげで俺の胸元は、さながら二つの巨大な山脈を形成している。重力に逆らうこの重量感。肩が凝るが、これが俺の偽装度に直結するのだ。


 着替えを終えた俺は、次なる課題へと挑む。

 それは、王女としての『淑女の嗜み』を披露することだ。


「さあ、殿下。午後のひとときは、刺繍をなさいませんか? フェルディナンド閣下も、殿下の刺繍を楽しみにしていらっしゃいます」


 刺繍。

 俺が最も苦手とする分野だ。王国では針なんて持たせてもらえなかった。俺が持っていたのは、せいぜい中庭の雑草を抜くための錆びた鎌くらいだ。

 だが、ここで「できません」と言えば、「なぜ王女なのに刺繍ができないのか?」という疑惑を招く。


「……もちろんですわ。わたくしの刺繍は、カルヴァ王国では『異次元の芸術』と呼ばれていたほどですもの」


 俺は震える手で針を持った。

 目標は、白い布に一輪の薔薇を咲かせること。

 だが、開始十分。俺の目の前にあるのは、薔薇とは程遠い、何か『深淵の化け物が吐き出した臓物』のような、複雑怪奇な糸の塊だった。

 針を刺すたびに「ぶしゅっ」と不穏な音がする。布が悲鳴を上げている。


「……殿下、それは?」

「これ…? これは、……『概念』ですわ。薔薇が咲き誇り、そして散り、土に還り、再び輪廻転生を繰り返す、その宇宙の真理を、この一針一針に込めているのですの」

「素晴らしい…。これほどまでに哲学的で、かつ殺気の籠もった刺繍は初めて拝見いたしました。閣下にお見せすれば、きっとお喜びになります」


 カミラたちの目が、キラキラと輝いているように見える。

 違う、それは尊敬の目じゃない。面白いものを見ている時の、あの皇帝と同じ目だ!

 だが俺は止まれない。概念と言い張った以上、俺はこの糸の塊にさらに「宇宙」を継ぎ足していくしかないのだ。


 そこへ、最悪のタイミングでアイツが現れた。


「エルゼ。…ほう、刺繍か。精が出るな」


 フェルディナンド将軍だ。

 今日も無駄にかっこいい。軍服のボタンを一つ外した、少しリラックスした姿。だが、その瞳は相変わらず獲物を狙う鷹のように鋭い。


「あ、あ、あ…。閣下…っ。うふ、ふふふ。見てくださいまし、わたくしの『宇宙(薔薇)』を…」


 俺は必死に声を高く作り、布を掲げた。

 将軍は俺の横に座ると、その『糸の死骸』をまじまじと見つめた。


「…凄まじいな。この力強い運針うんしん。一歩間違えれば、布を貫き、机まで縫い合わせてしまいそうな勢いだ。流石は我が妻、指の力が並の兵士を超えている」

「い、いえ……これは、乙女の情熱が溢れ出しているだけでして…っ」


 将軍の手が、ふと、俺の手に重なった。

 大きな、熱い手。剣を振るい、多くの命を奪ってきたであろう、硬いたこのある掌。

 ドクン、と心臓が跳ねる。これは恐怖だ。正体がバレて、処刑されることへの恐怖に違いない。


「手が…震えているな。やはり無理をさせているか? お前は病なのだろう。そんなに必死に『女』であろうとしなくてもいいのだぞ」

「な、何を仰いますの! わたくしは、生まれながらにして女……いいえ、女の中の女! いわば『女の化身』ですわ! この震えは、刺繍への愛が止まらないだけですの!」


 俺は必死に虚勢を張る。

 将軍はフッと口角を上げた。その笑みが、やけに優しくて、胸の奥がチリチリとする。


「そうか。お前の愛は、随分と激しいのだな。…だが、あまり根を詰めすぎるな。お前のその、逞しい…いや、しなやかな指先を痛めては、俺の楽しみが減る」


 将軍はそう言うと、俺の耳元に顔を寄せ、囁いた。


「今夜は、猪の丸焼きを用意させた。お前が好きな『骨の髄』まで堪能できるよう、特別に下ごしらえをさせてある。…楽しみだろう?」


 猪。丸焼き。骨の髄。

 その単語が並んだ瞬間、俺の脳内にある『危機管理委員会』は即座に解散し、『美食推進委員会』が全権を掌握した。


「っ!! はい、楽しみですわ! わたくし、猪の骨を砕く音を聞くと、心に平穏が訪れますの!」

「ははは! そうか。やはりお前は、この帝国の空気が合っているようだ」


 将軍は満足げに俺の頭を撫でた。

 ……いや、撫でるというより、獲物の毛並みを確認しているような手つきだが、今の俺にはどうでもいい。

 猪だ。あのアブラの乗った、野性味溢れる肉を食えるなら、この女装という名の苦行も、もはや聖戦に等しい。


 将軍が部屋を出て行った後、俺は再び針を手に取った。

 もはや迷いはない。一針ごとに、俺は猪への愛を込める。


「殿下…。刺繍の形が、急に『猪の牙』のように鋭くなってまいりましたね」

「いいのです。これがわたくしの、今の心象風景ですのよ」


 侍女たちの称賛(嘲笑かもしれないが、気にしない)を浴びながら、俺は突き進む。

 バレてない。まだ、バレてないはずだ。

 将軍のあの「女であろうとしなくてもいい」という言葉も、きっと「病気なんだから休め」という、ただの気遣いに違いない。

 帝国の人々は、みんな優しい。俺の拙い……いや、独創的な淑女の振る舞いを、こうして温かく受け入れてくれている。


 王国では、誰も俺を見てくれなかった。

 でもここでは、将軍も、皇帝も、侍女たちも、みんな俺を注視している。

 それが、例え『変な生き物の観察』に近いものだとしても、無視されるよりは一億倍マシだ。


「さあ、仕上げですわ! この『猪の呪詛(刺繍)』を完成させたら、お着替えの時間ですわね!」

「はい、殿下。夜の宴にふさわしい、最も動きやすく、骨を砕きやすいドレスを用意しております」


 侍女たちの言葉に、俺は力強く頷いた。

 淑女にあるまじき喉仏が、これ以上ないほど元気に上下したが、俺はそれを「高鳴る鼓動の一部」として無視することにした。


 明日も、明後日も、俺は王女として生きる。

 バレるその日まで。あるいは、帝国の家畜をすべて食い尽くすその日まで。

 俺の『絶対にバレたくない』戦いは、赤エビと猪の脂に彩られながら、さらにカオスな方向へと加速していくのだった。


 ――お姉様。あなたが野蛮な国と呼んだここは、実は「変人に極めて寛容な天国」かもしれませんよ。

 俺は心の中で、かつて俺を罵った姉に、最大級の(メシの自慢を込めた)感謝を捧げた。


・豆知識

北方狩猟民族では骨の髄を食べる風習があったりします。でも特定の動物(部族によって異なるけど熊とかアザラシとか鹿とか)は食べません。理由はいろいろありますが、だいたい『尊重されるべき生き物』だからですかね。気になった人は「獣骨破砕文化」で検索検索ゥ!


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