第5話「できるわけないでしょ! からかわないで!」
「これで俺が名前を言ったらその人はどうなりますか? 国家公務員法違反で逮捕、懲戒処分です。俺はよく『チャランポラン』だとか『女たらし』とか言われますけどね、そんな俺でも情報を預けてくれる人がいるんですよ。彼らをむざむざと売るような真似は絶対にしません」
仕事に命をかけている男の言葉に、万里子が反論できるはずもなく、黙ってにらみ続けていると、
「あっ、でも〜」と松立、ヘラッとした顔をする。
「今朝、逮捕された张芷瑜ってやついるでしょ。彼と二人きりで話をさせてくれませんか? そしたら情報源を教えてあげますよ」
万里子の顔がキーッと赤くなる。心の底から感情がコポコポと溢れ出す。
「そんなこと……、そんなこと……」
彼が求めているのは容疑者との接見です。そんなことをすれば国家公務員法違反、証拠隠滅罪に問われる恐れもあります。
「できるわけないでしょ! からかわないで!」
吠える万里子に松立はグイッと顔を近づけると
「それじゃあ、この話はなかったってことで」
万里子は思わず体を縮こませてしまう。彼はスーツ姿ですがネクタイはつけておらず、第二ボタンまで外れたワイシャツの隙間からは白い肌と優美な鎖骨、そして赤いキスマークが見えて————
(……キスマーク?)
彼女の鼻にジャスミンを基調としたみずみずしい香りが漂ってくる。
「ど、どうして、あなたの体から女性ものの香水がするの……?」
わななきながら一歩、二歩と後ずさった。
「あぁ、さっきまで一緒にいたユイちゃんのかな。彼女、ディオールの香水が好きでよくつけてるんだけど…………あっ」
朝霧万里子が重度の香水アレルギーであると気づいたときにはもう遅い。
「テメェ、なにしてんだコラァ!」
凶暴化した裏マリコの正拳突きが松立の鼻っ面に命中する。
大きくのけぞる松立和博。
「話には聞いてたけど、まさかここまで暴力的とは……」
「テメェの頭、かち割ってやろうか、アァン?」
今にも耳を噛みちぎりそうな勢いで迫ってくる。
「こんなの相手にしちゃいられない」
松立は鼻を押さえながら
「警備員さん、彼女を追い出して!」
と近くを巡回していた警備員二人に言います。
「はなせ、殺すぞッ!」
警察官とは思えないような言葉を撒き散らしながら、万里子は読物本社から連れ出されてしまいました。
* * *
読物新聞から追い出された万里子は、その後なにごともなかったかのように仕事をこなし、夕方には勤務を終え、帰路につきました。
連日の疲れもあるのでしょう。足取りが重い。
手前からは西陽がさし、伸びる影がまるで重りのように歩調を鈍らせる。
『美貌とコネでのし上がった女』と言われてきました。そんなふざけた奴らを黙らすために自分は実力があるんだと、世間で認められているんだと……示すために配属当初から躍起になって捜査に取り組んできました。一分でも時間があれば名簿を調べ、メディアに出演し、情報を整理してきた。
今回の一連のガサ入れは、その集大成だったのです。
しかし、たった二つの記事で世間の関心は奪われてしまった。世間も警察内部も読物のスクープで話題は持ちきりです。
松立和博とは何者なのか、次にどんな記事を書こうとしているのか、彼の存在がメディアに与える影響とは————。
まるでゴッサムシティに現れたバットマンのごとく、メディアやSNSは彼について議論し、彼の次の行動に胸を膨らませていました。
一方、万里子の手柄はコソ泥を捕まえた程度の扱い。連日、彼女に出演依頼を出していたワイドショーはこの日、万里子の実績に一秒も触れることがありませんでした(まあ、読物本社から裏マリコが出てきたのを見て、彼らも「こりゃダメだ」と思ったのでしょう)。
「はぁ……」
ため息をつく後ろで
「あら、万里子ちゃん?」
振り向くと、近所に住む絵色一葉が立っていました。
古希まで地元の中学で国語教師をしていた絵色は、趣味である茶道の稽古帰りでしょうか。鶯色の着物に身を包んでいた。
「やっぱり、万里子ちゃんよね。久しぶりじゃない!」
「絵色おばさん……」
「おばさんなんてやめて。もうすっかりおばあちゃんよ」
「そんな……まだお若いですよ」
万里子の世辞に絵色はウフフと笑う。
彼女はかつて万里子に助けられたことがありました。
それは、万里子がまだ高校生だった頃、絵色が現役で教師をしていた頃です。
通勤途中だった絵色の鞄を、自転車に相乗りした二人組が無理やり奪ったのです。
絵色は強引に荷物を取られたものですから「キャァ!」と地面に倒れてしまう。
カバンの中には生徒一人一人に合わせて作ったプリントが。
自転車との距離はどんどん離れていく。
あぁ、もうここまでか、と諦めかけたそのとき————
「おばさん、待っててね!」




