第11話「知りたい情報は手に入ったので、これから行こうかな、と」
「ですから、アイツが電話してるところですよ。おそらく、
中国国家安全部です」
万里子は鼻と耳から蒸気が出るくらい顔を真っ赤にしました。中国国家安全部といえば、CIAとFBIを一緒にしたような秘密警察です。そんなところと繋がってるなんて————
「彼は、何者なの?」
「さあね。俺が言えることがあるとすれば、アイツは世界中あらゆるところにソースをもっています。議員会館のヘアサロン、銀座のホステス、CBP《ロシア対外情報庁》、モサドといった諜報機関、挙句の果てには民族解放戦線、イスラム革命軍、救世評議会といったテロ組織にも情報提供者がいるって噂です」
「噂って……」
「部下の内情には深く立ち入らない主義なんで。特に松立はね」
「どういうことです?」
万里子の質問に答えることなく、好田は胸ポケットからセブンスターを取り出すと、一本咥えて火をつけた。深々と息を吸い、紫煙を吐き出す。
「俺も昔は『霞ヶ関の猟犬』だなんて言われていましたが、それでもネタ元は公安捜査官や地検特捜部が限界です。——俺が犬なら、アイツはF—16ですよ」
* * *
「編集長、それに主任さん、ここにいましたか」
本部庁舎に戻ると、1階エレベータホールに松立がいた。
「こんな夜更けにお散歩ですかぁ? 精が出ますね〜」
ニヤニヤする松立に「からかうな」と好田はガンを飛ばしますが、万里子は緊張してしまい、目すら合わせることができません。
「それで、どうだった?」
「はい。知りたい情報は手に入ったので、これから行こうかな、と」
「……無理すんなよ」
「ちょっと待って、行くってどこへ?」
なんてことを言いますが、この状況で彼が行こうとする場所は一つしかない。ハッとした万里子は
「待って。無茶よ、そんなの! あそこは危険すぎるわ。建設途中のビルがいくつもあるし、警備員が武装してるって話もある。お願い。明日中にはなんとしても突入してみせるから、そのあとだったらいくらでも撮影していいから。ね……命を無駄にしないで……」
その言葉を聞いた松立。真顔でズカズカと万里子に近づき壁際まで押しやると————
ダンッと手のひらを壁に叩きつけた。
「命を無駄するな、ですか。——それを紛争地にいるカメラマンに言えるんですか、独裁国家から発信を続けるライターに言えるんですか?
俺はね、この仕事に命懸けてるんですよ。公式発表をただ待つだけの記者や関係者と馴れ合うような記者とは違う。
まだ誰も知らない情報を、この手で、社会に伝えるために新聞記者やってるんです!」
万里子の心臓は、これまでにないくらいドクドクしていました。松立の方に心臓がジャンプしてしまいそうな感覚、とでも言えばいいんでしょうか。中高大と女子校に通い、警察では仕事に忙殺されてきた彼女は、この気持ちの名前をまだ知りませんでした。
しかし——、しばらくすると、
ハーブの香りをベースとしたシトラスがブレンドされたシャープな香りが鼻腔を膨らませる。
それもそのはず。目の前にいる松立和博は、本庁舎に来る前にベンチャー企業の社長、宮守萌絵とホテルの一室で時間をともにしていたのです。
そこで何があったかはご想像にお任せしますが、そのとき彼女がつけていたシャネルの香水が、松立の体からプンプンと漂ってきていました。
朝霧万里子、体をワナワナと震わせたかと思うと、
「なに見てんだ、このやろう!」
裏マリコに変わり、松立に殴りかかる。
ところが松立、前回とは違ってこれをするりとかわす。
「そういえば、警察関係者から聞いた話なんですけどね」
万里子の攻撃をよけながら松立は言いました。
「そのモードになったあなたは、いつもに増して野生的になるそうじゃないですか。特に嗅覚が警察犬もびっくりするくらい鋭敏になるそうですね」
「だからなんだってんだよ!」
誰もいないエレベータホールで凶暴な女性の声がこだまする。
「そこで仮説を立ててみたんです。あなたは匂いの効果も敏感に感じ取るのではないかと」
そういって彼はタリアトーレのトレンチコートから一本のラタンスティックを取り出しました。スティックには事前にリラックス効果のあるフレグランスオイルが染み込ませてある。
ポイッと放り投げれば、ラタンスティックから漏れ出た香りを裏マリコの鼻がヒクヒクと嗅ぎつける。
「にゃっ!」
まるで猫がまたたびに飛びつくがごとく、スティックを手に取る万里子。棒を鼻にこすりつけて
「はにゃ〜」と甘い声をあげました。
「どうやら、仮説はあたってたようですね」
裏マリコは松立のことなど気にせず、アロマの香りに夢中です。
「気をつけてけよ」
その場をあとにする彼に、好田が声をかける。松立は振り返らずに
「朝刊のスペースはとっておいてくださいよ〜」
夜の闇に消えていきました。




