エピローグ
「海歌、隣に座ってもいい?」
私は目元を手の甲で強く拭ってから頷く。おねぇはありがとう、と言うと私の横に座った。
部屋の電気も付けず、ただ隅っこで蹲っているだけの私に、おねぇは何も言わなかった。てっきり何か励ましの言葉でも掛けるのだろう、と思っていた私は少しばかり驚いて。
ただ2人でじっと座っていた。音を立てたら、誰かに見つかってしまうみたいだった。
だけどずっとそうしているわけではない。私が顔を上げるとおねぇはじっとこちらを見ていて、思わず肩を震わせた。もしかしてずっと見ていたのか。
「ねぇ、ピアノ借りてもいい?」
「い……いいけど」
そして目が合うとすぐにそう聞かれ、私は頷いた。やった~、と言い、おねぇはピアノに掛けられた布を取る。蓋を開けて椅子に座り、足をぷらぷらと彷徨わせた。
「海歌のために弾くね!!」
おねぇは意気揚々と宣言し、そして──。
「海歌、隣に座ってもいい?」
はっ、と顔を上げる。そこには相変わらずの人懐っこい笑みを浮かべたおねぇが立っていた。
「……いいけど」
「やったぁ♡ ……さっきからずっと鍵盤見てたけど、イメージトレーニングとかしてた?」
「いや……ただぼーっとしてただけ。……てかそう思ったなら、話しかけないべきなんじゃない?」
「あっ、確かに」
しまった、と言いたげにおねぇは口を手で抑える。まあいいけど。結局それはしてなかったわけだし。……もししてたら、集中を切らされたと怒ってたかもしれない。
目の前には楽譜もある。次に出るコンクールも決まり、そのための楽譜だ。沢山の音符が踊っていて、ほぼ真っ黒。……これから私は、これを自分のものにしないといけない。
鍵盤に指を置く。しかし弾いたのは、楽譜には全く関係のない曲だった。
「あ、これ……」
「おねぇ、いつか練習してたでしょ? 歌ってよ」
有名なアイドルグループの曲。キャッチーな歌詞とSNS映えする簡単なダンスがきっかけで、あまりそういうことに興味のない私の耳にも届くくらい有名な曲だ。……歌詞が気恥ずかしくて、私はあんまり好きじゃないけど。
おねぇは椅子から立ち上がると、私のピアノに合わせて歌って踊り始める。私が気恥しいと思う歌詞も、最高の笑顔で歌ってしまって。運動神経がいいから、ステップも手の細やかな動きもお手の物だ。
私はそれを見ながら弾き続ける。おねぇと目が合って、笑い合う。
最後まで通し終わると、おねぇは大きく肩を上げ、そしてすとんと落とした。
「はーっ、楽しかった!!」
「……うん、私も」
「やっぱり海歌のピアノ、すご~く温かくて楽しくて、私大好きっ!!」
屈託のない笑みで、おねぇはそう言ってくれる。私は小さく目を見開いてから、ありがとう、と返した。
おねぇは再び私の隣に腰かける。そしてぽつぽつと、どちらからともなく色んな話をした。
最近出会った人のこと。昨日の夕食に好物が出て嬉しかったこと。この前こんな言い合いをしてモヤモヤしたこと。寝る前の空が綺麗だったこと。ピアノの黒の反射に映る景色を覗き込むのが好きなこと。
鍵盤を前に座ると、不思議と素直になれた。
「ふふっ、色んなお話聞かせてくれてありがとう!」
「……おねぇもね」
顔を見合わせて、笑い合う。なんだか気恥ずかしくてすぐに目を反らし、照れ隠しのように鍵盤を指先で撫でた。
撫でたその感触で思い出すフレーズ。導かれるように私は手を置き、そして──。
──響き渡ったのは、不協和音。思わず耳を塞いでしまった。
「なっ、下手くそ!!」
「え~、弾けてない?」
「全然弾けてない!! ……貸して!!」
私はおねぇに駆け寄り、その隣に座る。恐らく彼女が弾こうとしていたメロディを、私の指が紡ぎ出す。
「わっ、すごい!!」
「別にすごくない。おねぇが下手なだけ」
「うっ……自覚はある……」
「ほら、最初とか、手はこういう形で、ドミソ──」
おねぇと手を重ね、ピアノを教えていく。やっぱり下手だったけど、まあ最初よりはマシだろう、というくらいにはなった。
「じゃあ私伴奏弾くから、おねぇは今のメロディ弾いていって」
「はーい。……ふふっ」
「? 何笑ってるの」
眉をひそめると、だって、とおねぇはこちらに笑いかけて。
「やっぱり海歌のピアノ、すご~く温かくて楽しくて、大好きだなって思うの!!」
──私の手から紡ぎ出されるのは、あの時の伴奏。ちら、と隣を見ると、おねぇも鍵盤に指を置いていた。
ぽろ、ぽろん。音が転がって跳ねる。伴奏で受け止める。部屋の中に響く音。
2人でピアノを弾く。隣にいる存在を、誰よりも近くに感じる。今だけは、一緒に弾く貴方のことをこの世で一番理解している人間は、私だ。
花が揺れる。鳥が大海原の上を飛ぶ。風が地面を撫でる。月が夜空で輝いている。世界を手中に収めたような気分になって、飛び出す。その先にあるのは宇宙だ。宇宙の果てを見に行く。果ての先には何があるのだろう。
見に行こう、どこまでも。
「海歌」
弾き終わり、名前を呼ばれる。何? と返すと、おねぇは楽しそうに笑った。
「やっぱり海歌のピアノ、すごく良くなったよ。前も良かったけど、今もとっても素敵!!」
真っ直ぐに褒められ、頬が赤くなるのを感じる。別に、とか誤魔化しても良かったけれど。
「……ありがと」
やっぱり、鍵盤の前だと素直にならざるを得ない。
おねぇはふふふっ、と笑う。それが恥ずかしくて、私はまた鍵盤に手を置いた。
「別の曲やろうよ。また伴奏するから」
「え~、私にも弾けるやつ、ある?」
「うーん、これとかは? あんまり音階離れてないし、ほぼ同じフレーズ繰り返すだけだから」
「楽譜の読み方忘れた……」
「えぇ、もう、しょうがないな──」
私たちの音が重なっていく。重なって、どこまでも響いていく。




