第2楽章【Calor tui et mei】
昼休み。私は音楽室を借り、ピアノと向き合っていた。……直近にコンクールはないけど、練習は1日にしてならず、だからね。
まずは指慣らしから。いきなり難しい曲を弾いても、上手く動かなくて滑っちゃうだけ。だからあまり難易度は高くない、比較的簡単な曲でピアノを弾くことに慣れていく。体に「今からピアノを弾く」と合図を出す……とも言えるかもしれない。
少し迷った結果、私はこの前のバンドの曲を弾き始めた。アップテンポで楽しい曲。あくまでバンドの曲のキーボード部分だけだから、これだけ聴くと少し物足りないけど……。
あ、じゃあこんなメロディを加えてみたらどうかな。……うん、いい感じかも。じゃあここでトリルを入れて、意表を突いてみたり……。
一度考え始めたら、もう指慣らしの範疇を超えた演奏になってしまった。しかし弾き終わった感想は「楽しかった」なので、まあ良しとする。
「いい曲だな、それ」
「え……」
そこで聞き慣れた声が聞こえ、私はそちらを見る。……するとそこには、窓枠に腰かけた男子高校生の姿が。
「は、春松さん……!?」
そう、その人はおねぇ──私の姉・実幸の幼馴染である春松夢さんだった。よくおねぇの奇行に巻き込まれている、可哀想な人である……。
思わず立ち上がる私に、春松さんは優しく微笑んだ。少しだけ頬が熱くなるのが分かる。
「それ、この前海歌ちゃんが協力したっていうバンドの曲か?」
「はっ、はいっ、そうです……よく分かりましたね」
「海歌ちゃんがいつも弾かないような系統だったからな。実幸から話は聞いてたし、そうなんじゃないかなって」
流石、春松さんは頭がいい。おねぇと違って……。
「……それで、春松さんはどうしたんですか? ここ、中学校ですけど……」
「あ、そうそう。実幸を見なかったか? こっちに来てるんじゃないかと思ったんだけど」
「いえ、見てません」
「そっか。……ったく、どこに行ったんだあいつは」
「いつもすみません、うちの姉が……」
「いいんだよ、好きで傍にいるんだから」
春松さんは恥ずかしがる様子もなくさらっとそんなことを言ってのけてしまう。……毎度思うが、春松さんは何故おねぇといるのだろう。あんなに色々、彼女の奇行に巻き込まれて……それで迷惑を被ったことも少なくないだろうに。
まさか、恋愛感情が……まで考えて、首を横に振った。邪推はやめておこう。
「そういえば」
「?」
「なんかこれから色々大変かもだけど、俺も出来る限りのサポートはするから。海歌ちゃんらしくやればきっと大丈夫だよ」
「……どうも?」
彼は何やら意味深なことを言うと、開いた窓から軽く飛び降りてしまう。残されたのは、呆然と立ち尽くす私だけ。
……春松さん、すごく常識人なんだけど……おねぇに影響されてるのか、たまに真顔でとんでもないことするんだよな……。
そして春松さんの意味深な言葉は、すぐに回収されることになった。
「小波さん、頼み事をしたいんだけど、少しお時間いい?」
私が通うピアノ教室。日々のレッスンを終えた後、先生にそう声を掛けられた。
「何ですか?」
「実はね、羽場教室にバイオリンをしている女の子がいるんだけど……」
……嫌な予感。
「その子の練習を、見てほしいのよ」
「……いや、私がピアノしかやってないのを一番知ってるのは、先生じゃないですか」
「そうなんだけど、別に教えなくていいのよ。本当に、ただ見てるだけで良いの」
先生のその言い様に、思わず私は首を傾げるのだった。
詳しく話を聞いてみると、こういうことらしい。
羽場教室を運営する羽場先生の一人娘、羽場葉都さん。彼女はバイオリンをしているんだけど……極度のあがり症。知らない人の前で演奏するなんてとんでもない。
だけどバイオリンの腕はピカイチ。コンクールに出たら、間違いなく名前を残せるレベル……なのだけれど、あがり症のせいで実力も充分に出せない。
いつまでも小さな教室で弾いているだけなんてもったいない。だからまずは知らない人の前で演奏をしても問題がなくなるよう、少しずつ慣れさせていこう……ということみたいだ。
そして急に一般の人に聴かせるよりも、音楽経験者に聴かせる方が良いと思ったらしい。まあ……普通の人は、演奏が凄いと過剰に騒ぐからね……。そんなに騒がれたら、逆にあがり症をもっと促進させてしまうかもしれない。
だが教室の子はほとんどコンクールが近く、彼女の演奏を見る暇はない。それで白羽の矢が立ったのが、近くの教室に通っているかつ直近にコンクールの予定もなく、耳が肥えている私──ということらしい。
小波さんにしか頼めないの、と眉をひそめる先生に、何で私がそんなことしないといけないんですか──などと言えるわけがなかった。なんせ、先生にはいつもお世話になっている。
というわけで私は、指定された音楽スタジオにやって来ていた。
「は、初めまして……羽場葉都、です……」
「……私は小波海歌。じゃ、私は適当に楽譜読んでるから、適当に弾いてて」
「は、はい……」
私はスタジオの隅に置かれていた椅子に腰かけ、鞄から楽譜を取り出した。なるべく羽場さんの方を見ないよう、体ごとそっぽを向いて。
それを見て羽場さんもようやく動き出す。楽器ケースを置くと、いそいそとバイオリンを取り出した。
丁寧に楽器の状態を確認し、構えて──弾く。
「──!?」
私は思わず息を呑む。顔を上げなかったのを褒めてほしい。
何、これ。──凄いなんてレベルじゃない。一音目からガッと心を掴まれる。耳が勝手に音を拾おうとする。豊かな音が全身に響いて、震えが止まらない。きっと人はこれを〝感動〟と呼ぶのだろう。
なるほど、これは……「あがり症で出れないならその程度なのだろう」と、人が放っておかないわけだ。
……でも、少しだけ気になる。
弾き終わりまで丁寧に、羽場さんは演奏を終える。不安げにこちらを見つめるのが気配で分かったので、私は楽譜を閉じた。
「お疲れ様」
「ど、どうも、えっと……」
「このスタジオって、ピアノも使って良いのよね」
「え? あ、はい……」
羽場さんから確認も取れたため、私は部屋に置かれていたピアノからカバーを取り、軽く状態を確認する。まあ大丈夫そうだな、と私は蓋を開き、敷かれた布を取る。椅子の高さも調整し、鍵盤に指を置いた。
「一緒に弾くわよ」
「えっ!? えっと、私、人に合わせるとか、したことなくて……」
「音源に合わせるくらいはしたことあるでしょ。それと同じだし……」
私は羽場さんを見つめる。そこで初めて、目が合った。
「ただ一緒に弾くんじゃない。私はあんたを──食いに行く」
「!」
「あんたのバイオリンなんて誰も聴かなくなるくらいの演奏をする。だから──あんたも、私を食うくらいの演奏をしなさい。自分の音楽を、愛しているのなら」
「自分の、音楽を……」
私の言葉を、羽場さんは少しだけ考え込み──すぐに、真剣な表情になった。
私は鍵盤を押し込む。羽場さんは弓を引く。
合図もなく、演奏が始まった。
最後の一音を落とし込む。汗が流れ、手の甲に落ちた。
「……流石ね。私も全力でやったのに……ほとんどが貴方のターンになった」
「そ、そんな。そもそもこれはバイオリンの曲だし、私だって本当に必死で……」
「お互い必死でやって貴方の方が優れていた。それが全てでしょ」
「……ありがとう」
私がそう言い切ると、羽場さんは少しだけ頬を紅潮させながらそう答える。半ばバイオリンを抱きしめるような状態になり、そこで私は初めてバイオリンをちゃんと見た。……そして目を見開く。
「……それ、ストラディバリウス!? すごく高いものなんでしょ……!?」
「あ、知ってるんだ。……うん、おじいちゃんが私にくれたものなの」
そう言うと羽場さんはバイオリンを掲げて私にしっかりとボディを見せてくれる。しっかりと光沢があり、作られたのは随分と前のはずなのに、新品のような輝きを見せていた。……羽場さんの管理方法がいい、っていうのもあるかもしれないけど。
「そんな希少なものを……凄いわね」
「うん。……おじいちゃん、これをくれた時に私に言ったの。『これは、ただの高価な楽器じゃない。葉都の愛する音楽を表現するのを少し手伝ってくれるものなんだよ』って」
「……」
「だから、少し驚いちゃった。小波さん、おじいちゃんと似たようなこと言うから」
そう言って羽場さんは小さく笑う。私も釣られるように少し笑った。
「……何。だからちょっと話し方もフランクになったの?」
「えっ? ……あっ、ご、ごめんなさい! 私……」
「……いや、責めてないから。ちょっと茶化しただけ」
なんかそういう反応をされると、こっちが悪いことをしたような気分になる。そんなに真剣に言ったように聞こえただろうか……。
「えっと……とにかく、ありがとう。小波さん」
「え? 別に私、何もしてないけど」
「ううん。……私、忘れてた。確かに沢山の人の前に立つと、頭が真っ白になって不安で仕方なくて、倒れちゃいそうになるけど……私は、1人じゃない」
この子がいる。そう言って羽場さんは、バイオリンを優しく抱きしめた。
「私と一緒に音楽をしてくれる、この子がいる。──私は、1人じゃないんだ。それに、気づけたから」
だからありがとう、小波さん。そう言って羽場さんは笑う。
私は思わず少しだけ、ピアノを見る。一緒に音楽をする楽器、か……。
私はピアノだから、私専用のピアノっていうのはあんまりない。コンクールでは大抵その場にある初めてのピアノとやるから……まあ、仲間意識はあまりない。だからその感覚は、持ち運べる楽器を使う人ならではの考えなのだろう。
「……別に、それに気づかせようと言ったわけじゃないけど……結果的に何か役に立てたのなら、良かった。どういたしまして」
「海歌! 何見てるの?」
「……あ、おねぇか。……春松さんも」
ヘッドフォンをしていたら肩を叩かれ、私はそれを外すがてら振り返る。するとそこには満面の笑みを浮かべたおねぇの姿があった。そしてその後ろには、春松さんの姿もあった。
「……ちょっと、演奏動画をね」
「海歌ちゃんがバイオリン見てるの、珍しいな」
2人にスマホを渡すと、春松さんがそんな感想を告げる。……そう、スマホの中では1人の少女がバイオリンを弾いていた。逆光になっていて、顔までは見えないけれど……。というか、見えないようにする工夫みたいだ。
「これ、もしかして海歌ちゃんがこの前会ったっていうバイオリンの子か?」
「はい、そうです」
先生を通じて羽場さんから連絡が来たのだ。まずは人の顔が見えない場で人のために演奏してみたので、良ければ見てください。と。
どういうことだろう、と思ったが、動画を見せられた時に納得した。確かにこれは、人の顔は見えないが人に演奏を届けられる。
私はヘッドフォンとスマホを繋ぐ線を抜き、2人にも彼女の演奏を聴かせる。2人はじっと画面を見つめ、彼女の演奏の虜になっているようだった。
「──ん~っ!! すごい演奏だったね!!」
「だな。……大事な人に抱きしめられてるみたいな、そんな温かい音だ」
「そうだね!! 夢、いいこと言う~!!」
「茶化すなよ……」
「だって、私もそう思ったんだもん!! ねっ、海歌!!」
「いや、あんたの感想は知らないけど……温かいとは、私も思う」
1人じゃない。羽場さんのそんな声が聴こえてくるようだった。伸ばされた手を掴んで、その手から伝わる温もりが全身を巡る。初めて聴いた時の、ただ感動するだけのあれとは違う。……もちろんあれも凄かったけど、あれより今の──私の音楽を聴いて、私が傍にいるよ、と言われているみたいな音。この方がずっといい。
私は目を閉じ、その温もりに浸かるのだった。




