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進学した(超)底辺高校の特別進学科に同じく在籍した二人の同窓の“クラスメイト”――。
一人の家は私の家から全然近くない――とは言っても同じ学区内なのだからたかが知れてるのではあるが――のに親同士の仲が良かったことで顔見知りになった幼馴染の女子と、小学校の中学年頃からずっと比較的仲が良く、高校入学とともに、特別進学科であるA組の初代の学級長を務めたことで、以後卒業する迄“級長”の愛称で呼ばれることになる生徒だった。
幼馴染の女子とは同じクラスになったことがなった関係で、学校ではほぼ口をきくことなどなかったのだが、時々親同伴で私の家を訪れることがあったので、その時にはそれなりに喋ったありしていた。級長とは中学三年の時には同じクラスで、スクールカーストでいえば、私が真ん中くらいだったのに対して、彼は頂点に位置し、昼休みや放課後、それに休日等によく一緒につるんだり遊んでいるグループは異なっていたが、普段から結構話していたから仲は良く、親友とは呼べなくとも、友達と呼んでも差し支えなかったろだう。因みに、私以外の他の同じ中学のA判定は、一人は件の学区内トップの公立進学校へ、もう一人は隣県ですらない全国的名門進学校に進んだ。
高校登校初日――入学式は出席人数の多さから学校の体育館では納まりきらないので、市の体育館で行われた――は特別進学科のクラスであるA組の教室に入ると、まず名簿順に着席させられ、この学校の恒例である高校三年間で唯一全てのクラスの生徒共通(一年生で留年したらどうなったのかは知らない。この高校なら普通科にそんなのはごろごろいそうである。其の試験の後、「すぐさま」そうでなくとも「まもなく」退学したりさせられたりで、やはり一度しか受けてはいないというのもいくらでもいそうではあるし、事実いたであろう)の主要五教科のテストが行われた。特待生選抜試験は新聞社主催の模試と同じく五教科(隣県やそれ以外もそうだったのであろう)だったのだが、本番の入試自体は英国数の三教科なので、学校側としては改めて生徒全員の実力を測っておきたいのだろう。翌日には結果が出たのだが、私は総合三位(クラスで。無論全校でということにもなる)で、その日から席は成績順になり、廊下側の前から三番目の席を与えられた。
この席順は最初の期末試験までだったのだが、この間に、私は詰むことになる。
高校入学当初、私は其れ迄の様に――小学校の中学年頃からではあったが――普通に周りの生徒と仲良くしようとした。友達をつくろうとしたし、その頃にはそうすべきであり、そうあるべきだと考えていた、といよりも、そう信じていたし、そう信じて疑わなかった。級長は別として、先ずはその第一歩として、私は周りで、席の隣近所の者と仲良くしようとした。とはいったものの、その時の私の席の前後は女子であった。私が高校生だった頃、私の住んでいたような片田舎、私の年頃では、通り一遍の会話をする以外、女子と会話などするものではなかったし、私にはとても出来なかった。照れ臭くて駄目だった。女子と話すのは恥ずかしかった。ぼっちだか、にせぼっちだった頃から、根本的に私は内気だったのであろう。親が例の幼馴染の女子の家を訪れる際に、「一緒に来るか」訊かれても、決して私が「行く」と返事することはなかったし。向こうが此方に家を訪れた時にはごくありきたりなことしか話してなどいなかったのだが、それですら、話していること自体ですら、同級生などには知られたくなかったくらいだったのだから。そんなのの前後にいるのは進学して初めてお目にかかった女子なのある。とんとんと肩をつついて振り向かせて話すのも、振り返って話し掛けるにも、相当の勇気が要ったし、実際出来なかった。となると、仲良くなろうとする対象は必然と隣り――右隣りは壁を隔てて廊下なのだから、左隣りの同性ということになる。私は彼――Kに話し掛けた。仲良くなろうとした。友達になろうとした。
此れが地獄の始まりとなることになるなどとは夢にも想わずに。