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小学校の三年生だったか四年生くらいの頃から、私は人並の人付き合いをする様になり、真性のぼっちだったのではなかったのかもしれないが、取り敢えず、にせぼっちとは言ってもいいくらいのガチのぼっちではなくなっていった。友達は徐々に増え、所謂スクールカースト天辺から底辺までただ話すのに留まらず、誰とでも――何なら、不良、ヤンキーと呼ばれる者とさえ――親しく話すくらいにはなっていた。
ただ、それも中学三年生の時、中学校の卒業迄がピークだった。
私が進学した私立高校というのは、特別進学科、進学科、普通科、体育科から成る、一学年七百数十名という結構なマンモス校であった。全国的にもそれなりには名を知られた高校ではあったが、それは体育科の生徒達の活躍――幾つかの部が全国レベルの強豪校であったことに因る。全国的にはそうであったのだが、この学校のある近隣――市や県、何なら近隣の県に於いては其れ以外の部分で遥かに有名であった。この高校は基本、所謂底辺校と謂っても差し支えのないレベルの学校であり、“そういう方面”で有名だったのである。何なら数十年前には、空手部の寮で上級生の下級生に対する“可愛がり”で死者が出た事件(其の後、空手部は廃部となった)は、今に比べればコンプライアンス緩々の時代のあってですら全国ニュースになる程であったし、私が在学した当時でさえ、大半を占める普通科には、他の高校なら受け入れを拒絶されるレベルの不良・ヤンキーの類が近県からも多数在籍しており、夏休み明けには決まって何人かは警察のお世話になるという有様であった。
私は特待生選抜試験での結果によって、其の高校の特別進学科に進学した訳だが、普通科のレベルがそんなものなのだから、特別進学科といったところでたかが知れたものである。特別進学科の学力はせいぜい学区内トップの公立進学校の中位レベルというところであったろう。中位レベルという表現をしたのは、学区トップの高校が一学年二百八十人程で一位から最下位までにそれなりに学力に差があったのに対して、件の特別進学科はひとクラスのみ、進学科との入れ替えがあり期末毎に多少の人数の増減はあったが、二十五人前後というところで、件の進学校と比べれば偏差値の幅が小さかったからである。ちなみに、特待生選抜試験によって、特別進学科――特進への入学が確約されるのは、同試験に於いてC判定以上である。
私の中学から件の私立校に進学したのは、二十人とか三十人とか、おそらくそのくらいのところだったろう。「といったとことろ」――人数が随分曖昧なのは、中学を卒業する迄の間に、流石に同級生全員に「何処の高校に行く?」となどと訊いて回ったりはしていないし、高校に進学してからは、同じ学校に進学した者に会うことなど皆無だったからである。だから、同じ中学からこの高校に来ている人間を私は他に二人しか知らなかった。私の進学した先の高校は一学年七百数十人というマンモス校に相応しく、規模の割には広いとは謂えない敷地内には幾つもの校舎がひしめいて――その為、体育専用グランドというものが徒歩で二十分程の山の中に独立してあったし、野球部やサッカー部等の専用グラウンドや、全国から生徒を集めている関係で幾つかの寮も何処かにあった――いたのだが、特別進学科と進学科、及び其処の教壇に立つ教師達の職員室と校長室は一つの校舎に集約されており、必然として私の学園生活はほぼその中のみに限定されていた。もっと謂えば、進学科以外の教室には行く必要も用事も殆ど無かったし、職員室にはたまに呼ばれるくらいであったし、校長室には入学金は初年度のみであったが授業料の免除と返さなくてもよい奨学金は毎年支給された関係でその感謝を直接伝える為、担任教師に引率され、毎年一度入室するだけだったから、三階建ての其の校舎の、特別進学科のクラスのある三階だけにしか、在籍した三年間、ほぼ用が無かったのである。従って、同じ高校に通っていながらも、“おな中(学)”の顔見知りの二、三十名程には、卒業する迄、遂にお目にかかることはなかった。例外が同じ特別進学科に進学した二人だったという次第である。
結局、中学卒業以来、その二、三十名とは誰とも、何なら同級生の誰にも、遭うことはなかったし、会ってはいない。
特別進学科に在籍した“クラスメイト”の二人とは高校卒業の少し前から。