プロローグ
『ささやかな日常』には姉妹作があるということをお話ししたと思いますが、本作がそれにあたります。時系列的に“姉”にあたりますが、あの“妹”からして、まさかこんな“姉”、こんな物語だとは、“彼女”にいたのは“妹”でなく、“姉”であり、而もこんな様だったとは誰も予想がつかなかなかったと思います。“妹(前作)”では身体のそこかしこがぶっ壊れていて、“姉(本作)”では精神がそれ以上に酷く破壊されて逝くという……。
プロローグ
遮光カーテンで閉ざされた昼とも夜ともつかいない闇の中、眼を覚ます。
「………………」
少し見上げてから、ゆっくりと深く俯き、改めて頭から布団を被って潜る。
今日も何もしたくない。
何もしたくなんかない。
というよりも、本当は「今日も」なのかも解らない。
今日って一体何時のことなのか?
果たして、どのくらい眠っていたのだろうか? 人並に六時間だったり七時間だったりならば、「今日も」でよいのだろうが、さっき寝ていたのが、数分だったのか、一時間なのか二時間なのか、半日だったのか? 若しかしたら、一日二日以上だったのかもしれないのだが、そんな感覚などとうにもう何処かへ逝ってしまった。
どうでもいい。
どうでもよかった。
だから、それを確認しようともしない。
確認する気になどとてもなれないのだから。
どうだっていいのだから。
だが、それは怠惰ではあっても、怠惰とは別のものであろう。
携帯に着信があったのか、メールが届いているのか、を確認することですら、苦痛でしかしかない。誰からなのか、何処かからなのか、いずれにしろ、そこから私に告げられることなど…………。だから、電話の着信音などは耐えられない恐怖すら覚えてしまう。それは外部に繋がることに他ならないのだから。ただ只管に頑張って、頑張りに頑張り抜いて、外部に繋がろうと勇気を振り絞り、絞り抜いたことに対する返信――ただ単なる結果の通知だって含まれているのかもしれないのに、この体たらくである。
自己嫌悪。
其れしか無い。
そんな自分が嫌で嫌で堪らない。
そんなふうだから、戸外に出ることなど謂うに及ばずである。
それどころか万年床から起き上がることですら。
泥酔しているからというのでなければ、ダウナー系のヤク漬けになっているのでもない。私は素面だしヤク中でもない。だからといって、今のこの様は、特に落ち込んでいるからというわけでなければ、特別に悲しいことがあったからというわけでもない。今のこの状況は“特に”や“特別に”等ではない。
違うのだ。
これが私の通常なのだ。
現在の状態が病気かなのかと謂われれば病気なのだろう。
但し、肉体のではなく精神の。
……私は恐らく病んでいる。
否、完全に精神を病んでいるのであろう。
そして、此れこそが私…………。
私なのである。
こんな様が、私というものの常態なのだ。
…………惨めである。
いや、何という惨めさであろうか。
生きていたいとは思えない。
到底、思えやしない。
そんなふうに感じられる筈が無いではないか!
だからといって端から、私はこんな様であった訳では無いのだ。
私がこうなるに至った嚆矢、恐らくはそれは…………。
そんなものは極めて明瞭だ。
それ以外には、有り得ない。
『ささやかな日常』で“私”の身体のそこら中が壊れていたのとは結構繋がっています。幾らかは其処に起因しています。
そして、“私”に於いて最もぶっ壊れていて重篤なのは実は体ではなく心です。
姉妹作に於いては相当ましになってはいますが、かなり強い眠剤を使わなければ、薬事法で違反にならない上限まで強力な眠剤を飲まなければ、“私”は未だにまともに寝られませんし……。それ以外にも……。