7.はじめてのお使い
「地図、覚えた。お金、持った。身なり、整えた」
屋敷の勝手口で、幾度となくそんなことを繰り返す。緊張で喉が渇いてきたので、いったん厨房に行って水を飲んだ。
「……そろそろ行かないと……でも、やっぱり緊張するなあ……」
わたしはこれから、お使いに行くのだ。リトラーの屋敷が建つ丘、そのすそ野に広がる町へ。ようやくガートルードの許しが出たのだ。
そうして準備を整え、あとは出かけるだけ……となったところで、わたしは思いっきりしり込みしてしまっていた。
生まれて初めて人間の町に足を踏み入れた時のわたしは、それはもう浮かれていた。見るもの全て珍しくて、楽しくてたまらなかった。でもそのせいで、人さらいに捕まってしまった。
この屋敷で過ごして、ガートルードから色々なことを学んだ今のわたしには分かる。あの時のわたしは、無用心にもほどがあったのだと。
「……またさらわれたらどうしよう……」
前の時は伯爵様のおかげで助かったけれど、次も同じように親切な人に出会えるとは限らない。もっと恐ろしい目にあうかもしれない。
そこまで考えたところで、はたと我に返る。
「……って、さらわれないように気をつけるのが先よね。うん、覚悟を決めて行こう」
両手でぱんと頬を叩いて、気合を入れる。背筋を伸ばして、屋敷を出ていった。
丘の下の町は、前に見た町よりも落ち着いた感じの、ほっとする雰囲気の場所だった。
ここの町は歴史ある町なのだと、そうガートルードが言っていた。確かに、長い間波に洗われた大きな岩のような、どっしりとしたたたずまいの建物が多い。
ただ、気のせいか……行き交う人たちがちらちらとわたしのほうを見ているような。
前の時よりは自然にふるまえているはずなんだけど、それでも目立つのかなあ。人間のふりって、難しい。
動じていないふりをしながら、少し速足で目的地に向かう。今日行くのは、食材を取り扱っているお店だ。
屋敷で必要なものは、お店と契約して定期的に運んできてもらっている。食料とか薪とか炭とか、あとは馬の飼い葉とか。
でも時々、次の補充が来る前に切らしてしまったものや、急に必要になったものなんかをこうやって町に買いにいくのだ。
教わった通りに道を歩き、その店を探し出す。そこは飾りのない箱のような建物で、入り口には両開きの大きな扉がついていた。今は大きく開け放たれていて、中がよく見える。
「あの、買い物にきたんですが……」
消え入るような声でそう言いながら、そっと入り口に近づいた。中に並んでいるのはかごに入った様々な野菜に、果物、そして香辛料。ここは青果店というらしい。
「あっ、いらっしゃい!」
すぐ近くで元気な声がして、びっくりしてしまう。弾かれたようにそちらを見ると、女の子が一人立っていた。
年の頃はわたしと同じくらいかな。赤みを帯びた綺麗な金髪と、ぱっちりした青灰色の目の可愛い子だった。
「その服、リトラー様のところの子? 初めて見る顔ね?」
わたしが仕えているあの仮面の人のことを、わたしたち使用人は『伯爵様』と呼んでいる。でも町の人たちは、『リトラー様』と呼ぶことが多いのだとか。
「あ、あの、ええと、こないだ雇ってもらったところなので」
「そうなんだ。私はヒルダっていうの、昼はここで働いてるから。年いくつ? 綺麗な髪ね、隠すのもったいなくない?」
立て続けに話しかけられて、とっさに返事ができない。ヒルダ、とっても元気だ。
「おーいヒルダ、メイドさんが困ってるぞ。人懐っこいのはいいんだが、少しは手加減しろや」
店の奥から、中年男性が苦笑しながら口を挟んでくれた。とってもたくましい体に短く刈り込んだ髪の男性だ。着ているもののあちこちに、土の汚れがついている。この人が店主かな。
「あはは、可愛い子だったからつい。ごめんね、驚いた?」
ヒルダはちろりと舌を出して笑い、わたしに頭を軽く下げた。
「あ、驚いたのは驚いたけど、大丈夫だから」
そんな彼女に、ひとまずそう答える。小さく息を吸ってから、さらに続けた。
「わたし、ニネミアです。十七歳。髪……は目立つから隠しておけって、伯爵様が」
屋敷の中でならともかく、町に出る時はきちんと髪を隠しておいたほうがいい。ガートルードにそう言われたので、一応布をかぶってきたのだ。
でもやっぱり、伯爵様からもらったスカーフをそのままかぶるのはもったいないと思えてしまった。スカーフ自体が素敵なものだったし、伯爵様からもらったというのが、何だか嬉しくて。
なので今は、木綿のスカーフを頭に巻いている。ごくありふれた、でも何だか落ち着く手触りのスカーフだ。
「わあっ、同い年だ! 嬉しい!」
ヒルダはやけに嬉しそうだ。にこにこと笑っているけれど、何だかちょっと圧倒されてしまう。
そうしたら、彼女はさらに戸惑うようなことを言った。何の前置きもなく。
「ねえニネミア、だったらお友達にならない? 私、あなたと仲良くなりたいな!」
「え、えっと?」
予想外の流れにきょとんとしていたら、また店主が割り込んでくれた。
「ヒルダ……お前、いったい何人の客を友達にしたら気が済むんだ?」
「だって、素敵な子がいたら友達になりたいって思うの、普通だよ?」
「お前の『素敵な子』は範囲が広すぎるんだよ。小さな子供から爺さん婆さんまで、無差別にたらし込むんだからなあ」
「たらし込んでなんかないってば。友情に年齢なんて関係ないの」
二人の親しげな掛け合いを眺めているうちに、ようやくさっきのヒルダの言葉が頭に入ってきた。
彼女は、わたしと友達になりたいらしい。というか、どうも彼女は色んな人と友達になりたいらしい。伯爵様は不思議な人だけど、ヒルダも面白いかも。
店主と話しているヒルダの横顔を、こっそりと見つめた。ころころと表情を変える、生き生きとした女性。
……わたしも、友達になりたいかも。初対面の人間に気を許しすぎるのは駄目だって学んだけれど、でも伯爵様もガートルードもいい人だった。そしてヒルダも、やっぱりいい人に見える。
それに、お屋敷で親しくなれたのは結局ガートルードだけだったから、なおさら友達が欲しかった。
あれからわたしは、他の使用人たちにも頑張って話しかけてみた。けれど、どうにもうまくいかなかった。人魚族のことをばらさないようにと気を張っているのがよくなかったのかもしれない。
みんな、普通のあいさつとかちょっとした世間話はしてくれるようになったのだけれど、それだけだった。打ち解けるにはもう少し時間がかかりそう。
「……あ、あの」
小声でそう言ったら、二人が同時に口をつぐんでこちらを見た。息ぴったり。
「……わたしも、ヒルダのお友達に……なりたいです」
ヒルダが歓声を上げて、わたしに抱き着いてきた。わわ、どうしよう。
「あんたがそれでいいなら構わないが……ヒルダは見ての通り元気すぎるくらいに元気だから、振り回されないようにな。ヒルダ、ニネミアちゃんが戸惑ってるぞ」
店長が苦笑しながら口を挟んでくれた。さっきはメイドさんって呼んでいたのに、いつの間にかニネミアちゃんになっている。
親しみを持ってもらえたのかなとは思うけれど、ちょっとくすぐったい。
「さて、それよりそろそろ用件を聞こうか、ニネミアちゃん。お使いにきたんだろう?」
用件。あ、ヒルダに気を取られて忘れそうになってた。
ポケットから紙を取り出して、そこに書かれている品物を順に読み上げていく。不慣れな人間の文字を、ゆっくりと。
人魚族と人間は、不思議なことに言葉は通じる。でも当然というか、使う文字は別なのだ。
海の城では、学者たちが人間の文字を研究していた。わたしも学者にお願いして色々教わったので、一応基本の読み書きくらいはできる。
そうしてわたしの注文を聞いた店主が、気遣うような視線を投げかけてきた。
「よし、すぐにそろえよう。ただ結構な量になるなあ。一人で持つのは厳しいんじゃないか?」
「大丈夫です。荷物を持つのは、お屋敷の仕事で慣れてますから」
「とはいえ、その細腕にこの大荷物はなあ」
店長は、わたしの心配をしてくれているらしい。わたし、そんなに力がなさそうに見えているのかな。
わたしの尾びれの強さは中々のものだって、海の城のみんなはそう言っていたけれど。メイドとして働き始めてからも、力持ちだってガートルードに褒められたし。
「あっ、だったら私が手伝うよ! 親父さん、ちょっと配達行ってきますね!」
元気よくそう言って、ヒルダが手を挙げた。すかさず、店主が混ぜっ返す。
「とか言って、お前はリトラー様のお屋敷が見たいだけだろうが」
「あっ、ばれた? だって、リトラー様のお屋敷に出入りできる人間って、すっごく限られてるんだもの」
「リトラー様の人嫌いは、かなりのものだからなあ」
そんな二人の会話に、こっそりと首をかしげる。伯爵様の人嫌いは、町でもよく知られているらしい。
本当にどうして、伯爵様はわたしをメイドとして雇ってくれたのだろう。行く当てのない娘を気の毒に思ったのなら、町で暮らせるようにしてやればいいだけなのに。
「そういうことだから早く荷造りしてよ、親父さん! 私とニネミアの二人で持つから、その辺も考えてね」
「あいよ。まったく、雇い主をこき使う看板娘なんて、聞いたことがないぞ」
そんなことを元気よく話している二人をそっと見守る。友達。人間の友達。初めてだ。
自然と笑みが浮かぶ。そうしている間も、二人の陽気なお喋りは続いていた。