6.ご主人様は不思議な人
そんなこんなで、すっかりメイドの仕事にも慣れた。毎日朝から晩まで、元気に働く。
お金ももらえた。お給金、と呼ぶらしい。ようやく人間らしい立ち居ふるまいには慣れてきたけれど、まだお金の感覚についてはよく分かっていない。
けれどガートルードは、もうそろそろ町へのお使いの仕事を頼めるかもと言っていた。
そうすればもっとたくさんの人と顔を合わせられるし、買い物を通じてお金の感覚を身に着けることもできるだろう。
うん、どんどん前に進んでる。この調子で頑張れば、そうかからずに故郷を探す旅に出られる……と思いたい。
そうやって気合も新たに頑張ろうとしてたわたしのところに、またしても別の問題がやってきていた。
「ニネミアさん、ちょっといいでしょうか」
ある日、掃き掃除をしていたわたしをガートルードが呼び止めた。そのまま、彼女の部屋に連れていかれる。
そこはわたしが使っている部屋に負けず劣らず質素で、飾り気のない部屋だった。
彼女はわたしに椅子を勧め、自分も別の椅子に腰を下ろす。そうしていつもよりちょっぴり慎重に口を開いた。
「……一つだけ、あなたの耳に入れておいたほうがいいことがあります」
わざわざ呼び出して話すということは、よほど深刻な話なのだろう。ひざの上に置いた手を、ぎゅっと握りしめる。
「……あなたは、この屋敷の使用人たちに自分がどう見られているのか、知っていますか?」
ええっと、知らない。そもそも他の使用人とは、あまり話していないから。
こちらから話しかけていいのかな、でもうっかり話してぼろが出たら大変だななどと悩んでいたら、話さないまま日にちが過ぎていたのだ。
首をかしげるわたしから目をそらし、ガートルードは小声でつぶやいた。彼女にしては珍しい態度だった。
「…………『不思議なお嬢さん』です」
不思議な、お嬢さん。合っていると思う。何か問題があるのかな、それ。
きょとんとしていたら、彼女はそっと苦笑した。あ、わたしが最初の頃に道具の名前をいちいち聞いていた時とおんなじ表情だ。
「あなたはどこか浮世離れしていて、言動も少々変わっています。それでいて、どことなく品格のようなものを漂わせているというか……とにかく、謎めいているんです」
そうかなあ。わたし、別に普通だと思う。……それとも、人魚族の普通と人間の普通って、ちょっと違うのかな。
「私はもう慣れましたが、みなは……」
ふうと小さくため息をついて、ガートルードはまっすぐにわたしを見た。
「一応、あなたについてあれこれと噂していた者については、私から釘を刺しておきました。ですがあなたのほうでも、対策をお願いします」
「対策、ですか?」
「こういったことを放っておくと、いずれ大きなもめごとになってしまう可能性がありますので」
「は、はい! ……あの、対策って、何をすればいいんでしょうか?」
勢いよく答えて、それからおずおずと尋ねる。ガートルードはかすかに微笑んで、対策について教えてくれた。
それから少し後、休憩時間になったわたしは、ずんずんと屋敷の中を歩いていた。
他の使用人と積極的に交流すべし。ガートルードからのそんな忠告に従って。
いつも仕事をしている辺りを離れて、もっと奥のほうへ行ってみる。誰か手の空いていそうな、話のできそうな相手を探して。
この屋敷で働いている人間の名前は、一応全員分知っている。でも、誰がどこで働いているのか、何をしているのかはよく知らない。
とにかく歩き回っていたら、そのうち誰かに出くわすだろう。
そうやって突き進んでいたら、中庭に出た。こんな奥まったところに中庭があるなんて、知らなかった。
その中庭はやけに広く、そして植えられている植物も何だか変わっていた。
いつも掃除をしている廊下のすぐ近くに別の中庭があるけれど、そちらとはまるきり雰囲気が違う。
とても広く、にぎやかでごちゃごちゃしていた。色とりどりの魚が泳ぐサンゴ礁みたいな場所だなと、そう思った。
不思議なところに出ちゃったなあ。そう思いながら中庭の端で立ち尽くしてきょろきょろしていたら、妙なものが目についた。
「……ウニ?」
わたしの足元すぐ近くを、変なものが歩いている。それは、とげを寝かせたウニに似た何かだった。かがみ込んで、近くでじっくりと見てみる。
「……じゃなくて、ネズミ?」
よく見るとそのウニのような何かには小さな手足があって、鼻面の長い可愛い顔もくっついていた。短い手足をせっせと動かして歩いているさまは、見ているだけで和む。
「……不思議な生き物……可愛いけど、なんていうのかしら?」
「それはハリネズミという。私が買い取った、変わった生き物の一匹だ。この中庭は、そういった生き物の住処になっているんだ」
独り言に、いきなり後ろから返事があった。その声に、思わず飛び上がりそうになる。
この声、伯爵様だ。誰か話せそうな人に出会わないかなって思ってたけど、伯爵様に会っちゃうなんて。
ぱっと立ち上がって、振り返る。仮面を着けた伯爵様が、思ったよりも近くにたたずんでいた。彼はハリネズミに、驚くほど優しい視線を向けている。
「あの、その、わたし、今休憩中で……」
「そうか。ここに来るのは構わない。ただ、生き物たちにうかつに触れないほうがいい。そのハリネズミも、うかつにつつくと針を立てるぞ」
「……ハリネズミ……? 針を立てるって……やっぱり、ウニだ……」
「ウニ?」
ついうっかりつぶやいてしまった言葉に、伯爵様がきょとんとする。
どうやら伯爵様はウニを知らないらしい。ああいえ何でもないんですと、にっこり笑ってごまかした。
「ところで、ガートルードから聞いている」
不意に、伯爵様が顔を引き締めた。もしかすると、また深刻な話になるのだろうか。覚悟して聞かなくちゃ。
緊張しながら姿勢を正す。そんなわたしを見た伯爵様の口元に、小さいけれどはっきりと笑みが浮かんだ。
最初に会った時からは想像もつかないほど穏やかで明るいその笑顔に、つい目が吸い寄せられる。
「……君はいい働きをしているそうだな。助かる」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。まだ彼の笑顔に見とれていたのもあるけれど、それ以上に、その内容に驚いてしまったから。
伯爵様は、しぶしぶわたしをここに置いてくれた。行く当てがないからとわたしが泣きついたから、仕方なく。
そもそも伯爵様は人嫌いで。こんな風にわたしに優しい言葉をかける理由なんてないはずで。
こんがらがった頭で、ひとまず言葉を返す。ええと、褒めてもらったんだからお礼を言わないと。
「いえ、助かっているのはわたしのほうです。住むところに、仕事ももらえて……」
「気にするな」
以前より、伯爵様の態度が柔らかい気がする。仮面のせいで表情がよく分からないけれど、間違いない。
わたしは、前にも何回かこんな雰囲気の伯爵様を見たことがある。といっても、面と向かって見るのは初めてだけれど。
伯爵様は、ガートルードと話している時だけちょっぴり雰囲気が違うのだ。あくまでも勘でしかないけれど、伯爵様はガートルードのことは嫌っていないのだと思う。
そして今伯爵様は、わたしにもその柔らかな雰囲気を見せてくれた。一対一で、わたしのほうを向いて。
……もしかしたら、伯爵様はわたしのことも嫌いじゃなくなってきた、とか。
だったら嬉しいな。今まで伯爵様と話したことはほとんどないけれど、でも彼はわたしの恩人だから。人間だからって嫌われたままっていうのは、ちょっと寂しいし。
あれ、でもわたしは人魚族だから人間じゃなくって、でも今は人間のふりをしていて……。またこんがらがってきちゃった。いいや、今は素直に喜ぼう。
ところで……今なら、彼に尋ねることもできるかな。一つ、ずっと気になっていたことがあったのだけれど、面と向かって聞いていいのかなってためらっていたのだ。
「……あの、ついでに一つ、聞いてもいいですか?」
おずおずと切り出すと、伯爵様は小さくうなずいた。ほっとしながら、さらに続ける。
「わたし、伯爵様にどれだけお金を返さないといけないのでしょうか?」
ふっと、会話が途切れる。伯爵様の動きが止まった。かすかに口を開けたまま、ぽかんとしている。わたしが何を言っているのか分からない、といった顔だ。
沈黙が流れる中、とても大きな蝶がわたしたちの間をひらひらと通り抜けていった。
顔をすっぽり隠せるんじゃないかってくらいに大きな蝶だ。白くてうっすら緑色がかっていて、とても綺麗。
ついつい蝶を目で追いかけてしまうわたしと、ようやく我に返ったらしい伯爵様。彼は視線だけで、もう少し説明しろとうながしてくる。
「えっと、伯爵様は人さらいからわたしを買い取ってました。あのお金、たぶんわたしが頑張って伯爵様に返さないといけないと思うんです。それで、どれくらい貯めたらいいのかな、って」
そう言うと、伯爵様はまたしてもぽかんとした。それから大きく息を吐いて、困ったような声で答えてくる。
「……律義だな。そんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。気にしなくていい。……だが、その気持ちだけは受け取っておく」
「でも……たくさん助けてもらっているのに、何もしないなんて……何か、お礼がしたいなって思うんです……」
「そう思うのなら、少しでも早くここから出ていってくれ。それが、一番の礼だ。私は、人間が苦手だ。……君は案外面白い人物のようだが、それでも……」
伯爵様はそのまま、ぷいと横を向いてしまう。彼の視線の先には、広くて不思議な中庭。茂みから子犬くらいの鹿が現れて、軽やかに走り抜けていった。
彼の言葉は、本来なら歓迎すべきものなのだと思う。お金を返すことを気にしなくていいのなら、その分早くここを出ていける。故郷の海を探しにいける。
それは理解できたのだけれど、でも、納得できなかった。自分でも何に引っかかっているのかよく分からなかったけれど、妙にもやもやした。
伯爵様の黒い髪が、日の光を受けて星空のようにきらめいていた。
わたしはそれを、何も言えずに見つめていた。言葉にできないもどかしさを抱えたまま。