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5.メイド生活、はじまります

 そうしてわたしは、気持ちも新たにメイドとして頑張ることになった。


 朝起きて、まずはメイド服に着替える。真新しいメイド服と靴は、ちょっと慣れない肌触りだけれど可愛かった。


 動くたびに、たっぷりとした長いスカートがひらひらとひるがえって楽しい。初めての感覚に、つい何回もくるくると回ってしまった。


 人魚族の服は、主に特殊な海藻を加工したものだ。薄いけれど強い生地で、つやつやと輝いているのが特徴だ。


 けれど人間の服はもっと柔らかくて、しっとりと肌になじむ。


 違いはそれだけじゃない。わたしたちの服は、泳ぐ邪魔にならないように丈は短い。


 というか、わたしたちは日常的に割と肌を出している。わたしが地上に出る前に着ていたワンピースも、筒に肩紐をつけただけの簡単な形だ。


 でも人間の服は、とにかく肌を覆い隠すようにできている。


 このメイド服も、手首までの袖ときっちりとした襟を備えているし、スカートは足のほとんどを隠してしまっている。ちょっと息苦しい気もするけれど、慣れないと。


 慣れないといえば、この頭飾りもそうだ。戸惑いつつ頭の上に伸ばした手に、ひらひらとした布の感触。


 屋敷の中だけの仕事なので髪は隠さなくていいとのことだったけれど、メイドはこの不思議な頭飾りを着けることになっている。


 泳ぐ邪魔になるので、人魚族は頭に何かを着けることもほとんどない。お祭りの時の花冠くらいかな。


 ちなみに、伯爵様からもらったスカーフは大切に取っておくことにした。とってもすべすべで綺麗で、普段使いにするのはもったいなかったし。


 そうして身なりを整えたら、次は仕事を覚えていく。


 まずは、厨房の使い方を教わった。この屋敷には料理人がいないので、料理はメイドが作るのだそうだ。


 それを聞いた時、ふうん、そうなんだと思った。平然としていたら、ガートルードがちょっと目を見張った。どうしたのかな。


 けれど、彼女が戸惑っていたのは一瞬のことだった。彼女はわたしを連れて厨房に入り、設備や道具について説明を始める。


 それを聞きながら、海の城のことをまた思い出す。


 海の城には、世話係と呼ばれる人たちがいる。わたしたちの食事は、その人たちが作ってくれていた。


 でもわたしは時々厨房に出入りして、世話係たちのお手伝いをすることもあった。


 だから、海の城の厨房についてはそれなりに知っている。でも人間の屋敷の厨房は、当然ながら海の城のそれとはまるで違っていた。


 まず、人間の厨房にはかまどがあって、火が燃えている。そのことがとっても新鮮だった。


 わたしたち人魚族は水の中で暮らしているから、基本的に火と縁がない。普段の料理は生か、あるいは水の魔法で出した熱湯を使った煮物が主だ。


 どうしても火を使いたいのなら、城の一角にある空気をため込んだ特別な部屋を借りるしかない。それか、城を出て無人島に向かうか。


 でも危ないから、城の中での火の使用許可は中々下りない。無人島はちょっと遠い。そしてどちらにせよ、燃やすものを探してくるとか、火傷しないように気をつけるとか、注意することはたくさんあるのだ。


 だからわたしは、火を見るのは久しぶりだった。確か、最後に火を見たのは去年のお祭りの時だったかな。焼き魚を作りにいく人たちに混ざって、無人島に行ったんだった。


 お祭りの焼き魚、おいしいんだよね。年に数回しか食べられないから、余計に。


 そんな風に時々遠くに思いをはせながらも、ガートルードに教わりつつ料理を覚えていく。毎日毎日、少しずつ。


 最初は彼女の作業を横で見て、それから彼女の手伝いをして。そうして慣れてきたら、今度は彼女に手伝ってもらって料理を作ってみる。


 人魚族の厨房と人間の厨房は、かなり違っている。けれどやることは同じだ。切って熱を加えて味をつけて、おいしくする。それだけ。


 あ、でも、手に入る食材もやっぱり違う。海の城で主に食べられているのは、魚と貝とエビとカニ、それに海藻。


 無人島に自生する植物を採ったりもするけれど、これは特別な日のごちそう用。


 ところが人間の食卓には、というかこのリトラーのお屋敷では、海の食べ物はほとんど出てこない。


 肉に卵に乳、どれも地上に来て初めて食べた。ちょっと独特の匂いがあるけれど、慣れたら気にならなくなった。わざわざ育てているという数々の野菜も、色んな種類があって面白い。


 そうやって頑張っていたおかげで、じきにわたしはガートルードの手を借りずに料理を作れるようになった。といっても、本当に簡単なものばかりだけど。


 ベーコンとかいう塩味の肉と、卵を焼いたベーコンエッグ。お気に入りの料理だ。半熟のとろっとした卵と、ベーコンの脂がとっても合う。


 海の中でも鶏が飼えたらいいのに。できあがった料理をガートルードと半分こして食べながら、そんなことを思う。


 お母様を説得して、空気部屋を一つ借りようかな。お父様は地上のこととなると目くじら立てて怒るから、口説き落とすならお母様だ。


 でも、そんなところで飼われたら鶏がかわいそうかもしれない。空気はあっても、あそこは地上とは全然違うから。


 あーあ、どうして人魚族と人間は分かり合えないんだろう。仲良くなれたら、卵を譲ってもらうこともできると思うのに。


 とはいえ、それが難しいことも分かってはいる。人間の中には、人さらいなんてものもいるのだから。


 あっちにも事情はある。人さらいの一味の、ウツボのおばさんの言葉がよみがえる。こうでもしないとみんな飢えてしまうから。おばさんはそう言っていた。彼女なりに、必死だったのだと思う。


 でも人魚族の側からしたら、ウツボのおばさんは同胞をさらった憎むべき相手、ということになる。


 お父様がこのことを知ったら、地の果てまでも追いかけていって報復しそうだ。お父様ときたら、地上のことはこの上なく怖がっているのに、わたしのことをとても大切に思ってくれているから。


 そんなことを考えていたら、自然と食事の手が止まる。なんだか、悲しくなってしまった。お父様とお母様に会いたい。海に帰りたい。


 しょんぼりと目を伏せたら、向かいからガートルードの声がした。いつもと同じように落ち着き払っているけれど、いつもよりほんのちょっと明るくて、優しい声だ。


「ニネミアさんは、思っていたより家事に適性があるようです」


「……そう、ですか?」


「はい。最初は道具の名前すら知らないようでしたが……このベーコンエッグはとても上手に焼けています。この短期間でここまで成長するとは思いませんでした」


「わあ、嬉しいです!」


 ガートルードに褒められた。わたしにも人間の家事ができるようになった。


 その事実に、落ち込んでいた気持ちがぱあっと明るくなる。喜びのあまりぴょんと跳ねるように立ち上がってしまって、ガートルードに驚かれた。


 あ、いけない。ここに来てからずっとガートルードや他のメイドたちをじっと観察していて気づいたのだけれど、どうも人間の女性はこんなふうにはしゃぐことはあまりないらしい。人魚族では、普通のことなんだけどなあ。


 元通り着席して、行儀よく背筋を伸ばす。そんなわたしに、彼女はまた声をかけてきた。


「……これからは、もっと色々な料理を教えましょう。教えがいがありそうです」


 やった、人間の料理って面白いから気になってたんだ。嬉しくてまた立ち上がりそうになり、懸命に踏みとどまる。


 向かいに座っているガートルードの切れ長の目元が、少し和らいだような気がした。




 メイドの仕事は、炊事だけではない。掃除と、洗濯についても教えてもらった。


 それ以外にも、町へのお使いという仕事もあるらしいのだけれど、それはわたしがもっとここに慣れてから、らしい。


 掃除と洗濯はそんなに難しくなかった。でも、どちらも水を使う作業だし、水の魔法を使ったほうが早いなあと、ついそんな考えが浮かぶ。


 ガートルードの目を盗んで、こっそりとなら……そこまで考えて、自分の頬をぱちんとはたく。


 人間は魔法を使えない。海の城にあった資料にはそう書かれていたし、今まで見てきた感じから言っても、それは合っている。


 こんなことでうっかり正体がばれたら大変だ。ここを追い出されたら、それこそ行き場がなくなってしまう。


 だからこつこつと、地道に真面目に頑張ることにした。それにこういうのも、慣れてくるとちょっと面白いし。


 そうやってある程度仕事になじんできたけれど、それでもまだ分からないことはたくさんあった。特に、物の名前とか。


 そのたびにガートルードに尋ねることになってしまってちょっと心苦しかったのだけれど、彼女はいつも簡潔に、しかし丁寧に教えてくれていた。わたしが世間知らずで的外れなことを言ってしまった時も、馬鹿にすることなく説明してくれた。


 彼女のことが、最初はちょっと怖かった。けれど、もう怖くない。氷のように冷たく見える彼女の顔に浮かぶわずかな表情を、わたしは読み取れるようになっていたから。




 そうやって過ごしているうちに、十日ほどが経っていた。毎日が忙しくて楽しくて、あっという間だった。


「それではおやすみなさい、ガートルードさん」


「はい、おやすみなさい。今夜は珍しく冷えそうです。風邪をひかないよう、予備の毛布も使うとよいでしょう」


 一日の作業を終えて、わたしとガートルードはそれぞれの部屋に下がっていった。


 貴族の屋敷では普通、たくさんの使用人が住み込みで働いているものらしい。そういえば海の城にも、色んな仕事をする人魚たちが寝泊まりしていた。世話係とか、学者とか。


 でも、このリトラーのお屋敷で暮らしているのは、当主である伯爵様、メイド長であるガートルード、そしてわたしの三人だけだ。


 それ以外のメイドとか、あと庭師とか荷運びの男たちなんかは、みんな外から通ってくる。料理人がいないので、わたしたちの朝食と夕食はガートルードが、みんなの昼食は通いのメイドたちが作っている。


 こんな体制になっているのは、ひとえに伯爵様の人嫌いのせいなのだとか。ガートルードがこっそりと、そう教えてくれた。


 わたしがさらわれてきた日、伯爵様はとにかくさっさとわたしを追い出そうとしていた。あれも、余計な人間と関わりたくないという伯爵様の考えによるものなのだとか。


 ただそうやって伯爵様の人嫌いについて説明している時のガートルードは、ちょっと不思議な表情をしていた。なんだろう。やんちゃな弟を心配しているお姉ちゃんのような目、かな。


 そんなあれこれを思い出しながら、自室で大きく伸びをする。今日も一日働いたし、もうくたくただ。


「伯爵様……やっぱり、不思議な人」


 メイド服から寝間着に着替え、ベッドに座って首をかしげる。


「わたしをこうして住まわせてくれたし、本当に人嫌い……なのかなあ」


 帰れなくなって困り果てているわたしを助けてくれたし、伯爵様は悪い人じゃないと思う。分からないことは山ほどあるけれど。


 それにガートルードの口ぶりからも、彼女が伯爵様のことを大切に思っている、信頼しているということがうかがわれた。


 彼女は賢くて有能で、周囲のことをよく見ている。それに、とっても親切だ。他の使用人たちについて色々と教えてくれたのも彼女だ。


 そんな彼女が信頼しているのであれば、やっぱり伯爵様もいい人なのだろう。そう結論づけて、大きくうなずく。


「人嫌いでも、助けてもらったことに違いはないもの」


 ぴょんと立ち上がって、窓辺に近づく。よいしょと窓を押し開けて、身を乗り出した。


「とにかく、明日も頑張ろう!」


 窓枠に手をかけて、ぐっと身を乗り出す。わたしの髪が夜風になびいて、ふわりと広がった。まるで海の波のように。


 お父様、お母様、心配しているんだろうな。わたし、ここで頑張ります。そしていつか、ちゃんと帰ります。


 どっちにいるのかすら分からない両親に向かって、そっと祈りを捧げる。


 屋敷がある丘の下には、人々の家の明かりが星のように散らばっていた。

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