4.親の心子知らず
「……帰れない、だと?」
驚きもあらわに、伯爵様が問いかけてくる。こくんとうなずいて、そのまま足元を見つめる。
「そんなに遠くからさらわれてきたのか? 君の故郷の名は?」
「……分かりません」
わたしたち人魚族は、海の中のあちこちに分散して住んでいる。それぞれの地域を示す呼び名はあるけれど、もちろん人間には通じない。
そして逆に、わたしは人間たちの町の名前を知らない。最初に足を踏み入れたあの町がどこにあるのかも知らない。
故郷の海の近くまで行けば、潮の匂いで分かるとは思う。でも、どの海岸に向かえばいいのだろう。それ以前に、海岸がどっちにあるのだろう。
ここは海から遠い。空気の匂いで、それだけは分かっていた。
「何か、故郷について覚えていることはないのか」
「海のそば、ということしか……」
「だったら、君がさらわれた町まで馬車で送ってやろう。そこからなら、自力で帰れるだろう?」
「……町の名前、知らないんです……ふらふらしていたら、たまたまたどり着いたので……」
話しているうちにどんどん情けなくなってしまって、必死に唇を噛む。そうしていないと、泣き出してしまいそうだったから。
じっと床を見つめ続けていたら、心底嫌そうな伯爵様の声が上から聞こえてきた。
「……人さらいたちはここの領民ではないし、今はもうどこにいるやら……まったく、面倒なことになったものだ」
伯爵様は、わたしにここにいて欲しくないと思っている。だから、さっきからどうにかして帰そうとしている。馬車を出してまで。
そのことは、すぐに分かった。でも。
あの海に戻るためには、人間の世界の知識と、そこまでの旅費が必要だ。そしてそれらをどうやって手に入れたらいいのか、見当もつかない。
震えそうになる膝に力を入れて、顔を上げる。そうして、一生懸命に言葉を絞り出した。
「あの……伯爵様、お願いがあります」
そう切り出すと、伯爵様は目を細めてわたしを見た。というより、にらみつけているような顔だ。
涙がじわりと浮かんでくるのを感じながら、さらに言う。
「わたしを、ここに置いてください。わたし、頑張って故郷への帰り方を探しますから……今ここを追い出されてしまったら、どこにも行く当てがないんです」
伯爵様は何も言わない。その静かな視線が怖くて、またうつむく。そのまま、じっと返事を待った。
静けさが、痛い。どうしよう。やっぱりいいですって言って、素直に屋敷を出ていこうか。
そう思って口を開きかけたその時、低い声が聞こえてきた。
「……不本意だが、見殺しにするのも寝覚めが悪い。とりあえず、メイドとして働いてもらおうか。ただし、故郷を探す努力は怠るな」
伯爵様はそう言って、またベルを鳴らす。さっきと同じ背の高い女性が、音もなくやってきた。
「ガートルード、彼女を君に預ける。好きに使ってくれ」
それだけを言い残して、伯爵様は入り口とは別の扉から出ていってしまった。わたしに、お礼を言う暇すら与えることなく。
「初めまして。この屋敷でメイド長を務めております、ガートルードです」
「あ、あの……ニネミア、です」
わたしは女性に連れられて、屋敷の別の一室に移動していた。
さっきの部屋と比べるとずっと狭い、ベッドと机、それに小さなタンスが置かれているだけの部屋だ。
「ニネミアさん、ですね。これまでに家事の経験は?」
「……ありません……」
素直にそう答えると、ガートルードは眼鏡に手を当てて小首をかしげた。
「……そうですか。その年齢で家事の経験がないというのは、少々珍しいですが……それでは、今後私が仕事を教えます」
「ありがとう……ございます」
「感謝の意があるのであれば、早く家事を覚えて私の仕事を減らしてください」
「は、はい……」
ガートルードは、ちょっと近寄りがたい。彼女は北の冷たい海に住む、銀色の魚に似ている。
とっても泳ぐのが速くて、わたしたち人魚族ですらついていけない。その美しい輝きと相まって、孤高の泳ぎ手と言われている、そんな魚に。
「あなたは今日から、ここで暮らしてもらいます。隣が私の部屋ですから、何かあったらそちらへ。それでは、今日はこのまま旅の疲れを癒してください。仕事は明日からです」
そう言い残して、彼女はすっと部屋を出ていった。一人取り残されて、ぽかんと立ち尽くす。
海の城を出た時は、人間の町に足を踏み入れた時は、こんなことになるなんて思いもしなかった。
わたしが人間のお屋敷で、メイドとして家事をする。ほんの数日前のわたしが聞いたら、驚きに目を真ん丸にするだろう。
正体がばれないかな、とか、メイドのお仕事がちゃんとこなせるかな、とか、色々と不安もある。
でも、ここで頑張ってお金を貯めて、人間の世界について情報を集めれば、いつか故郷の海に帰れるはずだ。
そしてその時、わたしは人魚族のみんなに、人間についてたくさんのことを語って聞かせられるようになっているだろう。
危ないから気をつけて、という警告になるか、素敵なところだから遊びにいこう、という誘いになるかは、まだ分からないけれど。
よし、頑張ろう。少なくともあの伯爵様と、それとガートルードは悪い人ではなさそうだし。
ふうと息を吐いて、ベッドに横になってみた。海の城のものとはまるで違う、さらりとした肌触りの寝具に、頬を寄せる。
ふふ、気持ちいい。微笑んでいるうちに、自然とまぶたが下りてきた。
◇
その頃、海の城の前。ニネミアの父である人魚族の王オーセアンが、真っ青な顔で王妃に泣きついていた。
「シーシア、私はどうしたらいいのか……ニネミアが、ニネミアが……」
「どうしました、オーセアン。あの子に何かあったのですか?」
離れた海域の視察に行っていた王妃シーシアは、つい今しがた海の城に戻ってきたところだった。
しかし玄関をくぐろうとしたところ、夫であり王であるオーセアンが中からものすごい勢いで飛び出してきたのだ。まるで幼子のように、途方に暮れた顔で。
そしてニネミアと似た面差しのおっとりとした王妃もまた、王の話を聞いて青くなった。
「……では、あの子は城を飛び出してから、もう何日も戻ってきていないということなんですね? おそらくは、海岸のほうに向かったのを最後に」
「ああ、そうなのだ。私と、地上のことで口論になった直後に……」
「でしたら、そのまま地上に向かってしまった可能性が高いのでしょう。あの子はわたくしに似て、地上にとても興味がありましたから……」
二人は口をつぐみ、顔を見合わせる。それから同時に、城の中に飛び込んでいった。城の廊下を一気に泳ぎ切って、城の一室に滑り込む。
その部屋の奥には、サンゴで飾られた玉座が置かれていた。王妃が飛び出して、玉座に触れる。
「ああ、よかった……まだ石は無事ですね」
彼女の視線に先には、玉座にはめ込まれた小さな石があった。深々とため息をつく彼女の隣では、王も険しい顔をしている。
「そうなのだ。海輝石は、この通り無事だ……だがそれは、今のところニネミアの命が危機にさらされていない、という意味でしかない。お前も知っての通り」
玉座にはめ込まれているのは、海輝石と呼ばれる国宝だった。二つ一組のその石は、その片方を身に着けた者の命が危機にさらされた時に、力を発揮する。
二つの石は同時に砕け散り、その者を守ってくれるのだ。
そして今その片割れの石は、ニネミアの首飾りにはまっている。
玉座の石が砕けていない、すなわち、ニネミアに命の危機が迫ってはいない。そのことを王妃は確認して、小さく安堵のため息を吐いていたのだ。
「あの首飾りはとても質素な見た目ですから、人間たちにはおそらく価値が分からないでしょう。ですから盗まれるようなことはないと、そう思いますが……」
「だが今無事だからといって、この後も無事であるという保証はない。ああ、ニネミア……今どこで、どうしているのか……こんなことなら、私が付き添ってやるのだった」
「あなた、さすがにそれは難しいですよ。わたくしたち人魚族は、人間族とは関わらない。それが、一族の総意ですから」
王妃の指摘に、王はがっくりと肩を落とす。そんな彼に、王妃は優しく語りかけた。もっとも彼女の声も、かすかに震えていた。
「過ぎたことを悔いても仕方がありません。今はとにかく、ニネミアを探しましょう。海の中は、もうくまなく探したのですよね?」
「ああ。かくなる上は、地上を探すしかない……だが、人間たちに怪しまれずに動き回れる人魚族は、まずいないだろう。私たちは人間について、知らないことが多すぎる」
そう言って涙ぐむ王。王妃は彼の肩にそっと手を置いて、励ますように言った。
「学者たちは、知識だけはありますが……もしものことがあった場合を考えると、もっと屈強な者のほうがいいでしょうね」
落ち着いた王妃の言葉に、王がそろそろと顔を上げる。
「一族の中から、有志を募りましょう。その方々に地上のことを大急ぎで学んでもらって、ニネミアが向かった海岸の周辺を探してもらうのです」
「……そうだな。それしかないか」
「それではさっそくその作業に取り掛かりましょう、あなた。辛い時は、動いていたほうがいいですから」
そうして王妃は王の手を引いて泳ぎ出す。玉座の間を出る時、王はちらりと玉座を見た。そこにはまっている、守りの石の片割れを。
「ニネミア、どうか……どうか無事でいてくれ」
王の言葉に、王妃は振り向かなかった。ただ彼女も、きつく唇を噛みしめていた。




