3.知らない屋敷で
わたしが転がされていた部屋は、やけに広々とした場所だった。石の床、高い天井、家具がほとんどないがらんとした空間。
でも床は様々な色の小さな石をはめ込んだ素敵なものだし、壁にも天井にもぎっしりと装飾が施されている。
その部屋の真ん中、わたしが今いるところから少し離れたところに、誰かが立っていた。きっとこの人が、リトラー伯爵様だ。
おそらく、わたしよりは年上だろう。満天の星空のようにきらきらと美しく輝く黒い髪と、ほんの少し日焼けしたような浅黒い肌。ほっそりとしているけれど決して弱々しくはなく、むしろ強い意志を感じさせる人だ。
けれど彼は、一風変わったなりをしていた。人間について詳しくないわたしでも、ちょっと変わっているなとすぐに気づけるくらいに。
身に着けているのは、綺麗なレースや金色のボタンで飾られた、上品な細身の服。その上から、薄手の布のマントをまとっていた。
ここまでは、たぶん普通なのだと思う。普通でないものは、彼の顔のところにあった。
彼の顔のほとんどは、滑らかな白い仮面に覆われていたのだ。口元と目元以外、ほとんど見えない。そのせいで表情も読めない。
それを見ていたら、何となく夜光貝を思い出した。雪のように真っ白で硬い殻を持つあの貝は、夜になると淡く光るのだ。
昼間はただの白い貝にしか見えない夜光貝が夜になると美しい姿を見せるように、この伯爵様も仮面の下に何か別の姿を隠し持っているんじゃないか。そんな気がしてならなかった。
思わず伯爵様をまっすぐに見つめてしまう。すると、ちょっぴり不機嫌そうな視線が返ってきた。
あわてて彼から視線を離し、自分の両側にいる人間をちらりと見る。
筋骨隆々の若い男が二人。ごつごつ感がホヤに似ている。ホヤ兄弟だ。たぶん、イカのお兄さんとウツボのおばさんの仲間だろう。要するに、人さらいの一味。
そうこうしていたら、ホヤ兄弟が明るく話し出した。
「どうでしょうか、伯爵様? 世にも珍しい、水色の髪の乙女です。しかも、これだけの上玉で、おまけに従順ときています。捕まえてからここまで、ずっとおとなしくしていました」
「観賞用としてはうってつけかと。もちろん、それ以外の用途にも」
精いっぱい丁寧な口調でとても不穏なことを言っている男たちに、伯爵様はむっとした顔をしたように見えた。その口元が、ぐっときつく引き結ばれたのだ。
「……口元の布と、手足の縄を外してやれ」
初めて聞いた伯爵様の声は、落ち着いた見た目よりも軽やかだった。そのたたずまいと同様に、不思議とわたしを引きつける、優しい声だった。
ホヤ兄弟が戸惑いつつ、わたしの口をふさいでいた布と、両手と腰にかけられていた縄を外す。やっと、落ち着いて息ができる。
ところでこれって、わたしも話していいのかな。というか、自由にしたら逃げるかもって、伯爵様は考えていないのかな。
考え込みながら首をかしげていると、伯爵様が小机の上のベルを鳴らした。
すぐに、すらりと背の高い女性が姿を現した。三十歳くらいだろうか。理知的な雰囲気で、氷のような目元が、銀縁眼鏡に半ば隠れている。
彼女は何かが詰まった袋を手にしていた。伯爵様がうなずくと、女性はホヤ兄弟に近づいて、袋を二人に差し出した。小さな金属がたくさん詰まっているような、じゃらりという音がする。
同時に、伯爵様がまた口を開く。
「それを持って下がれ。聞いているだろうが、この取引は口外無用だ」
袋を受け取ったホヤ兄弟が、そそくさと部屋を出ていく。薄笑いを浮かべて、ぺこぺこと頭を下げながら。
そうして、部屋にはわたしと伯爵様だけが残された。さっきのあの女性も、いつの間にか音もなく姿を消していたのだ。
どうしよう。もしかしてわたし、伯爵様に買われてしまったのかな。だったら、わたしは伯爵様の言うことを聞かないといけないのかな。
それは困る。急いで海に戻らないと。お父様もお母様も、きっと今頃とても心配している。
たぶん、さっき伯爵様がホヤ兄弟に支払ったのと同じだけのお金を伯爵様に渡せば、わたしは自由になれるのだと思う。物の売り買いなら、そんな感じだから。
でもそんなお金、どうやって手に入れたらいいのだろう。今わたしが隠し持っている分では足りそうにないし。
床にぺたんと座り込んだまま小声でうなっていると、また伯爵様の声がした。
「さて、私は君を買い取った訳だが……君に興味はない。どこへなりと、好きなところに行くといい」
その言葉に、ぽかんとしてしまった。どうして彼は、わたしを自由にさせようとしているのだろう。人間って、本当によく分からない。
「あの、でも、さっきわたしの代金を、伯爵様が支払って……」
「私は珍しい生き物を買い集めている」
伯爵様はわたしの言葉を遮って、唐突にそんなことを言った。仮面の下の青みを帯びた目が、鋭くこちらに向けられている。
「だからああいった人間に、妙な生き物を集めてきてもらっている」
妙な生き物。ある意味わたしはそうなのかもしれない。だってわたしは、人魚族なのだから。でももちろん、それを明かすつもりはないけれど。
それにしても、伯爵様はどうしてそんなものを集めているのだろうか。もしかするとこの屋敷のどこかに、不思議な生き物が集められていたりするのだろうか。ちょっと見てみたいかも。
「だが時折、君のように人間がさらわれてくることがあるのだ。どうも私の意図が、正しく伝わっていないらしい」
うんざりしたと言わんばかりの顔で、伯爵様が肩を落とす。最初の落ち着き払った雰囲気とはまるで違う。ちょっと大げさな動きだ。
あれ、伯爵様って思っていたより若いのかな。もしかしたら、わたしと同年代かも。
「かといって私が買い取りを拒否したら、今度はどこに売り飛ばされるか分からない。だから人間が連れ込まれた時はいったん買い上げて、それから追い出すことにしている」
「あの、それじゃあ、わたしは……」
「出ていってくれて構わない。むしろ、出ていってくれ……ああ、そうだ」
そう言って、伯爵様は流れるような足取りでわたしの前までやってきた。首に巻いていた長いスカーフを外し、わたしの頭にそっとかぶせてくる。
「君のその髪は目立つ。それをやるから、隠しておくといい」
「あ、ありがとうございます……」
言われた通りにスカーフで髪を隠しながら、ぼんやりと考える。
どうやらわたしは、ここに縛られなくてもいいらしい。だったら早く、海に戻らないと。
でも。
スカーフの端をつかんだまま、唇を噛んでうつむく。わたしの様子がおかしいのを見て取ったのか、伯爵様がけげんそうな顔をした。
「……どうした。出口なら、君の後ろの扉だ。正面の廊下をまっすぐ進めば、屋敷の裏口に出られる。時間の無駄だ、早く出ていってくれ」
「あ、あの、わたし」
胸がどきどきする。こんなことを伯爵様に言ってしまっていいのか分からない。でも他に、打ち明ける相手もいない。
「わたし、帰れないんです。自分がどこから来たのか、分からなくて」
その言葉に、仮面の下の伯爵様の目が大きく見開かれた。