23.わたしが一番好きなもの
「ふふ、こっそり出かけるのって久しぶり」
「オーセアン殿は、夜は外に出るなと言っておられたが……いいのか?」
お茶を飲み終えたわたしたちは、夜の海を泳いでいた。城を抜け出して。
夜の海は、昼よりちょっと危険だ。毒のとげを持つ魚が元気に動き回るし、漁をしている者も増えるから、ぼんやりと泳いでいたら何に出くわすか分からない。
「わたし、もう大人です。夜に外出しちゃ駄目なのは子供だけです。お父様は本当に過保護で」
「……君が危なっかしいと思っているのは、僕だけではないようだが」
「あ、フォルまでそんなこと言うんですか!」
「いや、君が僕のところに来た経緯を知れば、だいたいの者はそう思うんじゃないかな」
わたしに手を引かれたまま、フォルがもごもごとつぶやいている。
真っ暗な海の中を、上へ向かって泳ぐ。わたしたちは人間と違って、暗くてもものが見える。ちなみにフォルも、この暗い海の中が見えているらしい。
人魚族と天翼族、こんなところに共通点があったなんて。嬉しいな。
そしてそのせいか、フォルは夜の海に連れ出されたにもかかわらず動揺してはいなかった。
人間は暗いところを怖がる。だから、あちこちに火を灯して夜の闇を追い払おうとする。
でもわたしたち人魚族には、闇を恐れるという感覚はない。明るいほうが見えやすいし綺麗だから、住居の中には光る魚なんかを泳がせてはいるけれど。
人魚族と、人間。それに、天翼族。違うところがいっぱいで、でも同じところもある。だったら絶対に、分かり合える。
ああそうだ、帰ったら折を見てヒルダやガートルードにもここの話をしよう。そして、彼女たちもここに誘ってみよう。喜んでくれるかなあ。
そんなことを考えて、ふと気づく。わたし、今、『帰る』って考えてた。わたしの家は、尾の下にある海の城なのに。
これではまるで、フォルの屋敷こそが今のわたしの家なんだって、そう思ってるみたいだ。
ふふっと笑ったその時、ざぱんと音を立てて海の上に出た。続いて、フォルも同じように海面に浮かび上がる。
彼の手を引いて、二人一緒に腰かけた。ぱしゃんぱしゃんと跳ねている波の一つに。
「波の上に腰を下ろすというのも……不思議な気分だな」
「これも水の魔法です。わたしたちは陸からも島からも離れた海を泳ぐことが多いですから、休憩したい時は海面を固めて足場を作るんです」
何もない広い広い海原で、フォルと二人並んで座っている。それは予想よりもずっと、胸が高鳴る素敵な時間だった。
空には星々、かすかな星明りにきらめく波。あいにくと小さな雲が、月を隠してしまっている。それでも十分すぎるくらいに、目の前の光景は美しかった。
「まるで星空が覆いかぶさってくるような、見事な光景だな……空の上から見るのとは、随分と違った姿だ」
「空の上から見たら、どんな感じなんですか?」
「……飛べども飛べとも星空には手が届かない。そして足下を見ると、暗い大地が広がっている。のみ込まれそうなくらいに暗く、広い」
フォルは目を細めて、遠くを見ている。
「美しいけれど、恐ろしくも感じてしまう」
「美しいけれど、恐ろしい……その感じ、深海にちょっと似ているかもしれません。気を抜くと、どこまでも落っこちていってしまいそうで……」
「ああ、そんな感じかもしれないな」
波に揺られながら話し込んでいたら、いきなり辺りが明るくなった。
上を向くと、雲が風で流れ、まん丸の月が姿を現していた。
波の輝きが強くなる。口元に笑みを浮かべて空を見上げるフォルの横顔も、月明かりの優しい色に染まっていた。
「……わたしの、好きな時間なんです」
そっとささやくと、フォルがこちらを向いた。明るいところでは瑠璃色のその目は、今は夜の海と同じ色をしていた。
「こうやって、一人で月の光を浴びて、きらめく波と星降る夜空を眺めているのが……秘密の、素敵な時間なんです」
「僕も連れてきてよかったのか?」
「あなたに見せたかったんです。わたしが一番好きなもの」
にっこりと笑いかけると、フォルはかすかに目を見開いたまま動きを止めた。そのままじっと、わたしを見つめ続けている。
「……フォル?」
そろそろと呼びかけても、彼は動かない。どうしたのかな。どうしたらいいんだろう。
困って視線をそらそうと思ったその時、彼がようやく動いた。すっとわたしの手を取って、微笑む。月の光のように透き通った彼の笑顔に、目が吸い寄せられる。
「ありがとう、ニネミア」
つないだ手からは、温もりが伝わってくる。海の中を泳いでいる間、ずっと手をつないだままだったのに。それなのに、どうしてこんなにどきどきするんだろうか。
一人で、月の光を浴びるのが好きだった。月夜を独り占めしているのが好きだった。でも、わたしが一番好きな光景は、きっと今の、微笑むフォルがいる光景だ。
ぼんやりとそんなことを思いながら、目の前の光景をじっと見つめていた。記憶に焼き付けようと、懸命に。
それからさらに数日後、フォルはお父様とお母様、それに城のみんなに別れを告げていた。
「これまでのもてなし、ありがとうございます。せめてもの礼として、今後私はあなたがたの力になると誓いましょう。……私にとって、人魚族は友だと思っています」
その言葉に真っ先にこたえたのは、オーセアンお父様ではなくシーシアお母様だった。
「ありがとうございます、フォルさん。あなたという友を得て、わたくしたちは幸運です」
お母様は優雅に一礼して、それからにこやかに言う。
「いずれは、天翼族のみなさまとも交流が持てればいいと思いますわ、あくまでも個人的な感想ですけれど。地上でなら、気軽に会うこともできますし」
その言葉に、今度はお父様が口を開いた。困ったように、ぎゅっと眉を寄せて。
「これシーシア、地上に出るなどと恐ろしいことを……」
「あらあなた、でも未来のことを考えると、地上との連携は必要だと思いますわ。ニネミアのように飛び出していく子が、きっとこれから増えますから」
そう言ってお母様は、ちらりとわたしのほうを見る。そわそわしているのを見抜いているかのように。
今だ、言わなくちゃ。
「あの、お父様、お母様!」
仲良く言い争っているお父様とお母様に、精いっぱい呼びかける。
「わたし、フォルと一緒に地上に行きます!」
「駄目だ、ニネミア! やっと帰ってきたというのに、何を言っているのだ!」
ほら、やっぱりお父様がまた反対した。お母様は……面白がっているような顔で様子を見ている。
そんな二人に、さらに言葉をかける。
「わたし、もう以前の世間知らずじゃありません。地上でたくさんのことを経験して、色んな人と出会って、成長しました。お母様もそう言ってましたよね」
「そうですね。ふわふわしたあなたが、ここまで立派になるなんて……」
「シーシア、お前まで! ニネミアはまだ、将来を約束した相手すらいない子供なのだぞ! そもそも、恋人すらいないというのに」
「……あら、そうでしょうか?」
お母様はやけに意味ありげに言って、わたしとフォルをちらちら見続けている。
「ニネミア、あなたはまた地上に行って、どうするつもりなのですか」
「えっと、またフォルの屋敷で暮らして、そこで働きます。わたし、フォルに返さなきゃいけない恩が、たっくさんあるんです」
「フォルさんも、この子がまたお世話になることについて納得されていますか」
「ええ。彼女のその心意気は買ってやりたいと、そう思っています」
「買っているのは、心意気だけ……なのですか? だとしたら、少々残念なのですけれど。わたくしが言うのも何ですが、この子はとてもいい子ですから」
あれ、お母様がよく分からないことを言い出した。
「……そうですね。彼女はとても純真な、素敵な女性です。ですが今はまだ、それ以外を言葉にするべき時期ではないと判断しました」
あれあれ、フォルがもっと訳の分からないことを言い出した。それ以外って、何。褒めてもらえたのは嬉しいけれど。
「いずれ、言葉にしてくれるのでしょうか?」
「……時が来れば」
「分かりました。ひとまずあなたは、ニネミアを大切に保護してくださるのですね?」
「はい」
お母様とフォルは、二人だけでどんどん話を進めている。お父様が少し遅れて話を理解したような顔をしている。うわ、すごいしかめ面。
というか、話についていけていないのはわたしだけだ。お願い、誰か説明して。
「それではニネミア、あなたが地上に行くことを許しましょう。ですが、フォルさんのそばを離れないようにね」
「シーシア!」
「あきらめてください、あなた。ここで止めたら、ニネミアはより危険なほうへと突き進んでしまいかねません。それくらいなら、フォルさんにきちんと守ってもらいましょう」
「……ううむ、それもそうだが……」
どうやら、お父様も納得した……というより、お母様に押し切られたようだ。
地上へ行くことが認められた、そのことは嬉しい。でもわたし、何もしてない。絶対に認めてもらうんだ、何が何でも説得するんだって、気合を入れてきたんだけどなあ。
腑に落ちないものを感じつつも、許しはもらった。みんなに見送られて、いつぞやの海岸まで戻ってくる。
「さて、後は町で待たせている従者と合流して、屋敷に帰るだけだが」
二人きりになってすぐに、フォルが小声で言った。そうですね、とあいづちを打つと、彼はためらいがちに言葉を続ける。
「だが、その前に……少し時間をくれないか」




