22.海と地上のかけはしとして
それから丸二日、フォルは海の城の中を見学していた。というか、みんながよってたかって案内していた。フォルは右へ左へ、振り回されているような感じだった。
そしてわたしは深海の青と浅瀬の青緑のドレスをまとって、そんな彼にずっとついて回った。
フォルが人魚族のみんなと仲良くなってくれるのは嬉しい。でも……妙なことに、落ち着かないものも感じてしまっていた。
特に、年頃の女性たちがフォルを囲んできゃあきゃあ言っているのを見てしまうと、胸がざわざわするのだ。割り込みたくてたまらなくなる。
そんな気持ちに突き動かされるまま、わたしは精いっぱいおしゃれをして、彼のそばに張りついていることにしたのだ。できるだけ彼の近くで、上品におすましして。
フォルはわたしがついてくることは気にしていなかったようだった。ただ彼は、別のことが気になっているようだった。みんなに囲まれて歩きながら、隣のわたしに小声で尋ねてくる。
「そのドレス、確かによく似合っている……だが、取っておきだと聞いた気がする。もっと特別な時に着るものなんじゃないか?」
「フォルがこの海の城に滞在しているっていうのは、十分に特別な事態です。そしてわたしはこの城の王の娘、つまり姫です。客人への敬意を表すためには、この格好が一番なんです」
「客人扱いされるとくすぐったいんだが……まあ、いいか」
ちょっと無理がある説明かなと思ったけれど、フォルは素直に納得してくれていた。
そうして、城を隅々まで見て回る。わたしたちが暮らす部屋、食堂や厨房、美しいサンゴと熱帯魚で彩られた中庭、その他思いつくところはどこでも。
基本的にこの城は、誰でも自由にふらふらできる。唯一、人間のものをしまってある場所だけは、人間について研究している学者以外の出入りは制限されているけれど。
わたしは王の娘であり、いずれはオーセアンお父様の跡を継いでこの城の主人になるから、例外的に人間のものを見ることが許されていたのだ。
……お前がここまで地上に興味を持ってしまうと知っていたなら、あの部屋への立ち入りを禁じていたのにって、いつぞやの親子喧嘩の時にお父様が言っていたのを思い出した。
ちなみに学者たちは、地上から来たフォルにそれはもう興味津々で、女の子たちと一緒になって彼を取り巻き、隙あらば質問を投げかけていた。
フォルはちょっぴり困惑しながらも、きちんと質問に答えてくれていた。その言葉に、さらにみんなの目が輝く。
そんなみんなの姿を少し離れて見守りながら、無言で決意を固める。
やっぱり人魚族は、外の世界をもっと知っていったほうがいい。これまでみたいに海の中に隠れているんじゃなくて、人間や天翼族とも交流を持っていくべきだ。
だって、みんなはフォルに、地上の人に興味を持っている。それに、わたしはフォルやガートルード、それにヒルダと仲良くなれた。素敵なことを、たくさん知った。
わたしたちと地上の人たちは、きっと仲良くなれる。そうしてわたしたちの世界が広がれば、お互いにもっと幸せになれる。そう思う。
もっとも、お父様はやっぱり全力で反対するだろうな。お母様は理解してくれるような気もするけれど。
それでも、まずはわたしが少しずつ、地上と海中のかけはしになっていこう。
……それはそうとして、フォルの隣は譲らない。
「フォル、わたしもその話、もっと聞きたいです!」
にっこりと笑って、フォルを取り囲む人垣に突っ込んでいった。
そうして夜になり、みんなが帰っていって。お父様とお母様と一緒に、夕食を終えて。
「はあ……やっと静かになった」
城の客間で、フォルがため息をついていた。彼のそばにいるのはわたしだけ。
「この城にお客様が来るのは、確か二百年ぶりくらいなので……みんな、珍しくてたまらないんです。迷惑かけてごめんなさい」
「いや、君が謝る必要はない。疲れたけど、有益な時間を過ごせた」
ふっと小さく笑って、フォルは室内を見渡す。石を水の魔法で彫り出した、曲線の多いつくりの部屋。
「人魚族は海の中で暮らしているだけあって、独自の文化を築いている。人々はみな善良で、友好的だ。地上とはまるで違う、豊かで穏やかな世界」
そこで彼は、すっと目を伏せた。長いまつ毛の下の瑠璃色の目が、どんな感情を浮かべているのかは分からない。
「……人間たちが空想する、理想郷のようだとも思った」
「理想郷……わたしたちは、ただ毎日を普通に過ごしているだけですよ。親子喧嘩だってしますし、痴話喧嘩なんかもあるみたいです。こっそりお仕事をさぼることだって」
真面目にそう答えたら、フォルはおかしそうに肩を震わせた。
「ああ、そうだな。……やっぱり、理想郷だ」
「どうしてそうなるんですか? 分かりません。教えてください」
分からない。この海の中の世界は、別にそんなとんでもない場所ではない。なのにどうして、フォルはこんなことを言っているのか。
思わず難しい顔をしたら、フォルが声をあげて笑った。
「はは、眉間にくっきりとしわが寄っているぞ。思えば、いつもは僕が『分からない』という側だからな。たまには君を悩ませてみるのもいいかもしれない」
「どうしてそうなるんですか!」
どうやらフォルは、わたしをからかっているらしい。わたしがふくれっ面になると、さらに楽しそうに笑うのだ。
からかわれたことなんてほとんどないし、気持ちのいいものではない。でも、フォルならまあいいかな、と思えてしまっていた。
だってわたしも、気づけば微笑んでしまっていたから。
そうして二人、顔を見合わせて笑う。何がおかしくて笑っているのか、だんだん分からなくなってきたけれど、それでもこうしていると落ち着くなと、そう思っていた。
ひとしきり笑って、ふうと一息つく。
ちょうどその時、世話係がお菓子の小皿とお茶のカップを運んできた。
彼女はとっても嬉しそうな顔でわたしとフォルを交互に見てから、また笑顔で去っていく。もしかすると、さっきまでのわたしたちの笑い声が聞こえていたのかも。
フォルは涼しい顔で、菓子の皿に目をやっている。
「まるで宝石のような菓子だな」
その皿に盛られているのは、ちょうど親指の爪くらいの大きさの、ほんのり透き通った氷のかけらのようなお菓子だ。
「見た目だけじゃなくて、味も素敵ですよ」
このお菓子は、海藻の煮出し汁に甘く味をつけて軽く煮込み、冷やして固めてから乾かしたものだ。外側は氷のようにしゃりっと砕けるのに、内側は柔らかくてほんのり甘い。
海の中では、甘いものは貴重だ。近くの無人島で時々見つかるミツバチの巣から採れる蜂蜜と、南の無人島の海辺で採れる夕日色の実から作るシロップ、その二つが主な甘みだ。
だからこのお菓子は、ちょっと特別な時しか食べられない。夕焼け色の実を煮出した汁でほんのりと黄色に染められたひとかけらを手にして、うっとりと眺める。
「月のかけら、って呼ばれているお菓子なんです。年に二、三回しか食べられなくて……フォルをもてなすために、わざわざ作ってくれたんですね」
そう言いながら、お菓子を口にする。地上では甘いものをちょくちょく食べていたけれど、この優しい甘さがやっぱり一番好きかも。
「凝った焼き菓子などとは、まるで違うな。淡く優しい風味、独特の口当たり……僕も、好きな味だ」
「わあ、気に入ってもらえて嬉しいです!」
大切な人が、自分の好きなものを気に入ってくれた。それだけのことがとても嬉しくてくすぐったい。
ああ、フォルを誘って本当に良かった。ここ数日幾度となく繰り返しているそんな言葉を胸の中でそっとつぶやいて、温かいお茶を飲む。
元々、人魚族にはお茶を飲むという風習はなかった。難破船の積み荷に茶葉があって、正体不明なのでしまっておいたところ、別の船の書物からお茶の入れ方について知ることができた。
それから研究を重ね、無人島にある植物で似たようなものを再現することに成功したのだ。
といってもそこまでたくさんは手に入らないので、月のかけらと同様に特別な時のためのものだ。普段は、海藻を煮出したとろみのあるお湯を飲んでいる。
「普段飲んでいるものとは、風味が違うな」
「これも、頑張ってお茶を再現したものなんです。わたしには植物のことはよく分かりませんが、近くの無人島に生えているものを使っているんですよ」
「……人魚族は、どうして茶を再現しようと? いや、茶だけではないな。他にも色々と、人間たちの文化の面影があった」
わたしの言葉に、フォルがやけに真剣な顔で問いかけてくる。
そんなこと、考えたこともなかった。首をかしげて、お茶をもう一口。地上のお茶とは違うけれど、これはこれでおいしい。
「……気になるから、だと思います」
結局、そんな言葉しか出てこなかった。ぽかんとした顔のフォルに、さらに語りかける。
「地上には人間がいて、わたしたちとは違う暮らしをしている。それがどんなものなのか、とっても気になる。だから情報を集めて、真似をしてみたんだと思います」
人間は危険なのだと、大人たちは子供たちにそう言い聞かせている。それは、わたしたちの身の安全のためだ。一部の人間は、本当に危ないから。
けれどみんな、フォルのことが気になって仕方がないようだった。彼は人間でこそないけれど、人間と同じように地上で暮らしている者だ。みんな、地上の話を聞きたがっていた。
きっと昔の人魚族も、同じような気持ちだったんだろうなあ。昔のわたしのように、まだ見ぬ地上に思いをはせて、人間が残した品々をわくわくしながら調べて。
「……わたしも、ずっと地上が気になっていましたから」
そう言って苦笑すると、フォルはそうか、とだけ言って黙りこくってしまった。
それから無言で、ゆったりとお茶とお菓子を味わう。大切な人との、静かで素敵な時間。このまま終わらせてしまうのは、ちょっともったいない。
そう思った時、手にした月のかけらが目についた。優しい月の淡い黄色に、ふとあることを思い出す。
ぱっと顔を上げて、ゆったりとお茶を飲んでいるフォルに話しかける。
「フォル、見せたいものがあるんです」




