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地上を夢見る人魚姫は、仮面の伯爵様に恩返ししたい  作者: 一ノ谷鈴
第3章 人魚族と、人間と、そして
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20.海の城で、近づく距離

「ただいま、みんな! 心配かけてごめんなさい!」


 城の正面玄関をくぐり、二本の足でとんと床に降り立つ。いつもは水の中であるそこは、今は地上と同じように空気で満たされていた。


 そして、たくさんの人たちが出迎えてくれた。みんなとっても嬉しそうで、そして明らかに興味津々だった。


 フォルはみんなの視線を浴びまくっていたけれど、彼は彼で周囲を見渡すのに忙しいようだった。


「海の底の城なのに、空気で満たされている……妙な感覚だな」


「わたしも不思議な気分です。練習で空気を満たす時は、またすぐに空気を抜いて海水を入れますから」


 足元に気をつけながら、廊下を進む。岩の表面を大まかにならしただけの床は、ちょっぴり歩きにくい。


「だからこんな風に城の中を歩くことって、あまりないんです」


「そうか、普段は廊下も部屋も海の中だから、移動も泳いで……ということか」


「はい、そうなんです。廊下なんかだと、左右じゃなくて上下ですれ違うこともありますよ。……あなたの屋敷のメイドになって、すぐに戸惑ったのはそのことでした。廊下を泳げないのは不便だなあって」


 その言葉に、フォルがくすりと笑った。普段と違って全身びしょ濡れだからなのか、その表情はとても目を引いた。


 何というか、水遊びをしてはしゃいでいる子供のように見えたのだ。それくらい楽しそうで、無邪気な笑顔だった。


 つい見とれてしまった拍子に、床のでこぼこに蹴つまずく。足がもつれて、視界がぐらりと大きく動く。


 あ、転んでしまう。そう思って身構えたその時、なぜか体が宙でぴたりと止まった。あれ、どうしてだろう。


「大丈夫か? 人魚族の城だから仕方がないのかもしれないが……ここは少し歩きにくいな」


 そんなフォルの声が、やけに近くから聞こえる。あと、お腹から背中にぐるっと巻きついているのは……。


 少し遅れて、自分の状況に気がついた。転びそうになったわたしを、フォルがとっさに支えてくれたらしい。しっかりと、抱きかかえるようにして。


「あ、あの、その」


 びっくりして、言葉が出ない。心臓がどんどん速くなっていく。


「……そろそろ、自分の足で立ってくれないか? いつまでもこうしているのは……さすがにどうかと思う」


 彼の声が、気まずそうな響きを帯びる。いけない、彼の言う通りだ。両足でしっかりと床を踏みしめて、まっすぐに立つ。


「ありがとう、ございました」


 どうにかこうにか、礼の言葉を口にした。上目遣いにフォルを見ると、不機嫌そうに視線をそらしている。


 でもこれは、本当に不機嫌な顔じゃない。口元にほんの少しだけ笑みが浮かんでいるし、頬も緩んでいる。


 海に来てから、彼の表情はぐっと柔らかくなった。彼は海が好きなのかな。だとしたら嬉しい。


 フォルを見つめたまま微笑んでいたら、視界の端で何か動いた。


 今、廊下の曲がり角のところに誰かいたような。ほんの一瞬、顔が見えた気がする。それも、何人も。あ、今またちらっとのぞいた。


 何だろう、あれ。何してるのかな。


 不思議に思いつつも、フォルをうながしてまた歩き出す。楽しげなくすくす声が、角の向こうから聞こえてきていた。




「ここ、わたしの部屋です。どうぞ」


 フォルを連れて、部屋に入る。自分の部屋に戻ってきたのは久しぶりだ。


 水晶をはめ込んだ窓と、曲線を描いた高い天井。


 部屋の片隅には、海藻を生やした流木も置かれている。ちょうど、地上で鉢植えを飾るのと同じような感じのものだ。


 そしてサンゴで飾られたすべすべの岩のベッドと、おそろいの机。


 机のそばの床には、腰を下ろすための大きなクッションがある。特殊な海藻を加工して作った、わたしたちの服に使われているものと同じ素材だ。


 そして机の上に置かれている、夜光貝に透かし彫りを施した置物と、お気に入りの真珠の腕輪。人魚族にとって、真珠はとても身近な宝石だ。……地上だと、ものすごい値段になっていたけれど。


 みんな、わたしが出ていった時のままだ。


 ただ、思ったほど懐かしさはこみ上げてこなかった。むしろ、新鮮だなあという気持ちのほうが強かった。


 いつも海水で満たされている部屋に、今は空気が満ちている。普段は尾で泳いで入るのに、今は二本の足で歩いて入った。たぶん、そのせいだ。


 面白いなと思いながら、礼儀正しく室内を眺めていたフォルに歩み寄る。


「フォル、これから服を乾かしますね。なので少し、じっとしていてください」


 それから水の魔法を使って、服に染み込んでいる水を引っ張り出していった。


 初めて地上に上がった時も、この魔法を使って髪や服を乾かしたっけ。あの時はただわくわくしていて、こんなことになるなんて夢にも思っていなかった。


 そんなことを思い出しながら、せっせと魔法を使い続ける。


 さっきまで濡れてぺたんとなっていたフォルの黒髪が、さらりと揺れた。天窓から差し込む柔らかな日差しを受けて、きらきらと輝いている。よし、乾いた。


「あの、翼も乾かしましょうか? ……どこにあるのか、分かりませんけど」


「頼む。ここだ」


 彼がそう言ったとたん、その背中に大きな翼が現れた。ちょうど、彼がまとっている短めのマントを跳ね上げるようにして。


 真珠のような純白で、風切羽だけが透き通るような水色だ。前に見た時も思ったけれど、本当に綺麗だ。できるなら一日中でも眺めていたい。


 うっとりしながら翼を乾かしているうちに、ふとあることに気づいた。彼の服の背中のところには切れ目が入っている。今、翼はここから出てきた。


「……そういえば翼を引っ込めている時って、どうなっているんですか? この服の中に、この翼を押し込んでるんですか?」


「いや、翼は跡形もなくなる。……代わりに、しまっている間は背中に文様が浮かび上がるが」


 背中の文様、できることなら見てみたい。そう思ったけれど、さすがに黙っておく。いくらなんでもそれは、ちょっとはしたない。


 でもやっぱり、見てみたいなあ。そんな思いを頑張って押し込めて、さらに魔法を使う。


 それから、そっと翼に触れてみた。硬くてしっかりしていて、ふわふわとした羽毛が手をくすぐる。うん、もう濡れてない。


「はい、翼も乾きましたよ」


「ありがとう。……僕も風の魔法で乾かすこともできるが、それとは違う不思議な感覚だった」


「そういえば、天翼族は風の魔法を使えるんですよね?」


「ああ。空気を動かす風の魔法と、雲を操る雲の魔法だ。隠し身の魔法とは異なり、天翼族なら誰でも使える」


「ふふ、わたしたちとはまるで違いますね」


「空で生きるために必要だった、それだけのことだ。君たち人魚族だって、そうなのだろう。その能力、その姿……」


 そう言って、フォルは目を細める。その視線の先には、わたしの足。ついさっきまでは尾だった。


「……君に手を引かれて海の中を進んでいる間、とても心躍るものを感じた。そもそも、水の中をあんな速さで突き進むのが、生まれて初めてだっていうこともあったけれど」


 彼にしては珍しく、ちょっと熱っぽい口調だ。


「しなやかに動く君の尾……この青い海の中でも、桜の花のような優しい色にきらめいていた。……まるで夢の中のように、美しかった」


「あ、あの、そんなたいそうなものじゃないです。……わたしからすれば、フォルの翼もとっても綺麗だなって……真っ白で立派で、あの嵐の中わたしを抱えて飛べるくらいに力強くて」


「別に珍しいものではないんだが。純血の天翼族なら、みんな持っているものだから」


 そうやってお互いに褒め合って、謙遜し合って。気がついたらどちらからともなく、笑い出していた。


「ふふっ……わたしたち、おんなじようなことを言ってますね」


「ああ。けれど、海の底で君とこんな話をする日が来るとは、思いもしなかった」


 フォルは、とても自然に笑っている。初めて会った時の、仮面越しの不機嫌な表情とは大違いだ。


 わたしこそ、彼のこんな顔を見られる日が来るなんて思ってもみなかった。


 そのまま無言で見つめ合う。どきどきするのに、不思議なくらいに落ち着いた気分だった。




 ただじっとフォルと見つめ合っていたら、こつんこつんという音がした。入り口の扉に備えつけられている水晶のノッカーだ。


 夢の中にいたような頭が、一気に現実に引き戻される。


 普段はこの扉も水の中なので、地上のように手でノックするのは難しい。だからこうやって、大きな音を立てられるノッカーがついているのだ。


 それはともかく、誰か来たようだ。もうちょっとフォルを見ていたかったのにと残念に思いながら、どうぞ、と扉のほうに声をかける。


 そこにいたのは、オーセアンお父様の世話係だった。少し不慣れな様子で歩いてきた彼女は、お父様からの伝言を持ってきていた。


「オーセアン様がお呼びです。『フォル殿をもてなす準備が整ったから、二人で来るように。今までのことをゆっくりと話そう』とのことです」


 それだけ言うと、彼女はさっさと出ていってしまった。……どことなく、意味ありげに笑ってわたしたちを見ていたような気がする。


 どこかで見たような視線だなあ……と考えて、すぐに答えに行き当たる。


 さっき廊下でわたしたちをちらちらと見ていた、たくさんの顔。その人たちは、ちょうど今の世話役と同じような顔をしていた。あれ、どういう意味なのだろう。


「僕をもてなす準備か。しかし、何かありそうな気がするのは、僕の考えすぎではないような……。さっきからやけに視線を感じるんだ。どうにも落ち着かない」


「ここに人魚族以外がくることなんてめったにないので、みんな珍しがってるだけ……だと思いますよ」


 本当はわたしも、みんなの視線が気になってはいた。ただ、フォルを悩ませたくなかったのでひとまずそう答えておく。危ない感じはしないし。


 それより、早く向かわないと。お父様たちが待ってる。ふふ、お父様たちとフォルがゆっくり話すのか。どんな話になるのか、ちょっと楽しみ。


 すっかり乾いたわたしの明るい水色の髪が、うなずいた拍子にふわりと広がって揺れた。

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