2.あっという間に危機の中
頭がぼんやりする。えっと、何があったんだっけ。
わたし、今どこにいるんだろう。暗くて、何も見えなくて、体が動かない。行ってはいけないときつく言い聞かされていた、海の底の深い深い海溝に落ちたのかな。
ううん、肌に触れるのは水じゃない。かさかさした、硬い何か。それにさっきから、かたことという振動が伝わってくる。
ここは、海の中じゃない。恐る恐る目を開けると、木の床が見えた。立ち上がろうとしたら、ぱたんと横に倒れてしまった。あれ、おかしいな。
その時、ようやく気づく。手首を紐のようなもので縛られている。それに、足も。
どうしてこんなことになったんだろう。確か、イカのお兄さんについていって、それから……。
駄目だ、思い出せない。とにかく、今どうなっているのか確認しないと。
この紐は水の魔法でちぎれるとは思う。でも、魔法を使っているところを人間に見られたら大変なことになりそうな気がする。なんでも、人間は魔法が使えないらしいのだ。
なのでひとまず、紐はそのままで。頑張って身を起こして、辺りを見渡した。
木の床、布が張られた屋根、前を行く馬。手綱を取っているのは、細身の初老の男性だ。たぶん、知らない人。
……ここってもしかして、馬車の中かも。それはいいけど、なんでこんなところにいるのかな。
「ああ、目が覚めたか」
馬車の前のほうに座っていた誰かが、そう言ってこちらに向き直った。白髪交じりのぼさぼさの髪をした中年の女性だ。男と間違えそうになるくらいにたくましい。
さっきの男性はイカに似ていたけれど、こちらの女性はウツボに似ていると思う。どっしりしていて、怒らせるととっても怖くて。
ともかく、ここでは水の魔法は使えない。だったら、彼女に頼んでみよう。座り直して、手首をそっと彼女のほうに突き出す。
「すみません、これ、ほどいてくれませんか?」
しかし返ってきたのは、まったく予想もしていなかった言葉だった。
「駄目だね」
「……えっと……?」
「あんたは大切な売り物なんだ。逃げたら容赦しないけれど、おとなしくしてたら何もしない。ちゃんと飯もやるよ」
そうしてウツボのおばさんは、わたしの手首にちらりと目をやる。
「その縄は休憩の時に外してやるから、今はあきらめな。逃げられたら困るんでね」
ふうとため息をついて、彼女はそばの木箱にもたれかかってしまった。話は終わりだといわんばかりの態度だ。
一方のわたしは、すっかり混乱してしまっていた。
売り物。それは、店先に並んでいる魚や野菜やお菓子のことだ。でも、わたしはそのどれとも違う。
彼女はいったい、わたしをどうするつもりなのだろう?
「あ、あの……どうして、わたしはここに……?」
「何だい。さらわれたってのに、よく喋る嬢ちゃんだよ」
「……さらわれた?」
その言葉は聞いたことがある。人間は、他の人間を連れ去って、どこかにやってしまうことがあるらしい。
町を歩いていただけなのに、どうしてこんなことに。どうしよう、逃げないと。
ちらりと馬車の外に目をやる。どこもかしこも森と山ばかりで、人がいる気配はない。海の匂いもしない。気を失っている間に、結構遠くに運ばれてしまったらしい。
ここでこの人たちから逃げても、どうやったら海の城に帰れるのか分からない。だったら今のところは、おとなしくしているしかないのかもしれない。
しょんぼりとうつむいたその時、ある事に気がついた。ぱっと顔を上げて、ウツボのおばさんにもう一度話しかける。
「あの、それと……わたしと一緒にいたあの男性は……大丈夫ですか?」
わたしがさらわれたのなら、あのイカのお兄さんもさらわれたのかもしれない。
血の気が引くのを感じながら返事を待っていたら、ウツボのおばさんはいきなり笑い出した。
「何を言い出すかと思えば。あいつも、あたしたちの一味だよ」
ぽかんとしているわたしに、彼女はささやいた。
「あいつが嬢ちゃんを裏路地に誘い込んで、あたしたちが捕まえる。袋をかぶせて、特製の眠り薬をかがせて、そのまま馬車に乗せたのさ」
彼女は声をひそめて、あまりにもとんでもないことをさらりと言ってのける。
どうして、こんなことを平然とできるのだろう。どうして、少しも悪びれずにそんなことを言えるのだろう。怖い。分からなくて、怖い。
やっぱり、地上に出てきてはいけなかったのかな。お父様、ごめんなさい。外出していたお母様が海の城に戻ってきたら、きっと驚くだろうな。本当にごめんなさい、お母様。
泣きたいのをこらえながら、ただじっと馬車に揺られていた。
それから数日、馬車で旅をした。それも、ひたすらに森の中を。馬車を操る御者と、馬車に乗り込んでいるウツボのおばさん以外、誰とも会わなかった。
移動中はずっと縛られていて、休憩の時だけ外してもらえる。でもウツボのおばさんが身の回りの世話を焼いてくれたので、そこまで困ることもなかった。
食事ももらえたし、毛布も貸してもらえた。小さな泉で、水浴びもできた。……川だったら、もぐって逃げられたのだけれど。
そうやって一緒に過ごすうちに、おばさんはそこまで怖い人ではないのかもしれないと、ふと思った。
「……どうして、よくしてくれるんですか。わたしのことをさらったのに」
こらえきれずにそう尋ねたら、おばさんは思いっきり怖い顔をしてすごんでみせた。でも今のわたしには分かる。彼女は別に、怒っている訳ではないのだと。
「まったく、何を聞くかと思えば。売り物をきれいにしておくのは、当然のことだろうが」
だから間違っても、礼なんて言うんじゃないよ。低い声でそう言うおばさんに、続けて尋ねてみる。
「そもそも、どうして人さらいなんてするんですか」
と、彼女の表情が変わった。いつもの怖い、あるいはぶっきらぼうなものではなく、ほんの少しだけ辛そうな、そんな雰囲気がかすかに感じられる。
「あたしたちだって、できればこんなことはしたくないのさ。だがねえ、最近天気がめちゃくちゃで、作物がろくにできやしないんだ。なのに領主様は、あたしたちの訴えに耳も貸そうとしないし」
一気にそう言って、彼女はふうと息を吐く。
「……こうでもしないと、家族みんなで飢えちまう」
最後のほうは、消え入るような声だった。どうしよう、とこちらまで悲しくなっていたら、彼女はまた怖そうな顔をした。
「だからあたしたちは、あんたをとある伯爵様に売り飛ばす。そこでは、変わった珍しい生き物を気前よく買い取ってくれるからね。あんたも、あそこでならそう悪い扱いも受けないだろうさ」
ちょっと、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。目を丸くして、身を乗り出した。
「わたし……変わってますか?」
陸に上がってから、わたしはずっと人間のふりをしていた。一度たりとも、本来の姿に戻ってはいない。決して珍しくなどないはずなのに。
納得がいかなくて眉をひそめていたら、おばさんがおかしそうに笑った。
「変わってるさね。その髪。生まれて初めて見たよ、浅瀬の海みたいな色をした髪なんて」
わたしの髪は、水色と青緑が混ざり合っていて、ちょうど明るい浅瀬のような色をしているのだ。
人魚族ではそれなりにある色合いなのだけれど、人間では珍しいのかもしれない。そういえばあの町でも、似たような髪の色をした人はいなかった。
「まあ、せいぜい伯爵様に気に入られとくれ。そうしてあんたが高値で売れたら、うちのチビたちにも腹いっぱい食べさせてやれるからさ」
「は、はい! 頑張ります!」
まだちょっと訳が分からないけれど、どうやらわたしの存在が誰かの助けになるらしい。そう思ったら、つい力いっぱいうなずいてしまった。
するとおばさんは目を丸くして、それから天を仰いだ。。
「あたしたちも色んな人間をさらってきたけれど……これだけ妙でめげない嬢ちゃんは初めてだよ。あんたなら、どこに行っても何とかなりそうだねえ」
「そ、そうですか?」
「ま、勘だけどね。せめて嬢ちゃんの未来にいいことがあるように、祈っとくよ。あたしは神なんて信じちゃいないけどね」
ウツボのおばさんがにやりと笑うのを、複雑な気分で見つめる。
人間にも色々いる。それは、何となく予想していた。
でも人さらいなんて恐ろしいものがいて、けれどその人さらいにすら、同情したくなるような事情があったりする。これは予想外だった。
人魚族の世界は、もっと簡単だ。みんな食べるものにも住むところにも困らないし、もめごとは王の立会いの下、話し合いで解決される。
たまに、群れになじめなくて遠くに旅に出てしまう者や、わたしみたいに人間の世界をのぞきにいってしまう者がいるくらいで、いつも平和そのものなのだ。
今すぐあの海に帰りたいという気持ちと、もっと人間たちについて知りたいという二つの気持ちが、胸の中でたゆたっているのを感じていた。
そんな話をしたその日の夕方、馬車は目的地に到着した。
最初に見た町よりも古びた感じの石でできた、大きな建物だ。たぶん、城とか屋敷とか呼ぶべきものなのだろう。
馬車がその屋敷の裏手に回ってすぐに、馬車から降ろされた。
というか、口を布でふさがれたと思ったら、そのまま大きな袋に詰められて運び出されてしまったのだ。それも、二人がかりで担いでいる。これではまるで荷物だ。
馬車のほうから、頑張りなよ、というウツボのおばさんの声がしたから、今わたしを担いでいるのは別の人間なのだろう。
その人間たちは、わたしを担いだまましばらく歩いていた。
と、いきなりどこかの床に下ろされた。布越しでも分かるくらいにひんやりしているから、石の床なのかな。
どうにかして出られないかな。でも、ここでへたに動くのも危ないかな。袋詰めにされたままそんなことを悩んでいたら、男たちの野太い声が聞こえてきた。
「お初にお目にかかります、リトラー伯爵様」
「とても珍しいものを手に入れたんですよ」
「きっとお気に召すと思います」
そのリトラー伯爵様というのが、わたしを買い取ろうとしている人物だろうか。どんな人だろう。
さらわれた人をわざわざ買い取っているのだから、怖くて危ない人なのかな。でもウツボのおばさんの口ぶりでは、そんなに恐ろしい人のようにも思えなかった。
「それでは、お目にかけましょう」
男たちの声に続き、誰かの手が袋にかかる感触がする。袋の口が開いて、そのまま袋が取り去られた。
そうしてわたしは、少し離れたところに立っていた男性と、まっすぐに見つめ合うことになった。