19.そうして故郷へ
わたしの提案に、フォルは目を見開いて立ち尽くす。ざざんという波の音が、やけに大きく聞こえてくる。
やがて彼は呆然としたまま、小さな声で言った。
「……僕は水の中では息ができないが」
「わたしがついていれば、大丈夫なんです。人魚族に触れていれば、地上の生き物でも水の中で息ができるんです」
わたしたち人魚族はこの不思議な能力を使って、過去には船が難破した人間を助けたこともあったらしい。
かなり前のことなので、その人間がどうなったかについては知らないけれど。
そして、わたしの返事を聞いたフォルはじっと考え込んでいた。
「執務……はアーエルに押しつけてきたから、問題はないな……というか、いつもからかわれている分のお返しとしてはちょうどいいか……いっそこのまま、伯爵の座を押しつけても……」
隣にいるわたしにぎりぎり聞こえるかどうかといった声で、彼は独り言をつぶやき始めた。さらりと恐ろしいことを言っている気もする。
「あの人間の女……も問題ないな。ガートルードなら、うまくやってくれるだろう。それにあの女も、悪だくみをするようには見えなかった」
あの人間の女って、ヒルダのことか。フォルの人間嫌いは知っているけれど、ちょっと言い方がひどいと思う。
それからもう少しつぶやいて、フォルはわたしを見た。
「分かった。君の招待を受けよう。海の中の暮らしに興味もあるしな」
晴れ晴れとした、しかし子供のような好奇心に満ちた目。どうやら彼も、わたしたちのことを気にしてくれているらしい。嬉しいな。
そんな彼を見返して、こくんとうなずく。
ともかく、これで決まりだ。フォルを連れて海の城に帰る。
とっても欲張りな、でもわたしにとっては一番幸せな選択肢。
「それじゃあ、行きましょう!」
「これが、海の中か……本当に呼吸ができるんだな。どうにも落ち着かないが」
「手を離さないでくださいね。わたしから離れたら、いきなり呼吸ができなくなってしまうらしいんです」
そうしてわたしたちは、海の中を泳いでいた。正確には、わたしが足を尾に戻して泳ぎ、フォルの手を引いているのだ。
ここに来るまで着ていたメイド服は、脱いでカバンにしまってある。今は、海の城から着てきたワンピース姿だ。
フォルと近衛兵たちからいったん離れ、岩陰で着替えたのだ。丈の長いメイド服で泳ぐのは、ちょっと難しそうだし。
近衛兵の一人が、わたしの少し後をついてきている。もう一人は先に行って、わたしが帰ってきたことを海の城に知らせにいった。
故郷の海。やっと戻ってこられた。懐かしい水の匂いの中を、のびのびと全身を使って泳ぐ。
自然と笑顔になりながら、どんどん進んでいく。やがて、遠くに海の城が見えてきた。
「あれが、わたしが生まれ育った海の城です。地上の建物と見た目は違いますけれど、住み心地はいいですよ」
日の光がさんさんと降り注ぐ海底に、ぽつんと建っている岩の塊。様々な貝殻やサンゴで飾りつけられたそれが、とても美しく感じられた。
しばらくここを離れていたから、余計にそう思うのかもしれない。
と、海の城から誰か出てきた。あれは……うわあ、ちょっと大変なことになりそう。
「ニネミアー!!」
「お帰りなさい、心配したんですよ!!」
マグロかカジキかなって思いたくなるくらいのものすごい速さで近づいてきたのは、案の定オーセアンお父様とシーシアお母様だった。
わたしが返事をするよりも早く、二人がかりでわたしをぎゅっと抱きしめてしまう。
フォルの手を離さないように気をつけながら、両親に声をかけた。
「ごめんなさい、心配かけてしまって。色々あって、帰れなくなっていたの」
「ああ、こうしてお前の無事な姿を見ることができるとは……良かった……本当に良かった……」
「そうですね。今日は、ニネミアが帰ってきた祝いの宴にしましょう。……ところで、こちらの方は?」
シーシアお母様が、わたしと手をつないだままのフォルを見て首をかしげている。
「えっと、わたしの命の恩人なの。地上でとてもお世話になって」
「なんと! それでは彼には、きちんともてなしをしなくてはな!」
わたしがみなまで言わないうちに、お父様が声を張り上げた。やけに張り切っている。
「そうですね。……いつまで経っても足取りがつかめないので心配していたのですが、彼のおかげで戻ってこられたのですか……ああ、感謝します……」
そうしてお母様は、涙ぐみながらフォルを見つめていた。心底ほっとしたような顔で。
そんな二人の姿を見ていたら、帰ってこられてよかった、という思いと、帰るのが遅くなってごめんなさい、という思いが込み上げてきた。
二人はわたしにもう一度微笑みかけてから、同時にフォルに向き直った。
「おお、名乗るのが遅れたな。私はオーセアングレー、人魚族の王を務めている。遠慮なくオーセアンと呼んでくれたまえ」
「王妃のシーシュアーと申します。みなからはシーシアと呼ばれております」
二人の丁寧なあいさつに、フォルも姿勢を正す。
「天翼族のフォル。地上で、人間のふりをして暮らしています。……このように、翼を持つ種族です」
そう言うと、フォルはいきなり翼を広げた。お父様とお母様が目を真ん丸にして、彼の白い翼に見入っている。
けれどフォルは、じきに微妙な表情が浮かべた。そしてまた、翼を引っ込めてしまう。わたしにだけ聞こえるくらいの声で、ぼそりとつぶやいた。
「……翼が濡れたな……雨くらいなら弾くんだが、さすがに水の中では無理があったか。どうにも気持ちが悪い」
「後で、水の魔法で乾かしますね。あの、お父様、お母様。フォルのために、あれを……」
二人はそれだけで、わたしの言いたいことを理解してくれたらしい。にっこりと笑ったままうなずいて、追いついてきた城のみんなにあれこれと指示を出している。
そしてそのまま、みんなと一緒に城に戻っていった。後に残されたのは、わたしとフォルの二人だけ。
「それじゃあ、もうちょっと城に近づいて、そこで待ちましょう」
「待つ? 何か、準備でもあるのか?」
「はい! 珍しくて素敵な準備です。……わたしも見るのは久しぶりなので、とても楽しみです」
そうしてフォルの手を引き、もうちょっとだけ海の城に近づく。
わくわくしながら待っていると、海の城の天井がゆっくりと開いた。
正確には、そこにある丸い窓がくるりと回るように開いて、人ひとりが両手を広げたまま通れるくらいの穴が開いたのだ。
一呼吸おいて、そこから人魚族のみんなが出てきた。きれいに列を作って、上に向かって泳いでいく。
人魚族の尾は、魚と同じようにうろこに覆われている。すべすべして色とりどりの、綺麗なうろこだ。白銀、淡い水色、青緑、優しい紫、桜貝色。
みんなが髪を、服をなびかせて、うろこをきらめかせながら海面を目指す。それはとても美しい、ため息の出るような光景だった。
ちらと隣を見ると、フォルも感心したような顔で人魚族の隊列に見入っている。
「ここからがもっと綺麗なんですよ。ほら」
わたしたちの目の前では、さらに幻想的な光景が広がっていた。
海面に到達した人魚族が、大きな泡を抱えるようにしてまた水底へと戻っていく。優しく差し込む日の光を受けて、泡は銀色に輝いていた。
「本当だ……まるで花が舞っているような……」
ふふ、フォルも気に入ってくれたみたい。それが嬉しくて、ちょっと得意げに説明する。
「ああやって海面に出て、空気を水の魔法で包んで城に持ち帰るんです。しばらくすれば、城の中は空気でいっぱいになります。そうすればフォルも、自由に城の中を歩けますよ」
するとフォルは、つながれたままのわたしの手を見て、ふっと苦笑した。
「……僕のために、か。手間をかけさせたな」
「あ、いえ、どのみち数年に一回、練習のためにこれをやってるんです。次は二年くらい後で、わたしも参加する予定になってます」
「練習? 君たちは水の中でも呼吸ができるのだろう?」
「そうなんですけど、城の中には乾いた状態で保存しておきたいものも置かれてるんです。その、人間の船が落としていった書物とか。それに、ごくたまに人間を助けたりもするみたいですから」
そう答えると、フォルは微妙な表情になった。とことん、人間の話はしたくないらしい。
でもそんな彼を見ていたら、つい笑みが浮かんでしまった。
初めて彼と会った時、ちょっと不思議でちょっぴり怖そうな、けれど親切な人だと思った。
でもこうして親しくなると、彼は怖くないし意外と子供っぽいところもあるし、えっと、あと割と強情だし……とにかく、面白い一面をたくさん見られた。それに、やっぱり親切で。
「わたし、あなたのところに売り飛ばされてよかったです、本当に」
「どうしたんだ、唐突に」
「言いたくなったんです」
にっこりと笑ってそう答えると、フォルはわたしを見つめて一瞬目を見張った。それから、目を伏せてぷいと横を向く。すねている……んじゃないな、たぶん照れてる。
「……ともかく、素晴らしいものを見せてもらって感謝する。後で、王と王妃にも言っておかないとな」
そんなことを話していたら、城のほうから近衛兵が泳いできた。準備ができましたので城の中へどうぞ、という言葉を伝えに。
フォルと目を見かわして、それから城へ向かって泳ぎ出す。とびっきり、うきうきした気分で。




