18.海辺の町はこれで二度目
「あ、この匂い!」
旅を続けて数日後、風の中に潮の香りが混ざり始めた。その香りに、うっとりと目を細める。
「懐かしい匂い……間違いないです。わたしの故郷は、もうすぐそこです」
「それならよかったが……匂いで場所まで分かるのか?」
「はい。うっかり遠くに出てしまった時なんか、潮の匂いを頼りに戻ってきたりもしますよ」
「そうなのか、便利だな」
「わたしたち、海の中では強いんです」
えっへん、と胸を張ったちょうどその時、馬車が停まった。どうやら、町に着いたらしい。
フォルが馬車の扉のところに立ち、こちらに手を差し伸べている。
「それでは、行こうか。君が海に無事旅立つまで、きちんと見届けさせてくれ」
「はい!」
彼の手を取って、馬車から降りる。リトラーの屋敷がある町よりもずっと小ぶりな、のどかな雰囲気の町。
「君は上陸してすぐ人間の町に着いたと言っていた。条件に該当するのは、この町だけだが……どうだ? 見覚えはないか?」
「……こんな感じだったような、違うような……そもそもわたし、人間の町には詳しくないので……」
そんなことを話しながら、ぶらぶらと歩く。と、見覚えのあるものが目についた。
「……あ、一口パイだ……」
行く手の屋台で売られていたのは、小さなお菓子。幾重にも重ねたパイ生地を小さく切って焼き、上にキイチゴなんかのジャムをのせたもの。
「あれが、どうかしたのか?」
「地上に出てきて、町を歩いて……気になったのが、あんな感じのお菓子だったんです。でも当時のわたしはお金の使い方も分かっていなくて……」
思えば当時のわたしは、かなり悪目立ちしていたのではないかと思う。
目立つ髪の色、何もかもが珍しくてたまらないといった顔できょろきょろしている姿。
「食べたいなあって遠くから見ていたら、男性に声をかけられました。……その男性が、人さらいの一味でした」
「……そうか」
答えたフォルの声の口調には、はっきりと怒りがにじみ出ている。あ、いけない。別の話、別の話。
「そ、それより! わたし、今度こそあれを食べてみたいです!」
そう言って、強引にフォルを屋台の前に引きずっていく。店員と話して一口パイを二つ買い、また屋台の前を離れた。
「はいどうぞ、わたしのおごりです!」
「あ、ああ……」
明らかに気乗りしない様子のフォルの目の前で、まだ温かい一口パイをぱくりと食べる。
素朴な甘さと、たっぷりと練り込まれたバターの風味が口の中いっぱいに広がって、思わず笑顔になってしまう。ふふ、おいしい。よかった、やっと食べられた。
それを見ていたフォルが、ためらいがちにパイにかぶりついた。瑠璃色の目が、わずかに見開かれる。
「……ふむ、確かに……悪くはない」
「ですよね?」
「ガートルードのものには劣るが」
すぐにそう言い切ったフォルに、小声で同意する。
「ガートルードさん、すっごく料理上手ですから……旅に出て、つくづくそのことを思い知らされました」
「本当に、彼女は素晴らしい女性だ。彼女がいなければ、伯爵としての任務はもっと困難になっていただろう」
その時、ふとあることに気がついた。さらに声をひそめて、彼の耳元でささやきかける。
「……でも、ガートルードさんは人間の血も引いていますよね。半分以上、人間です」
「だが彼女の心は気高き天翼族のものだ。人間の血が混ざっていたところで、関係ない」
フォルがそう言い切ったことに、ひそかに安心する。
彼は人間が嫌いだけれど、でも、人間ならもれなく全部嫌いということでもなさそうだ。だったらいつか、人間と仲良くなれる可能性もあるかもしれない。
確かに、彼が人間を嫌うのにも正当な理由があるのかなとは思う。でも、そうやって交流を狭めているのはもったいない。
リトラーの町の人たちは、彼を敬遠している。そんな風に誤解されたままなのはなんだか嫌だし、寂しい。
いつか、彼が素顔のまま、町のみんなと交流できるようになればいいな。そうしてヒルダが働いていたあのおいしい酒場で、一緒にご飯を食べたい。
一口パイを食べ終えて、にっこりと微笑む。その未来をつかむためには、わたしが頑張らなくちゃ。
そのためにも、いったん海の城に戻って、そしてもう一度あの屋敷へ……。
と、突然すっとんきょうな叫び声が聞こえてきた。
「姫様!!」
「よくぞご無事で!!」
飛び上がりそうになりながら声のしたほうを見ると、屈強な男が二人並んでこちらに駆け寄ってきていた。
フォルが顔を険しくして、わたしを背にかばうように身構える。
姫様? わたしをそう呼ぶのは、人魚族のみんなだけだ。それに、この二人の顔に何だか見覚えがあるような。
一瞬ぽかんとして、そうして気づいた。この二人、海の城の近衛兵だ。
海の中は平和だけれど、それでもごくまれにサメが迷い込んできたりする。なので、そういった場合に備えて近衛兵がいるのだ。
彼らは日々体を鍛え、できるだけ平穏に敵を追い払うための技を磨いている。
水中ではとても強い彼らだけれど、地上では本来の力を出せないはず。どうして、こんなところにいるのかな。
そう思っていたら、二人はわたしの前にひざまずいて、いきなりぶわっと涙を流し始めたのだ。
「ようやく、お会いできた……これほど喜ばしいことがあるでしょうか」
「我らは、オーセアン様とシーシア様の命を受け、ニネミア様を探すためにこうして地上へやってまいりました」
「ニネミア様がこの町に立ち寄っておられたということは分かったのですが、その後の足取りをつかむことができず……」
「こうしている間にニネミア様の身に何かあったらと思うと、苦しくてたまりませんでした……」
そんなことを口々に言って、彼らはまた泣き崩れる。通り過ぎる人たちが、何事だと驚いた目を向けてくる。えっと、目立っちゃうよね、やっぱり。
「あの、とりあえず立って。どこか、人のいないところで話しましょう」
べそべそと泣いている二人の大男と、困り果てた顔のフォルを連れて海岸のほうに向かう。
すぐに、静かな岩場までやってきた。すぐ近くでぱしゃんぱしゃんと波が打ち寄せているのがとても懐かしい。早く戻りたくて、うずうずする。
「えっと、心配させてごめんなさい。でもわたし、地上で元気に暮らしてたから。ちょっと遠くに連れていかれたせいで、中々戻ってこられなかったの」
そう言うと、近衛兵たちが一斉にフォルを見た。というか、にらんだ。
あ、いけない。勘違いされている。あわてて、フォルと近衛兵たちとの間に割って入る。
「ち、違うの! この人はわたしの命の恩人! この人がいなかったら、わたしはここまで戻ってこられなかった」
そこでふと、口ごもる。フォルのことを何て紹介したらいいんだろう。彼が天翼族だってことを話す訳にはいかないだろうし。
わたしがためらっているのを察してくれたのか、フォルが静かに口を開いた。
「……私はフォル。君たちと同じように、人間ではない存在だ。翼を持ち空を駆ける天翼族の一人」
近衛兵たちが人間ではないからなのか、彼はあっさりと名乗っていた。というか、種族までばらしていた。いいんだ、それで。
わたしとフォルの説明で、近衛兵たちもようやく納得してくれたらしい。彼らはごつい体を優雅に折り曲げて、わびるように頭を下げた。
「了解いたしました。ニネミア様の恩人に敵意を向けたこと、おわびいたします」
「いや、気にしていない。君たちが私を警戒するのも当然だろうから」
どうにか、こちらはまとまった。でももう一つ、片付けておきたい問題がある。
「それでね、わたしは海の城に戻るためにここまで連れてきてもらったのだけれど……」
もごもごとつぶやいて、ちらりとフォルを見る。
海の城に戻ったら、両親を説得してまた地上に戻るつもりだった。連絡すれば迎えの馬車をよこしてくれるとフォルは言ってくれたし、そちらは問題ない。
でも、両親を説得するのは大変そうだ。オーセアンお父様はものすごく心配性だから、特に。シーシアお母様のほうは、丁寧に説明したら応援してくれそうな気もするけど。
二人を説得するのに何日くらいかかるかなあ。もしかすると一月とか、もっと?
……両親には会いたい。でも、フォルと離れていたくない。そんなややこしい思いを、わたしは抱え込んでしまっていたのだ。
「どうした、海へ戻らないのか? ここから先は、僕はついていってやれないが……彼らがいれば大丈夫だろう」
黙り込んだわたしの顔を、フォルが不思議そうな表情でのぞき込んでくる。
すぐ近くに、瑠璃色の目があった。夜空のような、深い海のような、きらきらした青。
「あの……わたし……」
彼の目を見ていたら、自然と言葉がこぼれ落ちていた。
「……あなたと離れるの、嫌です……ここで別れたら、次はいつ会えるか分かりませんから……」
そこまでつぶやいたところで、ふとある考えが浮かぶ。
「ですから、その……」
ためらいながら、その答えを口にした。
「フォルも、海の城に来ませんか?」




