17.馬車に揺られて
フォルと二人、馬車に向かい合って座る。彼は素顔で、瑠璃色の目も、生き生きとした雰囲気の顔もはっきりと見えている。それだけのことが、妙に嬉しい。
馬車が走り出してしばらくの間は、なんとなくどちらも無言だった。
しばらくして、フォルがぽつりとつぶやく。
「……ニネミア。君は馬車には不慣れだろう。辛くなったら言うといい。休憩を取るから」
「はい、ありがとうございます。フォルは慣れているんですか?」
「いや、私もさほど慣れている訳ではない。私は一応リトラー家の当主ではあるが、他の貴族との交流はなかったし、他の町を訪ねたい用事もなかった」
あ、『私』だ。こないだは『僕』って言っていたのに。
少し悩んで、結局思ったことをそのまま口に出してみる。
「口調、元に戻してしまうんですね。こないだは、どうして口調が変わっていたんですか?」
するとフォルは、困ったような顔で口をつぐんだ。眉間にぐっとしわを寄せたまま、小声ささやいてくる。
「普通なら、口調が多少変わったとしてもいちいち指摘せずにそっとしておくと思うんだが……そこを堂々と聞いてくるとは、君はやはり少し変わっているのかもしれない」
そこで彼は、ふと何かに気づいたような顔になる。
「それとも、それは人魚族の特性なのだろうか……」
「海の城にいた頃は、変わっているなんて言われたこと……あ、ありました」
「あるのか」
わたしの言葉に、フォルが呆然とつぶやく。
「人魚族は、地上……人間たちとは関わらないようにしているんです。一部の学者たちが、ひっそりと人間の研究をしているだけで。でもわたしは、小さな頃からずっと地上に興味がありました」
「人間など、別に面白くもない。地上は、わざわざ危険を冒してまで見にくるような場所ではないだろう」
「面白かったです! こうしてフォルや、みんなに会えました!」
自然と、言い合いのようになってしまう。二人同時に目を見張って、それからやはり同時に苦笑する。
「……意外と強情だな」
「そちらこそ」
「……まあいい。最初の質問に答えていなかったな。アーエルと私は幼なじみということもあって、彼と話しているとつい昔の口調が出てしまうのだ。恥ずかしいところを見せたな」
「わたし、あの口調も好きです」
「好っ……! そんなことを、軽々しく口にするな」
「素直な気持ちなんですけど、駄目ですか?」
そう言ってじっとフォルを見つめる。彼は小さくうめいて、そのまま黙り込んでしまった。さらに見つめ続けたら、困ったような顔で唇をとがらせてしまった。
「……他に人がいない時なら、あちらの、気を抜いた口調で話してやらなくも……ない」
「わあい、やったあ!」
嬉しさのあまり腰を浮かせたら、馬車ががたんと揺れてつんのめった。転びかけたわたしを、向かいのフォルが受け止める。
「……気をつけろ」
「はいっ、ありがとうございました!」
あわてて席に着きながら、ふと思い出す。あの大雨の日、フォルに抱えられて飛んだ時のことを。
わたしを抱えている彼の腕は、わたしの背中に触れていた彼の胸は、意外とたくましかった。そんなことまで思い出してしまって、かっと顔が熱くなる。
「どうした、ニネミア? 様子がおかしいようだが」
「いえ、楽しい旅になりそうだなって思っただけです」
熱い頬をさりげなくさすりつつ、にっこりと答える。前に人さらいに連れていかれたあの時よりもずっとわくわくする旅になりそうだなと、そう思った。
それから馬車は町から町へ、どんどんと進んでいった。途中宿に泊まりながら、まっすぐに東へ。
馬車の中で、わたしたちはずっと話していた。以前奥の中庭で話していた時よりも、もっとずっと色々なことを。
「天翼族の人たちがわたしたちに気づいていたなんて、驚きです。わたしたちの間には、翼の生えた人については記録がなかったんですけれど」
「それは、僕たちの魔法によるものだろうな」
「えっと、天翼族も魔法を使えるんですか?」
わたしたち人魚族は、水を操る魔法や、氷を生み出す魔法を使える。とはいえ効果はささいなものなので、いつぞやの大水なんかには全く歯が立たない。
「ああ。風や雲を操ることができるんだ」
翼を出したり引っ込めたりするのも魔法なのかなと思ったのだけれど、そちらは違うらしい。
そういえばわたしたち人魚族が尾を足に変える能力も、魔法とはちょっと違う。練習もなにもなく、気づくと自然に使えるようになるのだ。
「僕たちの中には、隠し身の魔法を使える者がいる。周囲からは見えなくなる、そんな魔法だ」
「隠し身の……魔法?」
「実際に見たほうが早いな」
フォルがそう言ったとたん、彼の姿が消えた。びっくりして手を伸ばし、彼がいた辺りに伸ばしてみる。……何かに触れた。何もない空中なのに。
びっくりして手を引っ込めると、フォルの笑い声だけが聞こえてきた。そうして、また元通りの位置にフォルが姿を現す。
「驚いたか? こういうことなんだ」
「はい、よく分かりました……」
どきどきする胸を押さえながらそう答えると、フォルは快活に笑った。
また、こんなことも話した。
「リトラー伯爵家は、代々天翼族が当主を務める家なんだ。ずっとずっと昔に下の世界に降りた先祖が、苦労して爵位を手に入れたとかで」
「すごいですね……爵位を手に入れたことも、それからずっと人間の世界に溶け込んできたことも」
屋敷のメイドという比較的他人と関わらない仕事を振られていてなお、不思議な子だと浮いてしまった自分のふがいなさを思い出して、ついしゅんとしてしまう。
フォルはそんなわたしを見守ってくれていたけれど、ふと険しい目をして窓の外を見た。
「……僕たちがそうやって地上に拠点を作っているのには、二つ理由がある。一つは、僕たちの故郷である雲の大地に異変が起きた時に備えて、移住の足がかりとするため」
天翼族は、遥か上空に住んでいるのだそうだ。雲を魔法で固めた、雲の大地の上で。
でもその雲の大地は、いつまでも保つという保証がない。魔法で固めた雲は鋼鉄よりも頑丈だから、壊れる心配は今のところないらしい。
ただ、この調子で天翼族の数が増えていったら、雲の大地が重さで沈んでいく可能性もないとは言えないのだそうだ。なんだか途方もない話で、想像もつかない。
「そしてもう一つの目的は、地上で困っている同胞を助けるため」
フォルが苦しげに、きつく唇を噛んでいる。
わたしがこうして地上に出てきたように、昔から天翼族も好奇心に駆られて地上に降りていたのだそうだ。ガートルードの祖母も、そんな天翼族の一人だったのだとか。
しかし、そのままもめごとに巻き込まれて雲の上に帰れなくなったり、心無い人間に捕まって売り飛ばされたりした者もいたのだそうだ。
「もしかして、フォルが変わった生き物を集めていたのって……天翼族を……」
探しているものがある。見つかってほしいが、見つけたくない。確か彼は、前にそんなことを言っていた。
それが『人間によって虐げられた天翼族』なのだとしたら、納得できる。見つけて助けたい、でも見つかってしまったら人間への怒りを抑えられない。
「そうだ。人間たちは、僕たち天翼族を自分たちと対等の生き物としては見ない。翼が生えている分、鳥と同じだと見るんだ」
彼は怒りもあらわに、低い声でつぶやいている。
「だから『珍しい生き物を探している』という触れ込みにするしかなかった。そうやって集めた生き物のうち、どこにも行き場がないものをあの奥の中庭に住まわせていたんだ」
ため息を一つついてから、フォルがわたしを見た。
「そのくせ、図々しくも同胞である人間まで売りつけに来るのだから、あいつらの面の皮は分厚いにもほどがある」
あ、フォルがちょっと暴走してるかも。
この旅に出る前、アーエルがこっそりと教えてくれた。『フォルが人間について熱く語り出したら、さっさと別の話題を振ってやって。放っておくといつまでも同じようなことをぐちぐちと話し続けるから』だそうだ。
一生懸命考えて、思いついた話題をできるだけ明るく言ってみる。
「あの、つまりリトラー家の当主って、天翼族にとってはとても重要な仕事なんですよね。それを任されて、きちんとこなしているフォルはすごいと思います」
ぶつぶつつぶやき続けていたフォルが、不意に口を閉ざす。話題のすりかえ、成功したかな?
「こんな任務、受けたくはなかった。アーエルのほうがよほど適任だ。あいつは人間を嫌ってはいないし、内政の能力も高い。僕よりよほど適任だ。そうは思わないか?」
「え、えっと」
言われてみれば、アーエルは初めて顔を合わせた時からずっと、とても友好的だった。人魚族のわたしだけでなく、人間であるヒルダに対しても。
彼は今頃、リトラーの屋敷で忙しくしているはずだ。水にのまれた町の被害を確認して、必要な物資やらお金やらを用意して。
フォルの口ぶりからすると、アーエルはこういった事態に強い、有能な人物らしい。
でもフォルだって、きちんと仕事をこなしていたのだと思う。町並みはきちんと整備が行き届いていたし、人々は幸せそうだったし。人さらいも出ないし。
そんなことを考えて返事をできずにいるわたしに、フォルはきっぱりと言った。
「天翼族が下の世界に築いた拠点は、リトラーの屋敷以外にも複数ある。そして、僕たちには一つ決まりがある」
その厳かな口調に、思わず背筋が伸びる。
「下の世界の拠点に定住する者は、隠し身の魔法を使えるものでなくてはならない」
それって、さっき見せてもらった魔法だ。地上で暮らして危険な目にあったり正体がばれそうになったら、隠し身の魔法で切り抜けろ。そういう意味なのかな。
「隠し身の魔法を使える者は、そう多くない。そのせいで、僕は来たくもない地上に住み着く羽目になった」
苦いものでものみ込んだような顔のフォル。けれどその表情は、すぐに穏やかなものに変わっていった。
「そんな僕を心配して、アーエルは時々様子を見に来ていた。あいつは隠し身の魔法が使えないから、嵐の日や霧の日、月のない夜なんかを狙って移動しているんだ」
あの大雨の中、飛んでいるアーエルを見た。どうしてあんな夜に彼がやってきたのかがずっと気になっていたけれど、やっと分かった。
ふんふんとうなずいているわたしから視線をそらして、フォルは両手で頭を抱える。
「……まったく、こんな地面に縛られている自分が情けない。僕たちは誇り高き天翼族、空と共に生きる者たちなのに。ああ、けれど……」
そこで言葉を切って、フォルが目だけを動かしてわたしを見た。
「そうやって地上にいたからこそ、君と出会えた……とも言えるな」
上目遣いにわたしを見つめている瑠璃色の目に、胸がことりと大きな音を立てる。見慣れたはずのフォルの顔が、なんだか違って見える。
焦っているわたしがおかしかったのか、フォルが小さく笑った。
「そうだ、きちんと名乗っていなかったな。フォラータ・リトラーというのは仮の名なんだ」
彼は身を起こして、今度はまっすぐにわたしを見つめた。
「フォラータ・ヴァン・エール。それが僕の、天翼族としての名だ。人間たちには知られてはならないということになっているが、君なら構わないだろう」
「……あ、はい、内緒にします。それとわたしにも、人魚族としての名前があります」
そよ風のような彼の名前を頭の中で繰り返してから、ゆっくりと名乗り返した。
「わたしは、ニネミアマールといいます。人魚族の儀礼の時くらいしか使わない名前ですけど」
人魚族は、本当の名を口にすることはめったにない。だいたいいつも、愛称で呼び合う。
そして、その名を聞いたフォルがくしゃりと笑った。
「君にも別の名前があったのか。何だかくすぐったい気分だな。……君の名も黙っておく。これでおあいこだな」
「ふふ、ありがとうございます。……二人だけの秘密、ですね?」
嬉しくなってしまってそう言ったら、フォルが一気に真っ赤になった。そこまで動揺されると、こっちまでそわそわしてしまう。
わたしたちはそのまま、互いに視線をそらして黙りこくっていた。




