13.わたしは人魚族
激しい雨の中、空を飛ぶ人影。思わず窓ガラスに張りついて、じっと目を凝らす。
けれどその人影は、すぐにいなくなってしまった。もしかしたらわたし、幻か何かを見たのかな。そんなことを思ってしまうくらいに、現実味のない風景だった。
身じろぎもせずに、降り続ける雨をさらに見つめ続けていた。もう一度あの人影が見えないかなと、そんなことを思いながら。
どれくらいそうしていただろう。いつの間にか、廊下が妙に騒がしくなっていた。こんな遅くにこんなに人の気配がするなんて、初めてだ。
誰かが廊下を走っている音。隣のガートルードの部屋の扉を叩く音。それから、何か話している声もする。
何かあったのかな。そろそろと入り口の扉を薄く開けて、その隙間から様子をうかがう。
あ、ガートルードの部屋から誰か出てきた。知らない中年の男性たちと、ガートルードだ。
そのまま男性たちは屋敷の出口のほうへ、ガートルードは屋敷の奥のほうへ走っていく。
「……ガートルードさんが、走ってる……?」
驚きのあまり、そんなことをつぶやいてしまう。
ガートルードはいつも冷静沈着で、表情を変えずにしずしずと歩く人だ。あんなに血相を変えたところなんて、見たことがなかった。
きっと、何か大変なことが起こったに違いない。するりと部屋から出て、ガートルードの後をこっそりと追いかけた。足音を立てないよう、気をつけながら。
「ええっと……確かこの辺のはずだけど……」
しかしじきに、ガートルードを見失ってしまった。この辺りは屋敷の一番奥まった一角で、仕事の時でも立ち入ることはない。
ここにいるのを見つかったら叱られるかも。来た道は覚えているから、誰かに見つかる前に部屋に戻ろうかなあ。
そう思ったその時、かすかに話し声が聞こえてきた。近くの部屋の中に誰かいる。
耳を澄ませて、音の出所を探る。ここかな、と思った扉にぴったりと耳をつけて、中の様子を探ってみた。
「……では、じきに橋が落ちる、と?」
聞こえてきたのはフォルの声だった。もしかしてここ、フォルの部屋なのかな。
「はい。北地区は既に水に囲まれています。のみならず、北区画の低地も水没しつつあるようです」
こっちはガートルードの声。いつも冷静なその声に、焦りのようなものが混ざっている気がする。
「北地区か……住宅は小高いところに集まっていて、低地は店舗ばかりか。ならば、人的被害はさほど出ないだろう」
「はい。ですが……あの辺りには夜遅くまで営業している酒場も多くありますから、逃げ遅れた者が出るおそれも……」
ガートルードの言葉に、血の気がさあっと引いていった。
橋の向こうの、酒場がある区画。それって、夕方にヒルダとご飯を食べたあの区画なんじゃ。そういえば、あそこは町の北のほうにあったし。
心臓がどくんどくんとうるさくて、扉の向こうの会話が聞こえない。いったん扉から離れて深呼吸しながら、必死に考えをまとめる。
ヒルダは、今日は遅番なのだと言っていた。明日は昼の青果店がお休みだから、その分こっちで長く働くんだ、と。
さすがにこの雨だから、酒場も早く閉まっただろうか。それとも、予定通り深夜まで店を開けていただろうか。
さっきフォルは、低地は店舗ばかりだと言っていた。だったら、あの酒場も水に沈みつつあるのだろうか。
ヒルダは、店長は、一緒にはしゃいだ客のみんなは、無事だろうか。
考えれば考えるほど、足先から冷たくなっていくような心地がする。
「……足先……」
ふと目に入った自分のつま先をじっと見つめながら、考えた。
わたしのこの足は、元々はしなやかな尾だ。元の姿に戻れば、わたしはとっても速く泳げる。たとえ町が丸ごと水に沈んでも、問題なく動ける。
「ちょっと、こっそり様子を見にいくくらいなら……いいよね」
まるで言い訳のような言葉を口にして、その場を後にした。さっきにも増して、心臓が大きく跳ね回っていた。
いったん自室に戻って支度をし、全身をすっぽり包むマントを着て屋敷を飛び出す。
叩きつけるような雨は、さほど気にならなかった。むしろ、海の中を思い出してしまってちょっと切なくなった。
吹き荒れる風に、髪が巻き上げられて顔に張りつく。手で押さえながら、昼間歩いた道を急ぐ。
といっても、わたしの歩みは遅かった。既にもうすねの辺りまで、水が溜まってしまっていたのだ。泳ぐには浅すぎるし、歩くのには邪魔になる。
じゃぶじゃぶと水をかき分けながら、北地区に向かう唯一の橋へとたどり着いた。
「これ……大変だ」
橋の下の川、昼間見たそれは、橋よりずっと下を流れる穏やかなものだった。
けれど今その川は、ごうごうと恐ろしい音を立てる濁流に変わってしまっていた。橋の上から手を伸ばせば水しぶきがかかってしまいそうなくらいに、水位が上がってしまっている。
橋を支える木組みも、濁流に押されたのか傾いてしまっている。ぐらぐらとしていて、今にも丸ごと流されてしまいそうだ。この橋の上を通るのは、どう考えても無理だ。
この先に向かうのは、普通の人間にはできない。でも、わたしなら。
「誰も見てない、よね」
周囲をきょろきょろと見渡して、そろそろとマントと靴を脱ぐ。その下に着ていたのは、海の城から着てきた丈の短いワンピース。
人間の服、綿や毛でできた服は水を吸うと重くなる。水をはじくよう油を染み込ませた服は、水の中では動きの邪魔になる。
でも人魚族のこの服は、人間たちの服とはまるで違う。薄くてすべすべしていて、水の流れのようにきらめいている。水を吸って重くなることも、動きの邪魔をすることもない。
この服を着ていたら目立つから、普段は自室にしまってある。でも今は、この大雨のおかげで人が全然出歩いていない。
だから、この服を着ていても大丈夫だろう。それに、足ではなく尾をさらしても。
そんなことを考えながら、靴をマントでくるんで橋の手すりにくくりつける。それから地面を蹴って、ぽんと目の前の濁流に飛び込んだ。
空中で、足を尾に戻しながら。
真水って、泳ぎにくい。しかも、こんなに荒れ狂った流れだし。ちょっと気を抜くと、流されてきたがれきにぶつかりそうになるし。
橋の下の川を泳いで、ぐるっと回りこむようにして北区画に入る。
夕方あんなにきらきらしていた大通りは、もうすっかり水に沈んでしまっていた。そこを泳いで進みながら、悔しさにぐっと唇を噛む。
「みんな、大丈夫かな……誰かいますかって、声を上げたほうがいいのかな? でも、目立ったらいけないし……」
逃げ遅れている人がいるなら助けたい。この状況では、人間が自力で高台に逃げるのは難しいと思う。
人魚族がこの姿を人間の前にさらすのはまずいけれど、それよりも人命が優先だ。
人を見つけたいような、見つけたくないような。誰もいなければそれが一番なのだけど。
うんうんうなりながら泳ぎ続けていた時、信じられないものが目に飛び込んできた。
「ヒルダ!」
裏路地に積み重ねられた木箱の上に、ヒルダが立っていたのだ。彼女は近くの建物の外壁にしがみついて、おびえた様子で震えている。
「あ、ニネミア……お願い、助けて……」
いつも快活な彼女が、泣きそうな顔をしていた。あわてて彼女のそばに泳いでいって、手を差し伸べる。
「うん、一緒に逃げよう! わたし、泳ぐのは得意だから。ちょっと怖いかもしれないけど、そこから降りて、わたしにつかまって」
ヒルダは視線をさまよわせて、それからおずおずとこちらに手を伸ばしてくる。その手をしっかりとつかんで引っ張り、彼女の体を抱き留めた。
一瞬、尾を足に変えて泳ごうかと思った。でもこの激しい流れの中で、それは難しそうだ。仕方ない、このままでいこう。
「え、なに……ニネミア、その足……」
「後で話すわ。今は、ここを離れるほうが先!」
わたしの尾に気づいたらしいヒルダが、びくりと身を震わせる。それでもわたしが強引に泳ぎ出したら、彼女はしっかりとしがみついてきた。
「それじゃあ、しっかりつかまってて!」
彼女を振り落とさないよう気をつけながら、それでも精いっぱい急いで泳ぐ。
目指すは、丘の上にあるリトラーの屋敷だ。あそこなら、どれだけ水位が上がっても水に飲まれることはない。
「……怖いよう……父さん……」
ヒルダは、小声でそんなことをつぶやいている。おびえる子供のような声で。
さっきから彼女の様子がおかしいのが気になる。でもそれについても、尋ねるのは後だ。早く、安全な場所へ。
しかし、どんどん泳ぎづらくなっていく。水が増えていくのはいいとして、がれきもさらに増えてしまっていたのだ。
ヒルダを連れたまま来た道を戻るのは、ちょっと難しそうだ。
仕方なく、町の外側に大きく回り込む。そこはさらに水が増しているけれど、逆にそのほうが泳ぎやすいし、がれきもよけやすい。
ヒルダが怖がらないように、できるだけ流れが緩やかなところを探しながら泳ぐ。
そうしていたら町の外の、元々草原だったところへ出た。すぐ隣には森がある。
「あとちょっとよ、ヒルダ。ここの草原を突っ切って、丘の上の伯爵様の屋敷に行こう」
「うん……」
明るい声で励ますと、ヒルダは震えながらもしっかりとうなずいてくれた。さっきよりは落ち着いてきたようだ。
よし、頑張ろう。気合を入れて速度を上げようとしたまさにその時、大きめの木が流されてきた。
それをよけようとしたら、森のほうに近づいてしまった。すると突然、何かがきしむような恐ろしげな音が聞こえてきた。
そちらを見ると、とびきり大きな木が一本、こちらに向かって倒れ込んでくるのが見えた。
逃げなきゃ。あの木、たくさんの葉が茂っている。かなり離れないと、巻き込まれる。
急ごうとしたけれど、ヒルダを抱えている分いつもの速さが出ない。もっと水が深ければもぐって逃げることもできるけど、ここでは無理だ。
どうしよう。どうやったら、あの木から逃げられるんだろう。せめて、ヒルダだけでも守れないかな。
そんなことを必死に考えていたわたしの上に、太い枝がのしかかろうとしていた。




