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10.かの人の名は

 私の負け。伯爵様は、そう言ったらしい。でもわたし、そもそも勝ち負けが出てくるような話をしていたかな?


 確か、伯爵様にお礼を言いたくて、あと伯爵様の力になりたくて。そんなことを一生懸命に主張していた覚えしかない。


 ぽかんとしているわたしがおかしかったのか、伯爵様はくすくすと笑い出した。その声が、どんどん大きくなっていく。


「本当に君は変わり者だな。私は人嫌いだと何度も念を押しているのに、それでも近づいてくるし、あげくには私のことを知りたいなどと言い出した」


 そう言って彼は、わたしが渡した首飾りをそっと自分の首にかけた。そうして不格好な袋を、ポケットにしまい込んでいる。


「君の礼、確かに受け取った。だが……これだと、少々受け取りすぎのように思える」


「受け取りすぎ、ですか?」


「ああ。私は、たまたま気が向いたから君を屋敷に置いた。君の世話を、ガートルードに押しつけて。部屋も金も余っているから、君が恩を感じる必要なんてない」


 彼は苦笑して、首飾りの貝のビーズを指さしてみせた。


「このビーズの細工は、かなり高度なものだ。地味な貝に彫られているせいでぱっと見は分かりづらいが、一流の職人の手によるものだろう。どこで、このようなものを?」


 伯爵様の言う通り、そのビーズを作ったのは人魚族でもとびきりの職人だ。


 でもまさか、それを正直に答える訳にもいかないし。うかつに話をでっちあげたら、わたしの身元の話になってしまいそうな気がするし。


「……やはり、君にも事情があるようだな。話せないのなら別に構わない」


 一生懸命言い訳を考えていたら、伯爵様がそう言った。とても柔らかな声で。


「ともかく、もらいすぎた分を返しておきたいのだが……これならどうだろうか」


 そう言うなり、伯爵様は驚くべき行動に出た。なんと彼はすっと手を伸ばすと、いきなり仮面を外したのだ。


 息をのむわたしの前で、彼の顔があらわになる。深い海の青を映したような目が、まっすぐにわたしを見つめていた。


「君は、私のことをもっと知りたいと言っていただろう。ならば最初に気にするのは、おそらくこれだろうと思ったのだが……その表情からすると、当たりだな」


 どことなく得意げに、伯爵様が笑う。少し釣り気味の意志の強そうな目を、楽しそうに細めて。子供のような無邪気さをはらんだ、そんな笑顔だった。


 ああ、やっぱりこの人は夜光貝に似ている。硬くてそっけのない貝殻は、こんなにも美しい色を秘めていた。


 自然と、彼をまじまじと見つめてしまう。お礼のもらいすぎを返す、というよく分からない理由ではあるものの、彼が素顔を見せてくれたのが嬉しくて。


「そうも熱心に見られると、こちらとしても落ち着かないのだが」


「……どうして仮面で隠してしまうんですか? そんなに綺麗なのに……」


 そんな本音を、ぽつりとつぶやく。と、伯爵様が一瞬苦しげに顔をしかめた。


「君はやっぱり、よく分からない人間だな。おどおどとしているかと思えば、ぶしつけなことを正面から尋ねてくる」


「あ、その、いえ、今のは忘れてください」


 伯爵様の指摘に、自分が聞いてはいけないことを聞いてしまったことに気づく。焦りながら首を横に振っていたら、伯爵様が目を細めて表情を消した。


「知りたいのなら教えてやろう。私は、人間が、嫌いだ」


 一言一言を区切るようにして、伯爵様はその言葉を口にした。


「人間に顔をさらすのも、顔を覚えられるのもごめんだ。だからこうやって、顔を隠している」


 でも、伯爵様だって人間なのに。喉元まで出かかったそんな言葉を、あわててのみ込む。


 今の伯爵様の表情には、疑いようのない嫌悪の色があった。余計なことを言ったら怒らせてしまうかも。


 だから代わりに、もう一つ気になっていることを口にした。


「あの……でしたらどうして、あなたはわたしとこんな風に話してくれるのですか?」


 すると伯爵様は、即座に答えた。顔をきりりと引き締めた、真顔そのものの顔で。


「君はとにかく訳が分からない。君を見ていると疑問が次々わいてきて、嫌悪の感情が追いやられる」


 もしかしてこれは、変わり者だと遠回しに言われているのかな。


「それに、そのまっすぐな……というより、人を疑うことを知らない性格が、とても危なっかしくてたまらない。むしろ、心配になってしまう」


 彼の表情が、複雑に変わっていく。嫌悪とためらいと心配とがごっちゃになった感じだ。


 あと、はらはらしているような……岩陰にひそんだタコに狙われている能天気な小魚を見ている時の人魚族の顔に似ている。


 ……ひとまず、わたしそのものは嫌われていないんだなと思った。ただ、何というか……残念な子だと思われているような気もする。その分、親しみを持ってもらえているのかもしれないけれど。


「あの、心配していただいてありがとうございます」


 ひとまずお礼を言ったら、伯爵様が困ったようにぎゅっと眉を寄せた。


「……また、予想外の反応だ。普通なら、多少なりとも気を悪くするところだろう。さっきの私の言葉は、悪口にしか聞こえないはずだが」


「そう……でしょうか? なんだか色々含みはあるのかなとは思いましたけど、心配してもらえたのは嬉しかったので」


 思ったままを答えると、伯爵様は深々とため息をついて、がっくりとうなだれた。両手で頭を抱えて、きらきらの黒髪をかき回している。


「ほらな。やはりお人よしだ」


 わたし、別にお人よしじゃないと思うけれど。


 ただ、ここで口を挟んだらさらに伯爵様が反論してくるような気がしたので、とりあえず黙っておく。


 それに、伯爵様に勘違いされること自体は別に嫌ではなかったし。


 静かに様子を見ていたら、伯爵様は目だけを動かしてちらりとこちらを見た。


「……もういい。君の好きにしろ。恩を返すなりなんなり。メイドとしての仕事をきちんとこなしていれば、それでいい」


「ありがとうございます!」


 彼の言葉に、ぺこりと頭を下げる。やった、これで追い出されずに済む。今まで受けた恩をきちんと返せる。


 ……それに、もしかしたら彼についてもっと知ることができるかもしれない。さっきようやく気づいたそんな思いが、胸の中でちかちかとまたたいているように感じた。


 嬉しくて、そわそわして、くすぐったい。自然と、笑みが浮かんでいた。


 今日はいい日だ。伯爵様にお礼ができて、ここにいてもいいと言われて、彼の顔を見ることもできて。


 歌い出したいのをこらえながら、頭を上げる。伯爵様も頭を抱えるのを止めて、また普通に立っていた。ただ、なぜかちょっと視線をそらしているけれど。


 わたしはにこにこと微笑みながら、伯爵様は明後日のほうを見つめながら、夕暮れの中庭のそばで立っていた。


 どちらも、何も言わない。とても静かなこの時間は、不思議なくらいに落ち着くものだった。夜遅くに海面まで泳いでいって、星空を眺めている時の気分に似ているかも。


 やがて、伯爵様が視線をそらしたままぽつりとつぶやいた。


「……フォラータ」


 その言葉に、ちょっとだけ首をかしげる。何だろう、聞いたことのない言葉だ。


「……私の名だ。フォラータ・リトラー。この屋敷で私の名を知っているのは、ガートルードだけだ」


 驚きに目を丸くするわたしに、彼はさらに言う。


「他の人間のいないところでなら、名を呼ぶことを許可する」


「……フォラータ、さま……」


 名前、教えてもらえた。どうして彼がそうしようと思ったのか分からないけれど、とっても嬉しい。


「……フォル、だ。私の名を知る者は、みなそう呼んでいる。それと、様はいらない。なぜなのかは分からないが、君には似合わない気がする」


 小声でそう言ってから、彼は顔を軽くしかめて首を横に振る。


「……また、分からないことが増えた……なんなんだ、君という存在は……」


 彼はそんな独り言を残して、さっさと立ち去ってしまう。元通りに仮面を着けて。


 遠ざかっていく背中を、じっと見送る。彼は一度も振り返ることなく、曲がり角の向こうに消えていった。


 それでもわたしは、彼が去っていったほうをじっと見つめていた。さっきの喜びの余韻に浸りながら。


「フォル……」


 誰もいないことを確認してから、そっとその名前を声に出してみる。


 そのとたん、ものすごく気恥ずかしくなった。頭をぷるぷると小さく振りながら、頬を押さえてうつむく。


 そんなわたしの足元を、夕日に照らされて赤く染まったハリネズミがとてとてと歩いていた。

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