3.最悪の出会い
その日は朝から嫌な予感がしていた。それは単なる直感というわけではない。
俺が入学することに決めた、この天川高校には中学校までの友人はほとんど入学しないことが分かっていたからだ。
中学の入学式のときはまだよかった。小学生の頃から知ってる奴が多かったからだ。
俺の「発作」は見知らぬ他人に囲まれたときに起こるものだ。そう、俺の予感にはちゃんと理由があったのだ。
本当なら俺も多くの友人たちが通うことになる藤峰高校に進学したかったが、中学の担任の先生に名門校である天川高校への進学を勧められたのだ。
自慢じゃないが、俺は学校のテストの成績はいいほうだと思う。
その証拠にちゃんとこうして天川高校を受験して、合格を決めることができた。
そして、見知らぬ奴らの多い、新しい環境に期待する気持ちがないわけではない。
だが、やはり俺にとっては、この「最初の一歩」が鬼門なのだ。新しい出会いがあると吐き気を催してしまう。
もしも入学式で嘔吐してしまったら、少なくとも数ヶ月間のあだ名は「ゲロ野郎」で決まりだろう。
ううっ、それだけはなんとしても避けなくては……。そんな不安を抱えたまま、俺は体育館に並べられたパイプ椅子のひとつに座っていた。
入学式ではまず校長先生らしき人が壇上に上がり、長々と話を始めた。
尤も俺はなるべく顔を伏せて気分を落ち着けようとしていたので、まともに顔も見ていないのだが……。
いや、考えてみれば、高校2年生になった今でも校長先生の顔はうろ覚えかもしれない。
まあ、もとよりあまり関わりのない先生なんて、そんなものか。普段何をしてるのかもよく分からないし。
とにかくとにかく、そのときの俺にとっては校長先生の長話も顔もどうでもよかった。
ただ1分1秒でも早くこの時間が終わって欲しい。そう願うだけだった。
その間にも俺の顔はどんどん青ざめていったらしい。うしろの席に座っていた女の子が俺の背中を擦りながら、心配そうに小声で声をかけてくれた。
「ねえ、あなた大丈夫……?
さっきから気分が悪そうだけど、先生を呼びましょうか?」
「いや、平気だよ。心配しないで。うっぷ……」
安心させようとしてそう答えたつもりだったが、吐き気を堪えて口元を手で押さえては意味がない。
ただ余計に心配させてしまっただけのようだ。しかし、俺には振り返ってその顔を見る余裕すらない。
とりあえずこの入学式の時間さえ乗り切ればあとはなんとかなると思っていたので、放っておいて欲しい気持ちだった。
しかし、その女の子は続けて俺に訊ねてきた。
「……いつから?」
「え? ううっ……」
「いつから気分が悪いの?
昨日から? 朝から? ……それとも今急に?」
……なんで今そんなことを気にするのだろうか。俺は今にも吐き出しそうだというのに。
そんな質問に答える余裕がないことくらいは察して欲しい。ひょっとして少し変わった子なのだろうか。
ただ、その子はそう訊きながらずっと俺の背中を擦ってくれていた。そのおかげで少しは楽になった俺は顔だけうしろに向けて答えた。
「体育館に入ってきた頃くらいからだよ……。
元々俺はこういう人混みが苦手な体質なんだ。だからあまり心配しないで――」
そのとき俺は初めて、その女の子の顔を視界に入れた。そして、衝撃を受けた。
か、かわいい……! いや、あまりにもかわい過ぎる……!!
透き通るような白い肌、整った目鼻立ち、艶やかなロングヘア。
まさに清楚という言葉をそのまま体現したような美少女だ。
そして、俺の理想のタイプそのものでもあり、思わず胸が高鳴った。それは間違いなく一目惚れだった。
――だが、それと同時に俺の吐き気はピークに達し、ついに胃の中のものを吐き出してしまった。
「お、おぇえええぇえ……!!」
俺は口の中から吐瀉物が零れないように必死で腕で抑えながら、一目散に体育館の出入り口を目指して駆け出した。
当然のことながら、体育館内の先生や生徒、保護者たちは何事かと驚いている様子だったが、構わずに俺は走り去った。
先生らしき声が俺の背中を突き刺していたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
そして、そのまま近くのトイレへと直行すると、大便器に向かって盛大に嘔吐した。
くそっ、やっぱりやってしまった……。先程の女の子も小さく悲鳴を上げていたような気がする。ああもう、第一印象最悪だ。
あんなかわいい子に最初から幻滅されてしまうなんて、俺の高校生活は最悪のスタートだ。
――いやいや、今は気にするな! とにかく胃の中のものをすべて吐き出してしまわないと「発作」は収まりそうになかった。
俺はそのあともしばらく、何度もえずいては嘔吐を繰り返した。
そうこうしているうちに入学式は何事もなかったかのように進行しているのだろうか。
あの場にいた奴らにとっては一生忘れられない入学式になったんだろうな。ああ、畜生……。
そんな風に考えるくらいの余裕は取り戻したとき、誰かが声をかけてきた。
誰か先生が心配してきたのだろうかとも思ったが、それは同年代の男の声だった。
「よう、お前大丈夫かー? 入学初日から大変そうじゃん」
それは本気で心配してるとは思えない軽い口調だった。
振り向いた先にいたのはおそらく俺と同じ新入生の男子だろうと思った。新品の学生服が眩しい。
しかし、そいつの顔や髪型は見るからにチャラそうで、見方によっては不良にさえ見えてくる。
だが、きっと悪い奴ではないのだろう。俺はそいつと同じように軽口で答えてやった。
「ああ、最悪の気分だぜ。
吐き気だけじゃなくて、今後の学園生活のことまで考えてな」
「あははっ、そりゃ災難だったな。
まあ気にすんなよ。こういうこともあるって!」
他人事だと思いやがって……。だが、みんながこいつと同じように気にしないでくれるなら、確かに今後の心配は必要ないだろう。
そう言えば、何故こいつは今トイレに来ているんだ? まだ入学式の途中だろう?
俺は口をゆすぐために洗面台に向かいながら訊いてみた。
「入学式抜け出してきてよかったのか?
悪いな、せっかくの大事な思い出なのに」
「大事な思い出ぇ??? ぶはははは、お前面白いこと言うなぁ!!」
「な、なんだよ……。何がそんなにおかしいんだよ」
俺を馬鹿にしたように笑うそいつに若干の不快感を感じた。
ああ、しかも上着の袖についた"これ"は水で洗ったくらいじゃ落ちそうにないな……。
俺は口をゆすいだあと、上着を脱いで袖を軽く洗った。今日はこのまま脇に抱えておいて、家に帰ってからしっかり洗濯するしかないだろう。
鏡に映る俺の顔は不甲斐なさと不快感で苛立っているようだった。
「いやいや、だって考えてもみろよ。
どうせ入学式なんて校長先生の長話や、心のこもってない在校生の挨拶を聞くだけの退屈な時間だぜ?
むしろ抜け出す口実を作ってくれて感謝してるくらいだぜ。『先生はいいから、ここは俺に任せてください』ってな」
なるほど、それで俺を追いかけてきたってわけか。
決して俺への思いやりからというわけではないようだが、素直にそう言ってくれると逆に気分がいい。
そうこうしているうちに学校のチャイムが鳴った。もう入学式も終わってしまったか。
確かこのあとは各々の教室に行って担任となる先生の話を聞くことになるらしい。
どこが自分のクラスなのかは事前に通知されているので、少しは迷うかもしれないが、俺ひとりでもどうにかなるだろう。
「おっと、俺はもう行くぜ?
お前はもうちょっと気分を落ち着けてから行くだろ?」
「ああ、あとのことは大丈夫だ。心配しないで行ってくれ」
「おう、それじゃあなー」
そして、そいつは俺の言葉通りに、大して心配する様子もなくさっさと廊下を駆けていった。
やれやれ、いいかげんな奴だったな。だが、いい友達にはなれそうだ。
俺は案外知らない奴ばかりというこの環境も悪くはないような気がした。
無理矢理にでもそう考えることにした俺は、もう一度だけ口をゆすぐと教室を目指し歩き出した。