3、
この前の、「大型新人、会議で大口叩いて大ひんしゅく」事件の事を言っているのだろう。
首相はちらりと、春奈の読んでいるタウンワークを見た。
まずい、とぐしゃぐしゃに折り畳んで表紙を隠す。
「…ご期待に添えず、申し訳ないです」
頭を下げると、総理はうん、と頷くと後ろ手を組んでフェンスの近くへと歩いていき、
眼下に広がる東京を見下ろした。
その様子は、とても優雅だ。
「一年で八百億円」
と、いつも政治番組などで耳にする、良く通る声で言った。
「何の数字か分かるかね?」
春奈の答えを聞く前に、総理は右手をまっすぐ上げ、
遥か海の向こう、霧に霞み埋め立てられた離島を指差した。
「横浜圏に、我々本島が一年で輸出などの援助をしている総額だ。
一年に八百億もの物資を渡して、彼らは我々に何を返してくれた?
入国禁止で何もわからない。
武士が本当にいるのかさえ、疑わしい」
そう呟く首相は、嘆かわしいと言うように眉をひそめた。
日本に「横浜圏」ができたのは、約百五十年近く前である。
明治維新の起きた、一八六八年。それはまさに、日本史上に残る大改革であった。
が、直後に日本史上に残る大一揆がおこった。
外国からの要求、テコ入れをおいそれと聞き入れまいと、
相模の国の大名であった梶原芳勝を頭目とした近代化に反対する武士達による一揆は、
実に三十万人にも及び、政府の者達に恐怖を与えた。
刀を片手に鬼の形相で迫ってくる者達に応戦するも、相手は死に物狂いのもののふだ。
お役人たちがどう頑張っても勝てる相手ではない。
そんなに刀を振り回し、日本の近代化は我々のためだと何度言い聞かせても一切聞く耳を持たず。
「ならば、武士だけを集めた場所を作り、他の場所を近代化すればよいではないか」
と、黒船で来航したペリーは言った。
なんたる名案。
後に愚案と称されるこのアドバイスの通り、黒船が来航した浦賀一帯を囲い込み、埋め立てて、
武士の住む場所にするという触れ書きを出したのだった
お互いの妥協点ということで、武士側も役人側も何とか納得。
特に役人は、自分たちの喉笛まであと一歩のところまで食いついてきた武士達の相手を
もうしなくて良いと安堵しただろう。
一揆はようやく収まり、日本全国津々浦々から、荒くれ者が終結した。
その数は数万人とも、数十万人とも言われており、正確な数が把握できないほどであった。
東は横浜から西は平塚、そして南は三浦半島までをぐるっと囲むように埋め立てられた土地は、後に廃藩置県された時に「横浜圏」と名付けられた。
一揆の頭目であった梶原芳勝が「圏主」となり、有能な部下達を補佐役に置き、政治・軍事ともに最高権威として君臨し、以降も世襲制でつつがなく血筋は続いていったのだ。
伝統と新体制の共存、という、世界史的にいえば素晴らしい美談で書かれている。
――しかし、実際の歴史はそこでは終われない。
IT大国日本の首都、東京の横にぽっかりと浮かぶ、埋め立てられ離島と化した横浜圏は、現在もまだ存在していた。
結論から言うと、武士は現代社会では驚くほど役立たずであった。
曲げることのない信念を持ち、一流の刀さばきができたとて、米や麦を育て、生活必需品を売らなければ経済は回らない。
梶原芳勝が一代圏主として君臨してから早百五十年、食料や鉄鋼など、
すべての物は本島である東京からの補助に頼る始末。
最初は快く援助していた日本政府も、何もしない横浜圏にはほとほと呆れてきた。