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Neithergeist.

 真夜中、それなりに遅い時間に芥川テツハルは帰宅する。

 早寝体質の老人ならばとっくの昔に床に就いているような時間帯に帰ってくるのが、彼のいつもの日課であった。

 その様な説明だけを受けるとまるで仕事が大好きな人間だと思われるかもしれないが、彼は別段仕事に対してこれといった思い入れも抱いていなかった。

 仕事とは、無趣味な自分が暇をつぶすための時間の事。

 彼はその様に自らの職場をとらえている節があった。


 事実彼は家の中では暇を持て余してばかりいた。

 色々な趣味に手を出してみたが飽きっぽい為すぐに興味を失ってしまう。

 動体視力がとても低い為、大半のゲームには全くのめり込むことが適わない。

 家の中ではほとんど食べるか寝るか風呂に入るくらいの事しか時間を潰せる手段が無く、おのずと彼は職がに滞在する時間が長引いてしまっていた。


 時間が潰せるだけでなく、お金まで手に入るなんてこんなに素晴らしい事は無い。

 テツハルは仕事人間という訳ではないし、仕事を愛してなどいなかったが、自分を受け入れてくれている職場の事は愛していた。


 そんな自分本位な性格をしている事もあり、彼の帰宅は遅かった。

 家に長時間居たくない為、わざと遠回りでゆっくりクルマを運転しながら帰路に就く。

 中学三年生の息子が待っているのだが、その事に関してもあまり気にする素振りは持ち合わせていなかった。

 彼は息子のトシハルに対して、ある種の全幅の信頼を置いていた。

 何時の頃からか思い出す事が出来ないが、彼が仕事から帰った時、家の中の家事周りがすべて完璧にこなされている様になっていた。


 洗濯物はきちんと干され、畳まれている。

 シンクに攫の類は残されておらず、皿はきちんと洗われている。

 部屋の掃除もすっかりされてしまっており、収納に関しても全部終えられてしまっていた。

 父が仕事疲れで疲労困憊しているだろうと思っての行動なんだろうなとテツハルも理解はしていたが、家の中で行える家事という名の暇つぶしを取り上げられてしまった様にも感じてしまっていた。

 その、失望の様な諦観の様な、なんとも言えないもやもやぁっとした感情のせいも相まって、テツハルは次第に帰宅する時間が遅くなっていたのだった。


 ――自分はあまり、良い父親とは呼べないのだろうなあ。

 テツハルは当然その様に自分の事をとらえていたが、かといって今更生き方を変えられるはずも無く、悪い悪いとは思いながらも息子に家のすべてを押し付けてしまっている生き方を続けてしまっているのだった。


「……ふぅ」


 夏の夜ののどかな熱に若干むせ返る様なけだるさを感じながら、テツハルは自宅の玄関扉に手をかける。

 鍵を取り出す素振りは無い。

 彼が帰宅するその丁度あたりの時間帯に、息子のトシハルがカギを開けてしまっているからだ。

 別段鍵を取り出し開ける程度の作業くらいなら大した手間暇もかからない為気を使ってもらう必要性も無いのだが、息子はどうにもそういった細かい部分にも気を利かせてしまう性質らしく、いつもこのくらいの時間になると、玄関鍵を開錠してくれているらしい。

 我が子ながら、こうも性格が似ていないとは、とはテツハルの個人的な感想だった。


「ただいま」


 スライド式の扉を開き、家に踏み入りながらテツハルは帰宅の挨拶を口にする。

 田舎故にそれなりに広い家なので部屋の奥にまで届かないとは知りつつも、テツハルは挨拶を欠かさずに行っている。

 これは習慣というものもあるが、無言で自宅に入った場合、はた目からは泥棒か何かと勘違いされてしまうのではないかと思っての、いわば予防策としての立ち振る舞いの一環であった。

 態々声を出しながら他人の家に忍び込む泥棒なんて居ないだろう。

 その様に考えての、帰宅の挨拶であった。


「うん……トイレに明かりが付いているが、中に居るのか、トシハル」


 玄関で靴を脱ぎながら、すぐそばにある扉の明かりを眺めつつ、テツハルは何とはなしに声をかける。

 すると扉越しのトイレの中からトン、トンと扉を軽く叩く音と共に、呻きをこらえている声がこもり気味に聞こえてきた。


「おかえりぃ……トイレ、まだ時間かかるけど……いい?」

「む……? ああ、いや大丈夫だ、別に今すぐ入りたいとか、そういう意味で声に出したわけではないからな」

「そぉ……? あー……ハラの調子悪いから、まだもうしばらくトイレ使うから」

「ああ、うん、お大事にな」


 付けっぱなしかどうかの確認の為だけに声をかけたつもりなのだが、却って気を使わせてしまったかなと反省しつつ、テツハルはまずダイニングキッチンへと直行する。

 ジャラジャラジャラ、珠のれんをかき分けて侵入し、まずは帰宅後の手洗いをすます。

 そして今度は冷蔵庫を開け、ラップの掛けられた夕食の残り物をレンジに放り込んで温めなおしながら、手持無沙汰な時間のうちに飲み物とお米の準備をする。

 同じように冷蔵庫から出した麦茶をグラスに注ぎ、炊飯器からお米をよそう。

 十二分に温まったところでレンジから取り出しテーブルに運び着席すれば、ずいぶんと遅い夜食の時間の始まりだった。


 中学生男子が作ったものとは思えない、しっかりとした手料理に箸を伸ばしながらテツハルはゆっくりしっかり噛みながら、今日一日を振り返る。

 会社の中で起きた事、通勤の間に目撃した出来事、それらすべてを反芻するのが彼の食事時の習慣だった。

 そうやって十数分、あるいは数十分ほど時間を潰す日課だが、今日はそこに余計なものが投入される。


 ――コトン。

 固い音がテーブルの上で響き渡る。

 考え事に夢中になっている間、いつの間にやらテーブルの端にビールとグラスが置かれていることにテツハルは気が付いた。

 トシハルがこれを用意したのだろうか――テツハルはその様に考えながら少し驚いた表情を浮かべ、缶ビールに手を伸ばす。

 ヒヤリ、とても冷たい温度が手のひらに伝わってくる。

 今日は中々の熱帯夜なのでこれでリフレッシュしたらいかがかな、と中学生のくせに粋な計らいをしてくれたのかなと、テツハルは捉え苦笑する。

 カシュッと子気味良い音を立てながらプルタブを開け、金色と泡の混じる液体をグラスにうまく注ぎながら、彼は実に良い息子を持ったものだなと、少し自慢げになりながらアルコールに口を付けた。


 ――美味い。

 普段はあまり口にはしないビールに舌鼓を打ちながら、テツハルは夜の熱気を晴らすためにももう一口、金色のそれを傾けた。

 と、そこで珠のれんがじゃらじゃらと音をならし、赤い顔をしたトシハルがふらふらとした足取りでダイニングキッチンに踏み込んでくる。

 どうにも冷房機器の無いトイレの中で踏ん張っていた時間が長かった為、熱気と水分不足で疲れ切ってしまっている様だった。

 トシハルは腹をさすりながら父親を一瞥だけして冷蔵庫に近づいて、麦茶を取り出し直接口を付けて嚥下する。

 それを目撃したテツハルは少し眉尻をゆがませながら、その不衛生な行いを指摘する。


「トシハル、直接口を付けるのは止めなさい。面倒くさくてもきちんとグラスに入れてから飲むように」

「……どうせこれ、残り少ないから全部飲むし……それに、ずっとトイレに居たから喉がカラッカラだし」


 あまり口煩く叱責するのは苦手なのだが、トシハルの言い訳を認める訳にもいかないなとテツハルは再度の私的を行おうと思ったのだが、そこでふと思考が別方向に横滑りしてしまう。

 先ほどビールが置かれた時、珠のれんはじゃらじゃらとした物音を立てていなかった。

 はて、わざわざしゃがんで出入口をくぐって来てからビールを置いて、再びしゃがんで外に出てからダイニングキッチンに戻って来たというのだろうか。

 そんな不可解な事をする理由に思い至らずテツハルは頭を悩ませてしまうのだが、その間にもトシハルは麦茶をラッパ飲みし続けて、最後の一滴まで飲み干してからふうっ……とため息一つ漏らして口を離し、流し台に空の容器を放り込む。


「親父も酒はほどほどにしておきなよ。まだ風呂にも入っていないんだろ? それじゃ、おれはまだ腹の調子が悪いままだし、部屋に戻ってゴロゴロするから」

「あ、ああ……」


 何か妙な感じがするなあ。

 立ち去るトシハルの姿を見送りながら、テツハルは首を傾げつつビールに再度手を伸ばしていた。

 ジャラ、ジャララララ……。

 珠のれんの音色とギシギシとなる廊下の軋みを耳にしながら、テツハルはテーブルの上に視線を戻す。

 色々と思うところも無きにしも非ずだが、深く考える事も無いか、どうせ子供なりの気まぐれないたずらか出来心か何かだろうと、思考する事を放棄して、ビールを飲み干し皿を流し台で水に漬け、風呂に入って汗を流すかと廊下の外へ出て行った。


 ジャラリ、ジャラ、ジャラ。

 かき分けられた珠のれんが、硬質な音を立てていた。

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