Whethergeist.
朔太郎はとある物に注視していた。
それはダイニングキッチンと思しき部屋の入り口に掛けられている、ジャラジャラとした木製ビーズのような物を繋げてぶら下げた、珠のれんの束だった。
珠のれんの役割は通常の布製のれんと同じ様に、天井からある程度の高さまでを隠す役割の代物で、昭和から平成初期の辺りまで流行った昔懐かしい家具類の一つだった。
ジジババの多い田舎等では、今でも現役で使われているので当然目新しいところなど何一つとして存在しないのだが、朔太郎はどうしてもそれに視線を集中させてしまっていた。
――ゆら、ゆら、ゆら。
風も吹いていないのに、それは誰かが直前に触れていたかの様に揺れていた。
触った事のある人間であれば判るのだが、珠のれんというものは割りかしジャラジャラとうるさい音色を響かせるものである。
それが音もなく僅かに揺れているという事は、朔太郎がトイレに向かい始めるよりも前に、誰かが触れていたという意味である。
誰か――とは、誰であろうか。
もちろん、トシハルの家族に違いない。
だが――
「なあ、ヒロミ。さっきお前、俺がウロウロしてたのを、うるさいうるさい言うてたな?」
「はあ? ついさっき聞いた言葉も忘れたん? お前ついにボケたか?」
普段は腹も立つヒロミの煽り文句を歯牙にもかけず、朔太郎は廊下をギシギシと鳴らしながら廊下の奥へと進んでいく。
その態度に不穏なものでも感じたか、釣られてヒロミも部屋を飛び出しついて来る。
二人は沈黙を保ったままダイニングキッチンに近づいて、ジャラリと珠のれんに手を通す。
ジャララララ――珠のれんを捲って覗く。
断りの言葉も入れず覗いたダイニングキッチンは薄暗く、明かりが付けられていない。
薄らぼんやりとした夕暮れ前の明るさの中でははっきりとしたものは見えないが、次第に目が慣れてくると、刻まれ途中の玉ねぎやだ強いっぱなしの包丁に、何やら弱火で煮こまれている片手鍋の姿が見て取れる。
しかし、肝心の料理を行っている人の姿は見当たらない。
完全に無人の状態のダイニングキッチンは、ぐつぐつと何かが煮える音以外、まったくの無音の状態であった。
「………………」
「………………」
朔太郎とヒロミは顔を見合わせ、すっと下がる。
お互いの顔色は薄暗がりのせいで確認する事は出来なかったが、間違いなく青ざめていたことだろうと理解する。
ジャラ、ジャラジャラ――珠のれんが鳴らす音に少しびくつきながら、二人はそっとダイニングキッチンを抜け出して、居間に向かってなだれ込む。
恐怖や怯えというよりも、うすら寒い気味の悪さに完全に肝が冷えていた。
そんなただ事ならぬ二人の様子に、ゲームに興じていた三人も興味を向けてしまう。
ちょうど手持無沙汰でヒマを持て余していたツヨシが最初に問いかけた。
「なんだなんだ、変な顔して。ゴッキブリャーでも見かけたか?」
「ツヨシ、直接名前を出さずにGの事を呼ぶんなら、もうちょっとにおわせ程度の言い方にしろよ。……いや、お前ら本当にどうした? いつもなら乗り突っ込みをしてくるのに、変じゃあないか」
安直な笑いに対し、十全な受け答えが出来る状態ではない朔太郎とヒロミの二人組は、ツヨシとトシハルの茶番劇にも反応を示さずそそくさと自らの鞄に手をかける。
一体全体どうしたのかと、けげんな顔を浮かべるトシハルたちをよそに、二人は決して視線を合わせないまま、どこかこそこそとした態度を崩さないまま口を開いた。
「いや、そろそろ帰宅しないと親が怒るかもなあって。ノブもお前、確か汽車通学だろ? そろそろ帰り支度を整えておかにゃあ、間に合わんのとちゃうか?」
「今日は爺様に迎えに来てもらおうかなと思っていたんだけど――……まあ、二人が帰るなら一緒に帰ろうか」
「えええ~~~~っ!? お前らもう帰るのかよぉ! 俺なんてもういっそ今日は泊めてもらおうかな~なんて考えてたのによぉ!」
「お前それはあかんやろ……事前に伝えとるならともかく直前になってそれ言うんは流石にあかんやろ……」
唇を尖らせ文句を述べるツヨシを叩き、トシハルを含む他四人はそそくさと帰り支度を開始する。
ツヨシは相変わらずその作業には加わろうとしないのだが、代わりにトシハルが鞄にゲームソフトを詰め込んで、いつでも帰宅出来る様に整えていた。
ツヨシの無言の抵抗も空しく、事態は完全に帰宅の流れに移行していた。
「今日は、まあまあ楽しかったよ、トシハル」
ギシギシと、五人は廊下をきしませながら、玄関へ向かって歩いていく。
発言をしたのは信彦で、トシハルがついてきているのは見送りの為だった。
家に友達を迎えるのを最初は渋っていたトシハルだが、実際に皆と自宅で遊べた事は中々に楽しかったらしく、彼はニコニコ顔で返事を口にする。
「おれも楽しかったよ。夏休み中、また何かあったらうちで遊ぼうか。今度は熱にやられない様に日傘か自転車持っていくからさ、学校で勉強してる途中で飽きが来たら、また今日みたいにうちに来てストレス発散しようか」
「お……おう、そ、そうだな……ま、まあ次があればな……」
悪意一つ込められていない善意からの言葉だが、この家に対して何やら悪い印象を持ちつつある朔太郎とヒロミは及び腰になってしまう。
トシハルはそんな態度に気付いていないが、信彦は横目で二人を眺めつつ、その態度に少し眉をひそめていた。
一方でツヨシは能天気にも、お泊り楽しみにしていたのになあと駄々をこねたままでいた。
「いつまでわがまま言っとってもしゃあないやろ。ほら、行くで、はよ、はよ」
朔太郎はツヨシの背を押しながら、無理やり芥川家の家の外へ連れ出す。
その間ヒロミは自転車を玄関横から道路へ運び、信彦が最後の挨拶を交わして玄関を閉める。
有無を言わさずヒロミを芥川家から引きはがす事に成功した三人の身体を、夏の夕暮れが醸し出すじわりじわりとした湿気と熱気が不快感を伴って包み込んでいた。