「ドッペルゲンガー事件」
これは僕が中学二年生になったばかりの出来事だ。
今となってはもう記憶の中に埋もれて滅多なことでは思い出さないが、それでもたまに(あれは何だったんだろう?)と首を傾げてしまう。不思議な出来事だった。
そんなに怖い話でも無い。不思議な話だ。
ある日の放課後、僕は親友(と、勝手に僕が思っている)のFに呼び止められた。確か美術室へ繋がる渡り廊下を歩いていたときだった。僕の通っていた中学校では美術と技術の時間割は後から建てられた別棟で授業を行う。
本校舎とは少し離れた場所にあるので、放課後ともなればそこは人気があまり無い静かな場所になっているのだった。
僕とFは美術部に所属していた。絵を描く事は嫌いでは無いがそこまで好きなわけでも無い。特別に上手いわけでも無い。僕もFも身体を動かす事と団体行動が苦手なだけでその部活を選んだだけだ。
その日もただなんとなく部活に顔を出さなければ、といった義務感で僕は別棟の美術室へ向かっていたはずだ。特に何も考えてない日々のルーチンワークだった。
僕はもうすっかり冬を忘れ去ったかのような、心地よい冷たさを感じる渡り廊下の手すりを触りながら歩いていた。
そんな時に後ろからFに呼び止められたのだ。
呼び止められたというより、なんと言うか・・・おかしな話だが「注意された」ような感じだ。
「Y!」
僕がびっくりして振り返るとそこには目を丸くしたFが立っていた。
「あーびっくりしたー!」
僕は少しだけ抗議の意味を込めて大袈裟なリアクションを取り、はあ、と胸を撫で下ろした。
「なんだよ、どした?」
「いや、その、すまん。」
Fは目を丸くしている僕にすまなそうに頭を下げると僕の周りを不躾にジロジロと見ている。
「何かあったの?」
こういう態度のFには慣れている。
経験上あまり良く無い傾向だ。
なぜかと言うと、Fはいわゆる「見える人」である。
俗に言う幽霊と呼ばれるものが見えるらしい。僕には見えないのであくまでも「らしい」としか言えないが、僕はFが見えると信じている。
近所のお爺さんが亡くなった時に大切な形見の印鑑が見つからないと大騒ぎになった。その時に箪笥の一番下の引き出し、しかも右下の奥の方に入っているとピタリと失せ物探しを言い当てたのがFだ。困っているお婆さんを心配するような表情で、お爺さん(の幽霊?)が箪笥の右下を指差していたらしい。
僕とFはそのお爺さんお婆さんにはとても可愛がって貰っていた。最後にお手伝いできてよかったよ。と、Fかにっこり笑っていたあの顔が忘れられない。
そのFが理由は言っていないが僕の周りをジロジロと見ている。これはきっと良く無いものが見えているに違いないとすぐに察した。
ちなみに僕はというと全く霊感というものを持ち合わせておらず、不可思議なものに興味津々で見たいみたいと日々思っていながらも一度もハッキリと「見た」「聞いた」「感じた」と断言できるものが無いのだった。
「何か・・・いる?」
僕は少し怖かったが思い切って聞いてみた。
「いや?ん?あれ?おかしいな・・・?」
Fははっきりと答えはせず、まだ僕の周囲を見回している、まるで何かを探すように。
「見えた気がしたんだ。でも気のせいだったかも知れない。」
すまん呼び止めて。と、Fは僕に謝った。後で聞いてみると、僕の周りに何かがまとわりついていたような気がするのだ、と言う。
「なぁY?」
Fはその時僕に尋ねた。
「お前、妖怪に取り憑かれてないか?いや・・・妖怪って見た事・・・無いよな?そうだよな、幽霊も見えないのに妖怪は見えないよなあ・・・」
Fはしきりに首を傾げていた。自分でも見えたものが何なのか判断がつかないらしい。しかしひとしきり考えてFの考察はひと段落ついた。
「まあ、済まなかった。気のせいだ。忘れてくれ。」
なんかそう言われても、言われた方は全然スッキリしないんだけどなぁ。
……………
Fの口から「妖怪」なんて言葉が出てくるのは珍しい。いわゆる幽霊と言うものを日常的に見ている癖にFは妙に現実的なところもあり、お化けとか妖怪といったワードには懐疑的だ。
そのFから妖怪なんて言葉が出た重大さにその時僕は気がついて居なかった。美術室で聞いた話だと明らかに幽霊とは違う「何か」が居たのだと言う。
黒っぽくてモヤのようなものが僕のすぐ横を歩いて居たのだと言う。最初は面白がって見ていたのだがやがて見ているうちに「それ」が僕の動きを真似ている事に気がついた。
足の運びや手の振り方、首を捻る癖までそっくりに真似しているのだ。それを見てFはまるで御伽噺の狐か狸が化かしているような気分に陥ったと言う。さらに当事者である僕が全くその存在に気が付いていない様を見て、見るに見かねて声をあげたのだ。
その途端、そのモヤは文字通り霧散して綺麗さっぱり消えてしまったのだと言う。
なんとも不気味で不思議な話だ。よくある(らしい)霊の知らせでなければいいんだけど・・・とFが締めてこの話はこれで一旦終了した。
再び起こることも無かったし別段僕にとって何か不都合があるわけじゃ無い。特にどこか身体に不調が出ているわけでも無い。
取るに足ら無い話だ。僕達は目まぐるしく移り変わる日常に揉まれてこんな出来事はすぐに忘れてしまった。
しかしこの事件はひょんなことから再び僕達の世界に舞い戻ってくる。
それはある月曜日の朝だった。
クラスメイトのKさんが友人と二人で僕のところまで来てこう言ったのだ。
「ねえ、昨日駅前にいたよね?」
と。
「え?行って無いよ?」
と、僕は答えた。昨日は一日中家で本を読んだりゲームをしたりして休日を満喫していた。母親から買い物の荷物持ちに誘われたがついて行かなかったくらいなので間違いない。昨日は家から出ていない。
Kさんは友人と顔を見合わせて、それから僕の事を訝しげな目で睨んだ。どうやら僕が二人を駅前で無視した上に今も嘘をついていると思っているらしい。
「いや間違いなくY君だよ。見間違いじゃない。」
その後、どんな服を着ていたの?と聞いたところ、確かに普段僕が来ているトレーナーに似ている。
なんとも不思議な話だ。
しかし昨日のその人物は僕ではない。
世の中には三人似た人がいるというから、きっとそれなんじゃないかなぁと話してこの話は終わりを告げた。今となっては世の中の定義が狭すぎると思うが中学生の感覚なんてそんなものだ。
まあ、これも所詮は取るに足ら無い話だ。すぐ日常に埋もれて行ってしまった。
だがそれが二度目、いや、初回も加えて三度目ともなると何やら不気味な怖気が背筋を走った。
次の週末にもまた、僕を見かけたクラスメイトが居たのだ。
前回と内容はほぼ同じだ。日曜日に野球の練習をしに中学校のグラウンドに来た彼は僕を見かけて話しかけたのだが、僕は振り返りもせず校舎の中へと歩いて行ってしまったという。そのクラスメイトはなんだか無視されたような気になり僕のところへ文句を言いに来たというわけだ。
そんなはずはない。
自他ともに認めるオタクだった僕が日曜日に何の用もない学校に行くはずが無い。しかも日曜日は一日中Fと一緒だった。
服装は前と同じ、トレーナーとジーパン。よく僕が来ている色だ。どう考えてもそれは僕なのだが、僕はその日学校に行っていない。Fが証人だ。
「じゃああれは誰なんだよ?」
そのクラスメイトと僕は二人して身震いした。
何やらおかしな出来事に巻き込まれていたような、そんな不思議な感覚に包まれていた。
……………
「なぁY、お前本当に妖怪に取り憑かれていないか?」
この話を聞いたFは僕にまたそう言った。
極一部の限られた世界で「Yのドッペルゲンガーが町をうろついている」と囁かれ始めた放課後、誰もいない美術室でFが僕の事を心配してそう持ちかけたのだ。今日は他の部員も来ていない。と、いうか美術部はほとんど幽霊部員なので僕たち以外の部員を見る事自体が稀だった。
妖怪とはまたファンタジーなモノを持ち出してきたな、と僕は半ば呆れていたが、Fはこのドッペルゲンガーを新学期に見た僕にまとわりつくあのモヤのようなものにすぐ結びつけたらしい。
理由を聞いてハッとなった。
Fが見たあのモヤは確かに僕の動きを真似していたという。
不可思議なモノが人のマネをする話はよくある。狐やタヌキ、猫など人真似をする妖怪の伝説は確かにあるのだ。
もしも僕にまとわりついていた影が僕に化けているならそんな事もあるのかもしれない。
「なるほど、それだ。」
「しかしなぁ。」
答えが出た、と思った矢先にダメ出しされた。
自分で振っておきながらFは懐疑的だった。Fはこういうところがある奴なのだ。話しながら考察する。行ったり来たりしてそのたびに僕は振り回されるのだ。
妖怪なんていくらなんでも非科学的だと言うのが反対意見の中身だ。いやもっともすぎてぐうの音も出ない。
超自然的な存在を定義するのは簡単だが、Fはそれでは納得しない。なんでもありになってしまうのをとても嫌う。間違っていてもいいからある程度は根拠のある定義づけをしたいのだ。
僕達の会話は続く。
こうして取り止めもなく答えの出ない存在を考察するのは僕達にとって結構大切な時間だったと思う。
大人には出来ない。
お互いにこんな話を大真面目に出来る相手は他には居なかっただろう。
「やはり、霊なのかな?」
そう言う僕にFは腕組みをして首を傾げた。
あのもう一人の僕は、僕の“生き霊”では無いのか?という仮説だ。
いかにもありそうで、もっともらしい仮説だ。これはもう僕の中ではこれしか無い、と言っても過言では無い説だったのだが、それでもFは納得しなかった。
「だって考えてみろよ。みんなが見えてるんだぞ。そんな霊がいるのか?俺も前に生き霊って感じのものを見た事があるけど、やっぱり他の霊と同様に俺にしか見えてなかったぞ。」
Fはちょっと嬉しそうな、そしてちょっと寂しそうな表情をしていた。
Fは「見える人」だ。霊を見る事が出来る。しかしただ見る事が出来るだけでお祓いをしたり、何か特別な力で退治したりなんて出来ない。ただ見て、その意思を感じるだけだ。
当時の僕は気づかなかった。
彼はその無力感や見える事自体のコンプレックスで日々、悩んでいたに違いない。
「誰もおかしいって思わなかったならきっと影もあったんだろう。残念だけどちゃんと肉体があって存在する何かだったんだろうなぁ。」
その寂しげなFの言葉で生き霊説は否定された。
次に仮説として上がったのは“時間を超えた影”
科学雑誌でよく見かける説。理屈はわからないが四次元的ななんらかの力で時間を超えた僕の映像が映し出されてしまった、という説だ。
よくある「ドッペルゲンガーに出会うと死ぬ」という都市伝説もタイムパラドックスが引き落としていると書かれるとなんとなく納得できる気がする。
「でもさ、なんで僕だけなんだ?」
僕が出した至極まともな問いかけにFは固まった。そりゃそうだ。一部の空間とかならともかく、僕個人だけ時を超えているなんてなんでそんな事が?しかもなんで僕?
「無いかあ。」
Fはこの説に結構自信があったらしい。悔しそうな顔をしながらとても残念そうに頭をボリボリと掻いた。
結局答えは出なかった。
色々考えたものの、どうしても妖怪のようなモノを仮定しないと説明がつかない。日も沈みかけていたのでその日はそこまでにして僕たちは溜まり場となっていた美術室を後にした。
別れ際にもう一度、Fは僕の事を心配して声をかけてくれた。
「Y、くれぐれも気を付けろよ。脅かすわけじゃ無いが変な胸騒ぎがするんだ。なんと言うか・・・最初が駅前で次が学校だろ?だんだん近づいてきている気がするんだよな・・・それ・・・」
……………
Yのドッペルゲンガーが出た、という噂は大した盛り上がりもなく自然鎮火した。その理由は当の僕が何も気にしていない素振りを見せた事が一番大きいだろう。そして学校以降、誰もそのドッペルゲンガーを見なかった事も理由として大きい。
その事件は終わったのだ。
皆の中では。
僕は勤めて明るく、そのドッペルゲンガーを気にしていないふりをした。
そうしていないといけない気がしたのだ。
だって、
皆の中では終わっている。
でも僕の中ではまだ終わっていなかったのだから。
「あーお腹すいた。ご飯ある?」
Fに忠告されたあの日、僕が家についた時には日もすっかり沈み、辺りは春特有の暖かで、僅かに明るさの残る緑の暗闇に包まれていた。
そんな穏やかな夜
母親はお腹を空かせて帰ってきた僕に目を丸くしたのだ。
「何言ってるの?あんた今食べたばかりじゃ無い。」
食卓を見ると僕の分と思われるお皿の上は空っぽで、僕の味噌汁も無くなっている。母親が持っているご飯茶碗にだけ、おかわりと思われるご飯が盛られており、母はその茶碗を持って青い顔をして僕を見ていた。
「え?だって、あんた今おかわりがほしいって・・・しかもいつの間に着替えたの?」
母も何か違和感があることに気が付いたらしい。
僕は立ち尽くした。
すぐに理解した。
あいつだ。
あいつが僕にすり替わって何気なく夕飯を食べた。だが僕が帰ってきた気配を察知して姿を消したに違いない。
「まあいいわ。お腹が空いているのね。ちょっと待ってなさい。まだあるから。」
母は首を傾げつつも食べ盛りの子供が底なしにご飯を食べる様子が嬉しいようで、それ以上追求してこなかった。
だが僕にとっては全身の毛が逆立つような出来事だった。
あいつは確かに僕に近づいて来ていた。そしてとうとう家にまで上がり込んで来たのだ。
今は姿が見えないがきっとまだ家の中にいるはずなんだ。
じゃあ、
次は?
「あら?あんた顔真っ青じゃ無い?大丈夫?」
そう言って覗き込んできた母にとりあえず大丈夫、食べすぎたのかもしれない。もう寝ると伝えて自分の部屋に閉じこもった。
和室の襖をあれほど頼りなく感じたことはない。
とうとう、その夜、僕は一睡もできなかった。
…
この話は以上だ。
この後、僕は暫くの間自分の分身に怯えて暮らすことになるのだが、喜ぶべきか残念と言うべきか結局それからピタリと怪現象は収まり、僕のドッペルゲンガーの目撃情報も誰も口にする事なく、この話は自然と皆の記憶の中から消え去ってしまった。
もちろん、正体などわかるはずもない。
Fは否定していたが、僕は本当に狐かタヌキにでもからかわれていたのではないかと思う。
こうして大人になって思い出してみても、あの時の不思議な出来事はやはり妖怪にでも出会ったのだと解釈しないとかえって理屈に合わない気がするのだ。
まだ気にならないと言ったら嘘になる。
しかしそんなことを気にしていられない程に毎日は駆け足で過ぎ去ってゆくし、家族の事、仕事の事と考えなければならない事は山積みなのだ。
そして人手不足で忙しい仕事の合間に、自分がもう一人いたらなぁ、などと都合のいい事を思い浮かべている。
もちろん、霊感など無い僕にはそんな都合のいい怪現象は起こるはずもなく、また僕はたまに懐かしいFやあの不思議な日々の事を思い出しながら、仕事に子育てに日々に忙殺されてゆくのだ。
不可思議なものに出会いたがっていた僕はもう居ない。
今はもう、何事も起こらないことを祈りつつ。