初めての風邪
霧に秘匿され金木犀に覆われ守られた古い屋敷。
その離れで夕凪は布団から起き上がれずにいて、コホっコホンと咳を吐いて苦しそうだ。
「…この世に生まれて、初めて風邪…というものをひきました…しかもっこんなに長引くなんて…」
夕凪が咳を吐く合間合間で気怠そうに呟く。
夕凪は風邪をひいた。中々治らずに本日で療養十日目に突入している。
熱によって赤らんだ顔で発せられた声は少し嗄れていて、若干の驚きが含まれている。
「この現状は君の自業自得だと思うよ」
枕元には冷たい水が満たされた桶が置かれている。アズトが桶の中に手拭いを浸してギュッと絞る。絞られた手拭いから溢れ出た水が真っ直ぐ垂れ落ちて桶の中で波紋を広げていく。
その様を眺めながらアズトは素っ気ない態度で断言する。
夕凪の風邪の原因はハッキリとしていた。
アズトが屋敷の外に出掛けた十日前のあの日、呪いによって妖力の乱れて体調が安定していないにも関わらず、夜遅くにうっすい浴衣一枚で長時間いたからだ。
夕凪が体調を崩し風邪を引いてしまった原因はそれだ。間違いようがない。
「体が…熱いのか寒いのかわかりません。声を、発声するのも疲れる…あと、頭痛も酷いのと…何より倦怠感が凄いのですね…」
「…他には辛い箇所はないの?三重がもう少しで診察に来るから三重が来たら、それらを伝えて」
汗でへばりついた夕凪の灰金色の前髪をアズトが左右に払い除けて現れた額の上に先程の冷たい水に浸しておいた手拭いをおく。
額に置かれた手拭いの冷たさが気持ちよかったのか、夕凪は瞼を閉じてほっと息を吐いた。
「辛い…ですが、役得ですね」
「…なんで役得なんだ?」
「アズト様が積極的に私に構ってくれます」
「馬鹿なのか君は。反省しろ」
いつもの通りだけど。また、わけのわからないことを言っている。
いつも以上に弱っているのだから、おかしな発言をしないで、これ以上悪化しないように大人しく療養に務めて欲しい。
(初対面の時の警戒心は何処に消えたんだ)
夕凪と過ごす時間を共有して気づいた。夕凪はアズトの意識が自分へ向かうと気配が揺らいで緩くなる。
出会った当初、狐姿で唸り声を上げながら威嚇されたのがとても懐かしい。
今では警戒心が不足している。不足しまくっている。しかも、日を追う事にどんどん失われていっている気がする。
今の環境に順応している、命の恩人を信頼していると言い換えれば聞こえはいいい。だが必要事項以外は邪険に扱っているアズトに全幅の信頼を寄せるのは危うい。どうかしてる。
「もっと…他人に対して警戒心や危機感をもってよ」
「勿論、持ってますよ。でも、アズト様に対しては…持ちませんっよ…だって…どの様な都合が有ろうとも…こほっ…アズト、様は…私を生かすために、…っ…私を、この屋敷に…連れてきてくださった…のでしょう」
「命の保証がされているからといって全てを許しちゃダメだ」
「それ、だけではありません。…アズト様の、わからずや」
「わからず屋だよ。ボクはアズトはそうなのだから。ボクは志ノ沙山で君が死んだら困るから君の命を助けた。そうでなければ見殺しにしていた。だから君のその謎の信頼に応えられない」
「アズト様、らしい返事ですね」
夕凪は口に薄い笑みを浮かべている。まるで予想通りの答えを頂きましたと言わんばかりに。
「貴方様が私をどれだけ突き放そうとしても、この屋敷に置いてくださる間は何度でもお側に擦り寄りますよ」
「なんでボクにそんなに執着するんだ」
「そうやって、もっと私で悩んで欲しいのです。ここに来たばかりの頃、今以上に私を徹底無視した仕返しです」
「仕返し…だけれども可笑しいのかな。可笑しいよ、君」
アズトは苦しそうに咳を吐く夕凪を見下ろしながら、小さな声でぽつりと呟いた。あの夜の夕凪の言葉が頭に反響する。
『私を丁寧に扱ってくださいました』
壊れ物のように触れられるのが心地よいと夕凪は言っていた。
アズトの接し方が夕凪の心の琴線に触れて、どうしてここまで気を許し執着されているのか、あの会話だけではほぼ理解出来ていない。答えが見えてこない問題を出題されたような気分だ。
夕凪と出会ったばかりの頃、生きて無事に回復して志ノ沙山を立ち去ってくれれば、それで良かった。それ以外に関心なんて無かった。
それが、いつの間にか夕凪へ向ける関心の意味合いが少しだけ変化している。
アズトに思考、感情の変化を齎すことが夕凪のアズトへの今までの仕返しだというなら大成功しているだろう。
「こほっこほ…けほっ」
夕凪の咳の音ではっと我に返った。
「…とりあえず、水分を摂取しよう」
風邪を引いて咳を吐く主な要因は喉の炎症や乾燥。咳を出す痛みを和らげるに水を飲ませるのが効果的らしい。
夕凪が風邪で臥せってから屋敷にある書物と三重の話で少し風邪に付いて学んだ。
寝たきりの状態で水を飲ませると噎せてしまう危険性があるから、夕凪の背中と敷布団の間に手を滑り込ませてゆっくりと夕凪の上半身を起こす。
左手で夕凪の背を支えて右手で水の入った湯呑みを夕凪の口元に差し出す。
差し出された湯呑みを夕凪がおずおずと両手で受け取り薄い唇を開いて水を飲み始める。
「けほっけほ…ごほっ」
咳を吐いて飲みきれなかった水が唇から垂れていく。それを拭ってやる。
「ほら、飲んで。ゆっくりでいいから」
なんとか湯呑み一杯分の水分を補給が完了した。
アズトは夕凪に水を補給させている間に三重の気配を感じた。お米の匂いも漂っている。食事を用意してきたらしい。
夕凪の傍から離れて閉じられている襖を開いて解放する。
「アズト、襖を開けてくれてありがと。両手が塞がっていたから助かったわ」
「うん」
開いた襖の向こうにいた三重はお粥の入った小鍋とそれから梅干しと胡瓜の漬物が入った小鉢等が配置されたお盆を両手で持っている。
如何にも風邪をひいた時に食べる定番の献立だった。
「夕凪さん、調子はいかがかしら?まだ朝ごはんを食べていないでしょう。お粥を持ってきたわよ。…あら、お顔が真っ赤で可愛いわね」
三重は土鍋からお粥を茶碗によそって匙と一緒に夕凪に差し出す。茶碗によそわれたお粥からは芳しい米の匂いを含んだ白い湯気がゆらゆらと踊っている。
「夕凪さん、食欲はある?お粥は食べられそうかしら」
「はい…三重様、有難くいただきます」
夕凪は三重から茶碗と匙を受け取り粥を掬いゆっくりと口元に運びいれていく。いつもよりも遅めの朝食が開始された。