晴れやかな朝に複雑な心
薬の副作用に苦しみ続け、暗かった部屋の中が薄ら明るくなっている。気付けば朝を迎えていた。
一睡も出来なかったが、眠気はやって来ない。
顔を上げて周りを見渡す。
自分の手の指の数、天井の古い木目。畳の畳数、襖の模様。
襲撃に遭ったあの日から、視界が上手く機能せずずっと朧気な景色が目に映るばかりだった。それが、今は周囲の様子がハッキリと見える。
(本当に、視力を取り戻している…!)
狐は瞼に手足を当て、目が見える事に感動していた。
視界を取り戻した狐には、ちょっとした欲が湧いていた。今まで、この部屋に閉じこもっていたが為に部屋の外がどうなっているのか知りたくなったのだ。
全身に妖力を巡らせる。すると、鋭い爪をもった獣の手足は、ほっそりとした人の手足へと。全身を覆っていた豊かな毛並みは、毛を持たない人の肌へと変化した。
人の姿で四つん這いになって、自身が横たわっている敷布団を握りしめる。握った敷布団は、昨晩、もがき苦しみ流した多量の汗で湿っている。
散策しようと立ち上がるも暫く動かしていなかった体は、風に揺れる蝋燭の火のようにふらついていて上手く進まない。
壁に手を付いて、心もとない足取りで歩き出す。
空気中に漂う金木犀の香りに惹かれる様に、アズトがいつも出入りしている襖を開いて、襖の先に広がる廊下をふらふらと歩く。
やがて、光が差し込む障子を見つけ、その障子に手をかけて開けた。
朝の優しい光、冷たく清浄な空気。そして金木犀の香りが頬をなでる。
ずっと目にしていなかった陽光の眩しさに、一瞬、目を細めた。
眼前には、朝日を受けて金木犀の小さな花々が競い合う様に、散りめく星の様に美しく咲き誇っていた。
美しい光景に暫し見蕩れていると、金木犀の木々の合間から1人の子供が現れた。
「視界は戻った?」
中性的で耳に心地よくも、どこか無機質な響き。
この声は間違いなくアズトだ。
狐ははっと我に返って、ずっと見てみたいと思っていたアズトの容姿を備に観察した。
愛らしくも綺麗な顔立ち。白い肌に肩まで伸びた艶のある黒髪に神秘的な夜空を閉じ込めたかの様な深い色合いの瞳。体格は胸の膨らみは感じられないが、小柄で十四~十六ぐらいの少女の様な華奢な体付き。
その華奢な体には、膝丈までしかない青色の着物の上に裾と袖口に金色の五つ花弁の花が装飾された白い羽織を羽織っている。足元には、なにやら見慣れぬ履物を履いていた。
「…見えていない?」
いつの間にかアズトが首を傾げて、下から覗き込むように狐の目を見ている。その思いもよらぬ距離の近さに、狐は驚いた。
「はいっ!戻りました!…はっきりと周囲の景色が見て取れます」
「分かった。食欲はある?三重が君の視力が無事に回復したのなら、一緒に朝食を取りたいと言っている」
「あります。是非とも御一緒させてください」
「案内する。ついてきて」
アズトは踵を返して金木犀の木々へと向かって歩いていく。
狐もアズトの後を追いかけようと、足を踏み出したが、体の平衡感覚を崩して倒れ込んでしまう。
立ち上がろうとした時、突如の浮遊感が狐を襲った。
気付けば、アズトの顔が先程よりも近く、正に目と鼻の先にあった。腰と膝裏には華奢な手が回されている。つまり、アズトによって横抱きにされていた。
「アズト様!?」
「今の君が歩くより、こっちの方が速い」
「ア、アズト様?重くありませんか?今すぐっ降ろしてくださいっ!!」
「別に大丈夫」
人の姿を取った狐は、アズトよりも背の高い二十四程の男だ。
子供の体格と腕の力で運べるはずの無い重さを有しているのだが、アズトは頬を赤らめ慌てふためく狐を無視して、軽い荷物を運ぶように狐を横抱きにして歩みを進める。
(三重様が私を運んだのはアズト様だと仰っていたが嘘では無かったのだな。しかし、こんな綺麗で可愛らしい子供が…目にすると俄に信じ難いが、全部本当だった)
不安定な姿勢になって落ちぬようにアズトに抱きつくしか方法がなかった狐は羞恥が入り交じった視線で、陽の光を浴びて輝く黒髪とその黒髪の合間から覗く金色の細い棒状の耳飾りを揺らしながら歩くアズトの横顔を見詰めていた。
✱ * ✱ * ✱ * ✱ *
四方を金木犀に囲まれた古めかしくも立派な屋敷が目に入ってくる。
「あれが屋敷の本殿。狐、君が今までいたのは離れ…うん、離れってやつ」
屋敷の本殿に城壁や門は無かった。
アズトは迷いのない足取りで屋敷の玄関口へと向かい、玄関から屋敷内へと入り長い回廊を歩く。
幾つもの部屋を通り過ぎて、やがて、立派な金木犀が描かれた一つの襖に辿り着くと、狐を横抱きに抱えたまま片手で襖を開けた。
「三重、狐を連れてきた」
襖が二十畳ほどの広さに左右に赤い毛氈が敷かれた和室。
その奥には、正面と数歩下がった左右に湯気立つ膳と座布団が用意されており、三重は正面の座布団に正座してアズトと狐を出迎えた。
三重は目元と頬に薄ら皺があり、白髪混じりではあるが艶のある長い茶髪を後ろに束ねて、強い意思を感じさる灰色の瞳が印象的な初老の女性だった。
「狐さん、おはよう。視界は無事に取り戻せた?アズト、狐さんを降ろしてあげなさい」
三重から狐を降ろすように言い渡されたアズトは三重から向かって左の席に狐を降ろす。
そして、自らは空いていた右側の席に腰を降ろした。
「みんな揃ったわね。さあ、朝ごはんにしましょう」
三重の号令と共に朝食が開始された。
お膳には、麦ご飯と具材がさつま芋のみの味噌汁、野菜の漬物が添えられている。質素ではあるが美味そうな飯の匂いに、狐の腹は空腹を訴えていた。
食事を開始してから三人の中で、狐が一番に完食をした。その様子を観ていたアズトが、「ボクは余り要らないから、君にあげる」と自身の膳を狐の横に置いて、自らが座っていた座布団に座り直した。
正直、足りなかったので有難く頂いて、その膳も平らげた。
「ご馳走様でした。とても美味しゅうございました」
「お粗末さまでした。狐さん、随分とお腹が減っていたのね。いい食べっぷりだわ!視界が戻って人の姿に変化出来る様になったのね。良かったわ。ふふっ人の姿になった狐さん、とっても美男子ね」
狐の人としての姿は、腰までの長い薄い金灰色の髪に明るい藍色の瞳で万人受けしそうな長身の美形だった。
「ありがとうございます。三重様、アズト様。我が身がここまで持ち直したのも全て御二方のお陰でございます。この恩は決して忘れはしません」
「お礼は別にいいのよ、面を上げて頂戴。あたし達もこちらの都合があって貴方の命を助けたのだから」
アズトと三重に対して深く頭を下げる狐に対して、
三重は少し困ったような申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。
「そちらの都合?」
「狐さんは、この志ノ沙山の噂はご存知?」
「…一年中を通して咲き誇る金木犀がある美しい山。そして、黄昏時に入山すれば神隠しに遭う恐ろしい山である。私が知り得る志ノ沙山の情報はこのぐらいです」
「その通りよ。その噂のどちらも当たり」
「春先でも金木犀の花が咲き誇っている屋敷を拝見して前者の方は本物だと確信致しましたが、もう一つの噂である神隠しというのは…」
神隠しとは、人間がある日忽然として消え失せうせて帰って来ない事象を指す。
神隠しにも種類がある。
偽物の神隠しと本物の神隠しだ。
人間による誘拐、殺害、夜逃げ等が人為的な神隠しが偽物。この世にある常世と現世の端境に迷い込み常世、または現世とも常世とも違う狭間に入り込み帰れなくなるが本物の神隠しとされる。
志ノ沙山の神隠しは…
「志ノ沙山は、この世とあの世の境界線が曖昧になる日があるの。その日、特に黄昏時に山に入り込んでしまった者は人間だろうと妖だろうと関係なく、この世とは違う何処かへと行ってしまい戻るのが非常に難しくなるわ」
後者、本物だ。
話を聞く限り本物だ。だからこそ、ある疑問が湧く。
「…ならば、何故、御二方は神隠しの山に住んでいてもご無事なのですか?」
「 あたしの先祖の人間が志ノ沙山の守り人になるという盟約を交わしていてね。志ノ沙山以外での行動が出来なくなるのを代償に、この山で神隠しに遭うことはない。だから住居も構えているの…アズトは特殊よ。守り人の特権を利用して私の傍でお手伝いをして貰っているの」
「私も命を助けて下さったのも、守り人としての一環でしょうか?」
「そうよ。助けた理由を今の説明で納得してくれたのなら有難いわ。ねぇ、狐さんはどうして神隠しの噂を知りながらも入山をしたのかしら?しかも、あんな大怪我を負った状態で…神隠しは人間も妖も恐れる事象の内の一つでしょう?」
三重は片手を狐に向けて「貴方が話せる範囲でいいから、話して貰えるかしら?」と問いかける。
狐は素直を応じて、自分が何者かに襲撃され怪我を負って意識を失った経緯を語った。
「話してくれてありがとう。アズトから伝えられているとは思うけれど。怪我が治って十分に動けるようになるまでは、ここに居てしっかり療養してくれて構わないわ」
「何から何まで世話になり忝ない。私に出来る事が何なりとお申し付けくださいませ」
腰が低い狐に三重は口元に袖口を寄せて、にこやかに笑う。
「考えておくわね!…そう言えば、ずっと狐さんのお名前を聞いていなかったわね。流石に失礼になっちゃうから、お名前を教えて貰ってもいいかしら?」
「…………私の名前は」
「名を名乗りたくないなら、それでいい。もし必要なら仮名を使って」
三重に対して自分の名を言い淀んでいる狐に対して、三重と狐の会話に一切口出しせずに静寂を決め込んできたアズトが仮の名前を使えばいいと提案した。
「ならばっ、他ならぬ貴方が私に名を与えてください!」
アズトの提案に狐は、ばっと顔を起こしてアズトに叫んだ。
「あら、名案ね。狐さんを拾ってきたのはアズトだもの。責任とって狐さんのここでの名前を考えてあげなさいな」
「…えっ」
何処か必死な狐の詰め寄りと明らかに面白がっていてる三重からの命令に、アズトは夜空色の目をぱちくりと瞬きさせて固まった。