いっておいで。これも経験、喜ばしいね3
「どういうことだ。母上はまだ、そこまで狂ってなどいなかっただろう」
「いえ、狂われてしまわれたのだ。兄上が行方不明となっている間に妖力が狂い意識も混濁し、暴走されてしまった」
唄鳴、夕凪の母親であり父親にとっては側室である妖。
夕凪のまだという口ぶりから唄鳴という者は、夕凪が志ノ沙山に来る以前から何かしらの問題を抱えているようだ。
今までは行動に制限はあったが比較的に自由が効く立場を持っていたが、それが今回の暴走により何処かに隔離、幽閉…閉じ込められて封印されてしまうらしい。
「母上を抑えていた結界はどうなった。それから、決定といったな。今は拘束状態にあるのか?」
「破られました。そして、その場に居合わせた妖…下級の者共ではありますが十数匹が八つ裂きにされ、その場にて縮れた肉片と成り果てました。…幽閉に着いては左様です。現在は力ずくで抑え込まれております」
唄鳴という妖が引き起こした多大な被害を思い出したのか、白築の眉間にシワが寄っている。
「そうか。実行されるまでの猶予はどれ程だ」
「今から二十日の夜になりますれば」
「…父上は、この判断に異を唱えなかったのか」
「はい、差程。…父上は唄鳴様の幽閉に反対されておりませんでした」
「そうか」
夫が妻を守らなかったことに対して、目の前にいる妖狐兄弟に驚きや失望といった様子は見受けられない。
父親にとっては側室故に優先順位が低いのか。冷えた夫婦関係だったのか。それとも発狂時に引き起こした惨劇とその被害の大きさから幽閉されても仕方がないと判断しているのかは分からない。
ただ、感情の見えない声で、夕凪はそうか。と短い言葉を口にするだけだった。
「此度の唄鳴様の発狂。兄上の不在時を狙ったかの様に重なっております。どういう手法を使ったかは分からぬが偶然とは思えませぬ」
「そうだな。必然といった方が頷けるもの。白築、戻り次第、他の妖一族を含めた組織図と派閥をこの目で見直したい。手伝って貰えないか?それから、この日程ならば間に合う。幽閉されてしまう前に母上にお会いしたい」
「心得ました。兄上の頼みとあれば喜んで」
夕凪の帰郷後の方針が固まったようだ。
「アズト様、大変名残り惜しいですが私は一族の元へ戻らねば。事が無事に片付いたら必ずここを訪れます」
「知ってるし、わかっている。君のしつこさは一緒にいて呆れた」
夕凪はその言葉にはにかんだ笑顔を見せてアズトに深く一礼してから自らの故郷に向けて歩き出した。
その背を白築が追いかけようとするとしたが立ち止まった。
「まて、お前。何故、さりげなく同然のような顔で跡を着いてこようとしているのだ?ここからは俺と兄上だけで」
山吹の様に黄色の彩度の強い目には困惑といった感情と一緒にアズトが映り込んでいる。
「ボクはここで別れるなんて宣言していない」
「は?」
「アズト様、それは…」
「ボクもその帰路には可能な限り同行する予定だから」
「我らの話を聞いていただろう。お前には兄上への殺害容疑がかけられているのだぞ。神隠しの山に引きこもっていた方が安全だ」
本当は白築と引き合わせたこの場を持って、アズトも夕凪と別れる予定だった。
しかし、無理やり聞かされたに等しい妖狐一族の内情。それを思えば、妖狐一族の住まい迄の道のり、仮に無事に帰路につき一族内に戻ったとしても夕凪の命が常に狙われ続けるのは確定事項。
自身は大丈夫だと言ってはいるが病み上がりの夕凪。そして、仮に夕凪が命を落とせば文通を楽しみにしていた三重が…。
このままでは、出掛けようが引き篭ろうが面倒ごとが向こうから、こんにちはしてくるのだ。
「アズトがそういう風に伝わっているなら…どのみち、志ノ沙山じゃなくて、アズト目当てで迷惑なお客人が送られて来るかもしれない。それなら逆に山から離れた方が楽だ」
「私としては少しでも長く過ごせる時間が増えたのは嬉しいのですが、アズト様」
夕凪の困惑混じりの声が聞こえてくる。アズトから同行を申し出るとは思ってもいなかったようだ。
「我らの帰路には日数を要します。留守にしている間、志ノ沙山の守りはどうなされるのです。貴方様にとって重要な役割なのでしょう」
「……」
アズトは視線をちらりと志ノ沙山の方向へと向けた。
今、この場で花開いている黄心樹の柔らかく白い花びら。その白よりもさらに向こう、鮮やかに色めく橙色が星の如く散りばめられた金木犀。
その金木犀に囲まれた屋敷から夕凪とアズトを送り出した三重のお願いごとが意識に浮かぶ。
『 いい?アズト。現在、志ノ沙山はかなり安定してるわ。あたしは絶好調よ。暫くは、あたし一人でもなんとかなるわ。だから、夕凪さんの無事を見届けてから戻ってきてちょうだい。いいわね!絶対よ!』
屋敷を出る前に三重から少しの間、安定しているから山の守りを離れることになっても絶対に夕凪を守れと言われた。
絶対と言う言葉を使ったのだ。そう言える程に大丈夫と宣言する三重。
本当は妖狐兄弟の言い分が正しい。この選択と行動は本来取るべきでは無いものだ。
アズトの本来の役割では無いけれど。
…だけど、いこう。
「構わない。戸締りはきちんと出来ているようだから」
そう望まれた部分もあるけれど、宣言してしまったから。
あの日、黄昏に照らされた志ノ沙山で拾って以来、訳の分からない感情を藍色の瞳に宿して、ぶつけてくる傷だらけ妖狐に。
可能な限り送り届けてやると。
「…兄上」
苦言を告げようとした白築は兄の顔を窺うと口を閉じて黙り込んでしまった。
そこから少しの間があって鼻を鳴らした。
「ふん、…そこまで言うのなら好きにしろ。ただし、何かあっても己の身は己で守れよ」