痕跡と来訪者
志ノ沙山の深い霧を抜けた先にある山の麓。
そこにアズトの目的地があった。初めて夕凪と出会った場所。
辿り着くと夕凪の血を吸って赤く染まっていた場所は何もかもが綺麗になっていた。
まるで始めから何事も無かったかのように。
アズトは一本の樹木に視線を向けた。
その樹木には当時、夕凪の爪痕が刻まれており、更には血がべったりと染み込んでいた。
なのに、あれだけ派手に赤く染め上げていた血痕も爪痕も残っていない。
傍らに樹生している他の木々と何ら大差ないほど綺麗になっている。
夕凪を志ノ沙山に連れてきてから約60日が過ぎようとしている。大地や草木に付着した血は雨に晒されて流れてしまうのは自然だ。
だけど、樹木に染み込んだ血というのは雨が降ったからといって、そう簡単には落ちないし、爪痕は残っている筈。
明らかに何者かによって証拠隠滅されている。
(此処に夕凪を探しに来た奴がいる)
夕凪にとって敵なのか味方なのかまでは読み取れない。この場を隠蔽した者は夕凪を既に亡き者として思っているのだろうか。
不意に複数の気配が近づくのを感じた。人間では無い、これは妖の気配だ。普段ここら一帯に存在する微弱な妖達のモノとも違う。
そうなれば、妖達の目的は夕凪と捉えていいだろう。
これ以上、志ノ沙山に立ち入ろうとするならば接触して警告みるか。
彼等に見つかりやすい場所まで移動して暫くその場から動かずにいると妖達はアズトを発見したのだろう。案の定近づいてきた。
やがてアズトの目の前に笠を被った三名(男2名と少女1名)の人間の旅人が姿を表した。
その内の1名である大柄な男が人の良さそうな笑顔を浮かべてアズトに声を掛けて来た。
「どちら様?」
「我らは旅の一行だ。道中、神隠しの山の噂を聞いてな。どのような山なのか気になって立ち寄った訳よ」
見た目は害の無い人間を装っているが、3名とも間違いなく妖だ。そして、この他にも周囲の物陰に身を潜めている妖が2体いる。
「そうか。だけど、これ以上は立ち入らない方が良い。これより先は噂通りの神隠しの山、志ノ沙山になる。物見はここまでにして、あなた方は旅路に戻られた方がいい」
「神隠しの山が危ねぇのは夕暮れなんだろう?危険な時間帯まで数刻もあらぁ。折角だから、もう少し見ていきてぇのさ」
「それならば山の麓、黄昏時でなくとも、ここまでに抑えて」
「お前さん、この辺りに住む童か?」
「そうだよ」
「案内してくれねぇか?親切に忠告してくれてんだ。よそ者の我らより、余程、志ノ沙山に詳しいだろ」
「…何処に案内して欲しいの?」
「山の中よ。奥までは入らねぇ夕暮れ前には必ず下山すらぁ」
「お断りするよ。危険だもの」
「お前さん、その危険な志ノ沙山に入ってたんじゃねぇのか?裾に金木犀の花弁が付いてるぜ」
「………」
妖の男はアズトの着物の裾に付着している金木犀の花弁を指さした。今は春。金木犀は咲いてない。だが志ノ沙山は年中金木犀が咲き乱れている。
その花弁を付着させているのは、入山していた証拠になる。
「親御さんに言い付けてしまうぜ」
引き下がらない。下手に追い返すより行動を伴にした方が懸命なのか。
「…わかったよ。だけど、」
「あん?」
「奥深くまでは行かないし黄昏時になれば危ない。直ぐに下山するからね」
「助かる。ありがとよ」
アズトは妖一行を連れ問題の無い範囲内で山内を探索する。初めて踏み入れる志ノ沙山は彼等にとって物珍しげに周囲を見渡していた。
「みて、あそこ。春なのに本当に金木犀が咲いているわ!」
「おぉ、本当だ」
「山奥に入っていなくても金木犀が少しはあるのね!黄色くて小さな花が可愛いし、いい香り!」
「そうだな、金木犀見れて嬉しいのは分かったから急いで走るな。転ぶぞ」
森森とした山内に黄色い花を咲かせる金木犀の木を発見して妖の少女がはしゃいでる。
残りの2名は妖の少女を窘めながら周囲を見渡し、時折アズトに対して軽い世間話を持ち掛ける以外、特に怪しい動きをする素振りも見せない。
(隠れている2体も距離を一定以上置かずに付いてきている。別れて単体行動をする様子も無いな)
山の立ち入り許容量内をそうこう案内している内に、霧が徐々に立ち込め山内は暖かな橙色が差し込まれ始めている。時刻は黄昏時へと迫っていた。
「…もうじき、黄昏時になる。そろそろ下山しよう」
「あいわかった。案内御苦労だった。すまぬな我らに強引に付き合せて。礼はしよう。この金銭を受け取ってくれ」
三名の内の中背の男がアズトに金銭を渡そうと進み出たがアズトはそれを断った。
「必要ないから大丈夫」
「それではお前に対して申し訳ない」
この妖の青年は随分と律儀な性格だった。
「本当に大丈夫。君らの案内を何であれ了承したのはボクだ。気にしなくていい」
「…しかしだな」
「それよりも早く下山しよう。ボクへの礼は山の麓へ降りてからやり取りしよう」
「ふむ」
彼は残り2名(大男と少女)に目合わせして頷いた。
「そうだな。本格的な夕暮れになる前に下山しよう。暗くなった山は危ない。早めに山を降りるのに越したことはないな」
「うぅ、金木犀の匂いにもうちょっと包まれていたいなぁ!男どもの匂いには飽きちゃった!」
「なんだとぉ」
「お風呂にも入りたぁい!!長旅で疲れちゃった!」
妖の少女はどうやら金木犀の匂いが、大層お気に召したらしい。
「…一枝だけだったら持ち帰っていいよ」
「えっいいの?」
「うん、どうぞ。ここの金木犀事態は一年中咲いてるだけで特に害を齎す代物でもないからね」
アズトが近くに生息していた低めの金木犀の枝を折って少女に渡すと少女は金木犀の小さな花々に目を輝かせてありがとうとお礼をいった。
一行が山を降り麓に辿り着く頃には、優しくも暖かい夕焼けになっていた。
「着いたよ」
「麓ではあるが、初めに入山した場所とは違うなぁ、どういうことでぇ?」
アズトが志ノ沙山の出口だと案内した先は、麓は麓でも入山する前とは異なる場所だった。そのことに大男は眉を曲げ少し困惑した様子でアズトに疑問をぶつけた。
「此処は始めに入山した場所よりも人里に近い。旅は何かと入用なはず。都合がいいと思って此処へと降りた」
「なるほどなぁ」
「金銭を払い頼めば風呂にも入れると思う」
「ほんと!…あ、だけど。あたし達出来れば」
少女は風呂という単語に喜んでいたが、次の瞬間にはバツの悪そうな顔をした。
「道順に不安を覚えているのなら人里までボクが案内しよう」
「心遣い感謝するが、出来れば我等は元の場所から旅に戻りたいのだ」
中背の男がアズトに夜遅くなっても構わない自分達は大きく遠回りしてでも元の場所から旅に戻ると言い張る。
「なぜ?」
「どうしてもなのだ」
「そうか、なら話しをしてから案内するよ。ボクに話しがあっただろう」
「あぁ、かたじけない。先ずは礼を受け取ってくれぬか」
「それはいらない」
懐から再び金銭を取り出そうとした目の前の妖をアズトは止めた。二度目の受け取り拒否を受けた妖はアズトに金銭を渡すのを諦め再び懐に仕舞いこんだ。
「案内した対価はここからの話し内容。なのでお金は大丈夫」
「話し?」
「山内を案内しているとき思ったんだ。何度も立ち入られて厄介事を持ち込まれても困る。だから白でも黒でもハッキリした方がいいかなって」
「そなた、一体なにを言っているのだ」
「旅の目的は何?」
「我らの旅はこの地よりも更に北に位置する寺への参りだ」
「違う。旅の目的地は志ノ沙山」
「だからー」
「志ノ沙山近くで痕跡が途絶えた妖狐の行方。それを知るのが目的で来たのでは」
「知っているのか!?」
彼等はアズトの言葉に一転して、目を一様に見開き驚いていた。
確定だ。わかっていたけれども確定だ。彼等の目的は夕凪の生死に他ならない。アズトの脳裏に風邪を引いて弱っている夕凪の姿がチラついた。
「恐ろしい妖狐がこの付近で暴れたそうでな。その妖狐の退治を人々に頼まれたのよ、それこそが旅の本来の目的だぁ」
「あなた方は人間では無いだろう」
「ーーー」
アズトの言葉に妖達は姿を現さない者も含め一気に雰囲気を張り詰めた剣呑としたものへと変える。
場は一触即発の状態へと化した。