sideB11)細石神社の金印は何故見つからなかったのでしょうか(ふくおか県民質問掲示板から)
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●Q:細石神社に祀ってあった金印は、なぜ「発見」されなかったのでしょうか?
質問者)冒険者 福岡市城南区鳥飼 中3
これまでに何度か親魏倭王の金印について質問をさせていただいたHN冒険者です。
その度毎に詳しい御回答を賜り感謝しております。
さて今回ご質問させて頂きたいのは「細石神社の金印が親魏倭王印だったのであれば、長年にわたって祀られていたはずなのに、何故それが発見されなかったのか」という点についてです。
ぬらりひょん様の「潮盈瓊・潮涸瓊=二つの金印」説には(未熟者が言うのもおこがましいですけれども)説得力があると思いましたから
○邪馬台国→「赤村巨大古墳?」or中津平野→(英彦山?)→伊都or背振→志賀島(神功皇后)→細石神社
という移動ルートまでは納得ですが、長年にわたって細石神社に奉納されていたのだとすると、なぜその間には「発見」されなかったのかという疑問が生じます。
ご回答宜しくお願いいたします。
●A:口伝というのはそういうもの。
回答者)えべっさん 兵庫県西宮市甲子園浜 酒命
また君か。
ふんふん、熱心なのはええ事やけど、自分で調べたり考えたりは、してるんか?
人に訊いてばっかりでは身にならんでぇ。
細石神社に伝わっておったんは『口伝』や。
決して文字に残してはならんものを、信用でける相手だけに口伝えで残していくもんなんや。
秘事を伝えていくいうんは、そんなもんなんやで。
ま、キビシイこと言うてもうたけど、勘所は教えたろ。
秘仏を祀っとるお寺さんでは、前立本尊とか御前立いうて、ほんまもんが収められとる厨子の前に、レプリカ(いうんも何やけど、本物そっくりの)仏さん飾りよるやろ。
神社でも、真髄が祀ってある奥宮いうたら、どこもかしこもお参りし難い所にばっかしあるもんで、開けたお参りし易い場所に本殿やら遥拝所を造りますわなぁ。
それと一緒や。
普段に拝む対象は、ホンマモンでなくとも、象徴でええんや。
心さえ届けば良しとするんやな。
●A:元寇(文永の役)の時の、高麗軍が変な動きをしていますよね。
回答者)ぬらりひょん 福岡市中央区薬院 爺
えべっさん様が面白いヒントをお出しなので、私からも「無かった場所」についての情報を。
第一回目の元寇である「文永の役」では、博多湾に上陸したのは蒙漢軍と呼ばれる漢人部隊と高麗軍です。
劉復亨(副元帥)率いる蒙漢軍は、百道浜に上陸してから最大で赤坂付近にまで進出しますが、那の津付近に集結していた日本軍が迎撃に動いたために、徐々に数を増す日本軍騎馬武者に押されて後退を重ねます。
竹崎季長の絵で有名な「汐屋の松」の戦いがあったのが、現在の塩屋橋付近。冒険者君の住所に近い場所ですね。
一度は麁原山で態勢を立て直そうとした蒙漢軍ですが、ここでも騎馬武者の突撃を防ぎきれずに紅葉山から室見方面へと敗走を続けます。
劉復亨が少弐景資から射落とされたのも、紅葉山・高取付近。
このあたりで日が暮れたので、日本軍は戦闘を中止して引き上げます。
日本軍騎馬武者に大苦戦の蒙漢軍ですが、それに対してこの間、金方慶(都督使)率いる高麗軍8,000が何をしていたのかと言うと
――室見付近に上陸して以降、主戦場とは程遠い「室見~野方」付近で、略奪したり非戦闘員の殺害ばかりしていた――
のです。
本来ならば、高麗軍が飯倉・梅林方面から平尾・高宮方面に進出し、博多中心地から進撃してくる日本軍と対峙して助攻部隊の役割を務めていたならば、主攻部隊の蒙漢軍も日本軍重騎兵から一方的に潰されるのではなく、少しは那の津(袖の湊)に近付けていたかも知れません。
けれども結果が示す通り、元軍は戦闘開始半日で橋頭保を確保することも出来ずに撤収します。
主戦場から遠く離れた場所で高麗軍は、いったい何をしていたのでしょうね?
仮に曲渕や日向峠方面からやってくる日本軍別動隊を警戒していたのであれば、1,000~1,500程度の兵を押さえに残し、主力は東進していてよかったはずです。(と、言うより、そうしていなければならないのです。戦術レベルの戦闘では数の優位がモノを言いますから。)
元軍総司令官(征東都元帥)であるモンゴル人の忻都は、姪浜で遠征軍の敗兵をまとめ、日本からの退却を命じます。
理由は「日本軍が想像以上に強い上に、手持ちの食糧と矢が尽きた」からです。
元軍にしてみれば、博多を占領すれば物資は入手できるから、博多で徴発した補給品を基に大宰府を攻めるという基本戦略を立てていたものの、その方針が破綻してしまったのですね。
この退却命令に強硬に反対したのが『非戦闘地域で略奪ばかりしていて、ろくに戦闘参加していない』高麗軍の金方慶です。
彼は「日本軍は大して強くはない。今が九州全土を乗っ取る好機である。」と現実離れした主張を申し立てます。
この日の敗戦の原因(の一部)は、彼が率いる高麗兵の奇妙な行動によるところが大な訳ですから、総司令官の忻都は激怒しても良さそうなものですが、忻都は特に怒りを見せずに
「金方慶の意見はもっともだが、退くべき時は神速に退くのが良将の策」
だと答えています。
???
凄く変だと思いませんか?
予め、博多湾上陸後の高麗軍の動きが、そのようにでも決められていなかったならば、金方慶の指揮は明らかな敗退行為です。反逆行為と言っても差し支えない。
研究者の中には、文永の役の時の元軍の行動は「威力偵察もしくは威嚇行為であって、本格的な占領作戦ではなかったのだ」とする人もいるようですが
○総動員人数 約30,000人
○使用船舶数 大小900隻
による大規模渡洋攻撃なわけで、威嚇・威力偵察という目的だけというのは有り得ないですね。
それに元寇の時の高麗については、フビライから船と兵とを出すように命じられた苦労話ばかりがクローズアップされますが、フビライに日本攻略を提案したのは高麗の方なのです。
しかもその提案者である趙彜は、日本を元の冊封下に入れることで自身の元国朝廷内での出世を図っていたのですが、高麗貴族の中には日本占領後に駐日本総督として栄華を極めようと画策していた者もいたのです。
またフビライが日本宛に送った国書に、日本は漢や唐の時代には我が国と誼を通じていたのに元になってからは朝貢使を送って来ない、と不満を書いていた意味も分かりますね。
『「漢委奴国王」印と「親魏倭王」印を返却し、「親元倭王」印を受けよ』という謎かけです。
北部九州の豪族にはピンと来た者もいたでしょうが、坂東武者の北条氏にはナンノコッチャだったでしょうけど。
こう考えていくと、上陸作戦時に金方慶が戦闘を放棄してでも室見川流域で略奪を続けていた理由にも推測がつきます。
彼が密かに命じられていたのは「親魏倭王」印の奪取だったのです。
文永の役の前には、元と高麗からは何度も使者が博多や大宰府を訪れていますし、その使者の中には「回答文書を待つ」と称しては長期滞在して港の測量やスパイ活動も行っていた者がいたようですから、遠征軍上層部ではスパイの報告から、金印の在処を室見川流域だと読んでいたのでしょう。
金印奪取の至上命令が有ったからこそ、金方慶は8,000の軍勢を戦闘とは関係無い場所に振り向けていたのに、処罰も叱責もされなかったのでしょうね。
また敗色濃厚であるのに退却に反対した理由も、「金印を入手出来ていないのに、このまま帰れるか!」というものだったのかなぁと思います。
なお志賀島でも元軍の「座礁した(逃げ遅れた?)」戦艦一隻が鹵獲され、兵が処刑されています。
また二回目の元寇(弘安の役)では、朝鮮半島から侵攻してきた部隊(東路軍)は、日本軍によって撃退されるまで志賀島上に居座って博多上陸を行えていません。
元寇防塁によって上陸を阻まれていたとも、中国南部から出発する江南軍の到着を待っていたのだとも伝えられていますが、その間に狭い船中に立て籠もらざるをえなかった元軍兵士の間では伝染病が蔓延し、戦死者よりも戦病死者の方が多い有り様でした。
この選択も奇妙ですよね。
●A:御前立の意味が分かったような気がします。
回答者)たぁこ 福岡市早良区藤崎 高1
えべっさん様のおっしゃられた御前立が何であるのか分かったような気がします。
神社に在って、祈りを捧げられるのが不思議でないモノですね。
それを祀る対象として社殿に安置し、真髄は「奥」へ。
神社にあって参拝されるべき対象というのは「鏡」でしょう。
神様は一般的に光や空気といったカタチの無いモノで、鏡がその象徴とされる事が多いように思います。
そして細石神社から想像される「鏡」といったら、「大型内行花文鏡」という直径46.5㎝の大型『国産』鏡です。
大型内行花文鏡の出土地は、細石神社の直ぐ近くの平原遺跡。
発掘者は原田大六氏。
原田大六氏は、鏡の巨大なサイズ他から伊勢神宮の八咫鏡と同デザインであるとしています。
細石神社に置かれていた「御前立」は、大型鏡だったのだと思います。
これだったらダミー?として祀ってあっても何の違和感もありませんから。
でも、その後の動乱期に、この鏡もどこかへ消えてしまったようではありますが……。
ただし平原遺跡から発掘された大型鏡のいくつかは、国宝指定されていて伊都歴史博物館で見学することができますよ!
では、金印はどこに移されたのか?
細石神社の奥の院にあたりそうな場所を考えてみますと――
細石神社の位置は、吉備真備が築いた山城である高祖山山麓の「怡土城」、高祖山中腹にある高祖神社、高祖山山頂を結ぶ直線上になります。
怡土城は中国式山城構造で、唐で起きた「安禄山の乱」を警戒して造られたとされており、「白村江の戦い」での敗戦後に急遽造られた大野城の朝鮮式山城とは違う構造であるのが特徴です。
このように北部九州は東アジアの情勢からモロに影響を受ける地域であり、本当に大事な物は志賀島で土中に隠されていた漢委奴国王印のように、簡単には分からない場所へと隠されなければなりません。
ですから、細石神社にあった金印は「武士が持ち出した」という口伝があったとしても、その持ち出された時期が近世であるとは限らないと考えられます。
稗田阿礼みたいに古事記の内容分の知識を、まるまる暗記出来てしまうようなチート能力者が、そうそう存在するわけがないからです。
異聞や混同を防ぐためには、口伝えのオリジナルな内容は、具体的でとことん簡素化されていなくてはなりません。
それでも長期に渡る伝言ゲームでは、内容が削ぎ落とされて更に簡略化されてしまう事もあるでしょう。
そこで「持ち出された時期」の候補を考えてみます。
『神功皇后の三韓征伐以後で、武士もしくは武官が、神社の神宝を移動させそうな時期』
①白村江の敗戦時:天智天皇が唐・新羅連合軍の襲来を警戒して、朝鮮式山城の防御陣地を多数構築させた時期。(大野城、水城などを造った時期)
②唐で安禄山の乱が起こった時期。(怡土城を造った時期)
③刀伊の入寇:北部九州が襲撃された。
④平氏の滅亡~後述
⑤元寇:実際に筥崎宮の御神体も、内陸の宇美に避難している。
⑥室町時代の戦乱~後述
⑦島津征伐~後述
⑧江戸期の亀井南冥失脚後
⑨幕末動乱期
冒険者さまには、①②③⑤⑧⑨は既に説明不要と考えますから、④と⑥⑦について私の考えを述べてみます。
なおこのあたりの歴史的経緯については 岩森道子著『怡土・高祖城落城記』という本などを参考にしています。
まず④について。
平安末期になって武士が台頭してくる時代の頃に、北部九州の実力者だったのは「原田氏」という豪族です。平清盛が日宋貿易で利益を上げていたころですね。
原田種直は、清盛の長男 平重盛の養女を妻とし、平氏と縁続きになります。
清盛の死後、源氏の木曽義仲が京都占領をなした後、重盛の妻が子供二人を連れて、原田種直の所に避難してきます。
種直は糸島の一貴山に隠れ家を作って、重盛夫人と子供を匿います。
その後、原田種直の元には重盛の弟 平宗盛が安徳天皇を連れて避難してきます。
種直は安徳天皇を大宰府の善正寺に匿うと、糸島の「今宿」の「上の原」に仮御所の建設を始めます。
仮御所建設位置の「上の原」とは、地図で確認すると今宿野外活動センターがある上ノ原みたいです。
『高祖山』と『叶ヶ嶽』に挟まれた谷地で鯰川という川が流れています。鯰川の河口が長垂海水浴場だから、冒険者さんにも大体の位置関係はお分かりになると思います。
細石神社とは高祖山を隔てて左右(東西)の位置になりますね。
衛星写真を見ても、二つの山に囲まれた谷だから、戦闘時には鯰川の狭い平野(というより平地)だけを封鎖すれば良い、防衛力が高い場所です。
しかし清盛亡き後、京・福原を失った平氏の旗色が悪い事から、九州の豪族は次々に源氏に寝返ります。
原田種直は安徳天皇を
大宰府→肥後山鹿→大宰府→箱崎→香椎→芦屋
へと次々と逃がして安全を図りますが、遂には九州では危ないということで、芦屋から船で四国の屋島へと避難させる事になります。
邪馬台国が滅んだ時も、同じような感じだったのではないでしょうか。
ですから、安徳天皇御一行が九州におられたのは、「鵯越の戦い」の後から「屋島の戦い」の前までと、短期間だけという事になります。
その後「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」で敗れた清盛系平氏が滅亡すると、重盛夫人にも討手がかかり、一貴山の唐原で重盛の遺児は暗殺され夫人は自害。原田種直は鎌倉の獄舎(土牢)に幽閉となります。直ぐに処刑されなかったのは、種直の弟 原田種成が源氏軍の中で功績大だったからです。(種成は恩賞として源頼朝から筑前・肥前の二国をもらっていました。)
種成の保釈運動で十三年の幽閉生活の後に種直は釈放され、怡土庄の一部をもらいます。
以上が④の場合で「細石神社から金印が持ち出された」とする時のチャンス(?)です。
この④の時のキモになると考えれられる部分が「上の原」の仮御所です。
天皇家に伝わる三種の神器とは『八咫鏡』『八尺瓊勾玉』『草薙剣』の三品ですが、現物は安徳帝御一行が肌身離さず手放さなかったでしょうから、仮御所にはレプリカが安置されて御所となった時のシミュレーションが行われた事でしょう。
伊都国では鏡や銅剣(後には鉄剣)は内作されていましたし、古墳の副葬品にはヒスイの勾玉も出土しています。シミュレーション用のレプリカには事欠かないのです。
けれどもリアルさを追求しようとすれば、鏡には八咫鏡と同形状とされる大型内行花文鏡を用いたのではないでしょうか? そしてそれは仮御所の建設地とは山一つ隔てただけの(私の想像ですが)細石神社に飾ってあるのです。
神社の鏡を持ち出そうとすれば、普通は神罰を恐れそうなものですが、それが「三種の神器のピンチヒッター」であるならば、神社の神様も鼻高々で御赦し下さりそうなものです。
同様に草薙剣も、糸島のどこかの神社に祀られていた銅剣か銅矛であったのだろうと考えます。先進的な銅剣・鉄剣製作地だったわけですから。(あるいは細石神社には鏡だけでなく剣も祀られていたのかもしれません。なしにろイワナガヒメ・コノハナサクヤヒメの父であるオオヤマヅミの神は、山の神の総本家であり「鉱山の神」として祀られている事もあるからです。)
それでは三種の神器の残るもう一つ「八尺瓊勾玉」のピンチヒッターには何を用いたのでしょう? 少なくとも大型内行花文鏡に匹敵する物でなくてはなりません。
現在の宮中では、八尺瓊勾玉は草薙剣の「形代」と共に剣璽として祀られているそうです。形代というのは「実物ではないけれどその魂を宿す依代となるモノ」の事。
乱暴に解釈するならば、「玉璽が本物であるならば、剣は魂の依代と成り得る物でもよい」と考える事も出来ます。逆に言うと、それだけ八尺瓊勾玉は重要だという事になります。
この八尺瓊勾玉に匹敵するメノウの勾玉を、原田種直は用意する事が出来たでしょうか?
魏志倭人伝には、邪馬台国のトヨ(もしくはイヨ)が魏帝に献上した品の中に巨大な玉があったとされています。
けれども日本の有名なヒスイ産地は新潟県糸魚川市であり、北部九州に近い場所と言えば、岡山県新見市と熊本県八代市です。トヨは瀬戸内海貿易で岡山県からヒスイを入手したのかも知れませんが、急場を凌がなければならない原田種直には、岡山や八代からヒスイを取り寄せている余裕は無い。
それで細石神社の真の社宝である親魏倭王印を以て、八尺瓊勾玉の代理としたのです。
親魏倭王の金印には、漢委奴国王印と同じく「蛇の形をした鈕」が付いていたと考えられますから、『半環の鈕がある玉璽』です。
これほど八尺瓊勾玉のピンチヒッターに相応しい「勾玉」=「曲がりのある玉(璽)」が他に考えられるでしょうか?
なお鎌倉獄舎から釈放されて怡土庄に入った種直は、高祖神社の宮司と縁戚を結び、高祖神社を高祖山に招いたとされています。
高祖神社を招いたから高祖山になったわけで、それ以前は別の名で呼ばれていたのでしょうけれど、何と呼ばれていたのかは分かりません。怡土山とかなんとか呼ばれていたのかもです。
また高祖神社の御祭神は、『山幸彦・タマヨリヒメ・神功皇后』です。ぬらりひょん様が志賀海神社のご説明の時に触れられていた神々ですね。
それと高祖神社が高祖山に招かれる前の「所在地」というは、よく分かってはいないようなのですが、元の祀られていた神様は『高礒比メ』(メは口に羊)あるいは『高磯比メ』という神様だったようです。『礒』や『磯』の字があてられているのが興味深く思えます。
『礒』であれば意味は「ゴツゴツした岩」でイワナガヒメを連想させますし、『磯』であれば「岩石の多い海岸」の意味ですが、むしろそのものズバリ磯良(阿曇磯良)との関連が思い浮かびますね。『(海底=龍宮より)高い場所に住まう磯良神』といった感じ? 山ほめ祭の対象となる神なのかも。
だから所在が分からない元高祖神社は、「高礒神社」か「高磯神社」だったのだろうと思います。
さて④に対する考察が長くなり過ぎてしまいましたから、⑥⑦は急ぎます。
原田種直から4代目と5代目の当主である原田種継、種頼親子は、老朽化した怡土城を近代化改修して高祖城とします。
元寇(文永の役)の時には高祖城主であった原田種照は戦死していますが、防御側の日本勢は戦力を那の津に集中させていましたから、彼が戦死した場所は赤坂~姪浜間のどこかであり、高祖城や細石神社方面でないことは確かです。(『八幡愚童訓』によると箱崎で戦死したことになっていますが、同書では戦力配置や戦闘経緯がメチャクチャですから、重要な資料ではありますが信用することは出来ません。井沢元彦氏も『逆説の日本史』の中で、八幡愚童訓を「神仏の功徳を称える目的で書かれたもので、文永の役の正確な戦闘経緯を記したものではない」という意味の事を書いておられます。)
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼした後、足利尊氏と後醍醐天皇が対立して、尊氏が九州に落ちのびてきた時には、その時の高祖城主 原田種時は足利方に付きます。
尊氏が「多々良浜の戦い」で後醍醐天皇方の菊池勢を破り、京に向かって軍を進めると、原田種時もこの軍に加わって東に向かいます。
これで鎌倉幕府では冷や飯を喰わされていた原田種直直系の原田氏は、家勢を盛り返します。
形勢不利になった後醍醐天皇は三種の神器を持って吉野に逃れ、尊氏の立てた光明天皇と対立することになります。
この時は原田種時にとって、尊氏に『細石神社のレプリカ』を差し出すチャンスだったでしょうが、実行には移されていません。尊氏(北朝)側は後醍醐天皇(南朝)側から、武力・策略の両方を使い、時間をかけて三種の神器を奪還していますから。
それでは⑥の室町時代(~戦国時代)の怡土と高祖城について。
高祖城の原田氏は「応仁の乱」では西軍に属しています。大内氏とは同盟関係。
その関係から、九州の支配権を大内氏と大友氏が争うようになると、大内方として戦闘参加するようになります。
糸島(怡土+志摩)では、怡土は原田氏、志摩は大友方の臼杵氏と勢力が二分していましたから、両者の間では度々戦闘が起きることとなります。
ちなみに高祖城の原田方と敵対した大友方の臼杵氏の根拠地は「柑子岳城(草場城)」でした。現在の場所で言うと大原海水浴場から見える山というか、九州大学伊都キャンパスと海釣り公園の間の山です。
(だから伊都キャンパスは、本当なら志摩キャンパスと呼ばないといけないのでしょうけれどね。)
この時期(といっても、結構な長期間になるわけですが)に高祖城が主戦場になった戦いがいくつかあります。
(1)まず、対馬の少弐氏が糸島に攻め込んで来て高祖城を包囲した時。少弐氏は、大内・原田連合軍に大宰府の支配権をめぐる戦いで敗れて対馬まで敗走していましたから、その報復というか捲土重来を期した戦いです。
少弐氏の軍は小金坂(高祖山西部の平野部)と末永(高祖山南部の土地で日向峠へ向かう道がある場所)などを占領して、高祖城は三ヶ月間の籠城戦を戦うこととなります。
当然、細石神社は両軍の占領目標になったでしょうから、損害が出たのは間違い無いでしょう。
(2)次に元岡の水崎氏が、高祖城西方の小金坂まで攻め込んできた時。
水崎氏の居城「水崎城」は、九州大学伊都キャンパスに隣接する小山です。
(3)原田氏(高祖城)対臼杵氏(柑子岳城)の戦い。計4回。
以上、計6回の戦闘です。(2)は小規模な戦闘だし、(3)は籠城戦というよりも攻防戦で、逆襲した高祖城方が水崎城や柑子岳城を占領していますから、可能性が高いのは長期籠城する事になった(1)の少弐氏との戦いでしょうか。
ただ(1)~(3)の戦いの後で、43代城主 原田興種が「高祖宮」を再建し「金龍寺」を建立しています。
この原田興種という人物は、功績を賞されて京で足利将軍から『屋形号』を授けられるのですが『安徳天皇を、遠祖の原田種直が御守護した折に、天皇さまから「御所号」を賜っている』という理由で、屋形号を辞退!
代わりに感謝状と所領を貰っています。当時の後柏原天皇からも感謝状を貰っていますね……。源氏の棟梁である足利将軍相手に良い度胸ですが、処罰はされていません。(むしろ安徳天皇を一時的にでも匿った事が、原田氏一族の誇りだったという事を如実に示すエピソードだと思います。)
さて「高祖宮」を再建した原田興種の死後、⑥期最大のピンチが高祖城を襲います。
大内氏の実力者であった陶晴賢の下剋上です。
陶晴賢は大内義隆を殺害すると、大友と手を結びます。
そして大軍で高祖城を攻め、城方では裏切りも出たために高祖城は陥落してしまい、城主の原田隆種は城を脱出します。(後に蟄居)
この時点で、細石神社・高祖神社・金龍寺・高祖城は、陶晴賢(と大友方)の支配下に入ったわけです。分かり易い財宝があったとすれば、徹底的に略奪対象となったことでしょう。
けれども陶晴賢は、毛利元就との厳島合戦に敗れ厳島で戦死。
原田隆種は、この機に乗じて高祖城を奪還します。
「細石神社にあったはずの金印」は、どうなっていたのでしょうね? 誰かが発見していれば、それなりの騒ぎになっていたと思うのですが。
ここから先は北部九州も本格的な戦国乱世となり、「大友・龍造寺・島津の九州三強+毛利」の覇権争いの中で、高祖城の原田氏も目まぐるしく提携先を替えます。
安徳天皇に終始にわたって忠誠を尽くした原田種直のような行動を採るのは、巨大な軍事力でも持っていない限り不可能だったからでしょう。
この戦国時代の情勢については、前述の『怡土・高祖城落城記』の他に
○『筑前戦国史』 吉永正春著
○『九州戦国合戦記』 吉永正春著
○『戦国九州軍記』 歴史群像シリーズ⑫
が参考になると思います。興味が有れば、ご一読をお薦めします。
さて最後⑦ですが、これは高祖城が廃城になって、完全に破壊されてしまう時です。
島津と結んで抵抗する高祖城の原田信種に対し、豊臣秀吉は降伏の使者を送りますが原田信種は参上しません。
そこで秀吉は小早川隆景に兵10,000を預けて、高祖城攻略に向かわせます。
小早川隆景は兵を三隊に分け、3,000名を今津湾経由で北原(JR学園研究都市駅付近)に配置、500~1,000名を叶ヶ嶽へ、そして隆景本人が6,000~6,500を率いて長垂峠へ布陣し、前進します。
高祖城からは迎撃部隊が出撃していましたが、小早川勢の大軍と遭遇して高祖城に退却する事も出来ないまま『上ノ原』に立てこもります。
隆景は上ノ原の原田勢には手を出さずに高祖城まで兵を進め、最後の降伏勧告を行います。
これで原田信種も抵抗を諦め、高祖城は降伏です。無血開城でした。
信種は助命されましたが、原田家の所領は没収されて佐々成正の配下(後に加藤清正の配下)に組み入れられてしまいます。
なお原田氏とは親戚の秋月氏も、島津勢に加わって大友宗麟と戦っていますが、秀吉軍と戦う前に「楢柴肩衝」という茶器の名品を秀吉に差し出して助命されています。(ただし所領は没収されて日向国に移動。)
こうなると原田信種も「何かの名品」を差し出していたのでは? という疑問が浮かびますが、原田隆種(信種の父)の三男が毛利家に入っていたおかげで、小早川家とは昵懇の仲だった事の方が利いているような気がします。
古代の金印を宝として差し出していたなら、絶対に記録が残っていると思うので。
以上の事から推理するに、いつしか細石神社に飾られていたのは「御前立としての八咫鏡のレプリカ」で、「真髄は上ノ原」に隠されているか「高祖神社か金龍寺から上ノ原に移された」のではないかと考えます。
(追伸)
そう言えば、原田氏と親戚関係にある秋月氏の所領は秋月・朝倉方面で、以前ミステリマニア様がクコチヒクの邪馬台国侵攻ルートの前線司令部として考えられていた英彦山山系南西側ですね。
原田氏と秋月氏の間の「遣り取り」を反映したのが、背振山の『べんじゃあさん伝説』って事だったら面白い気がします。
●A:たぁこ様へ一言。
回答者)えべっさん 兵庫県西宮市甲子園浜 今は素面やでぇ
よう調べはりましたなぁ。おっちゃん脱帽や。
けれど、そこまでにしとき。そこから先は文に書いてはアカンとこや。
冒険者くんへの解答は、労作やけど削除しときなさい。
ま、たぁこ様の手を煩わさんでも、消えよる思うけどな。
冒険者くんとキミには、メッセージ機能で個人向けメッセージ送るさかい、読んだってや!