sideA8)にじが逆さに見えるわけ
「よし。じゃあ二手に分かれよう。」
アナグマが膝を叩いて皆に呼びかけます。
「俺とクマ、リスとコマドリはドングリを探して、池で願い事をしてくるから、その間にキツネと坊さんは良い案を考えていてくれ。頭を使うのは、アンタら二人に任せておくのが間違いが無いようだ。」
そして、のびてしまったリスに目をやって
「ほんとなら、こいつも頭を使う方に回してやれたら良かったんだが……少し強く殴りすぎたようだ。目を覚ましたら謝っておく。」
と付け加えました。
南行坊は衣の懐から団子を取り出すと「ドングリでなくとも、これでも良いじゃろう。」とアナグマに手渡しました。「藤崎橋の横の茶店で、娘が恵んでくれた団子じゃ。他の店に比べたらあまり繁盛はしとらんようじゃったが、良い材料を使っておるからのぅ。」
「……ありがたいがな、坊さん。」アナグマは渡された団子をしげしげと眺めると「坊さんごと淵に落ちて来たから、びしょびしょじゃねえか。」と困った顔をします。
南行坊は「今から池に投げ込むんじゃろうが? 濡れておったとて構うまい。」とカラカラと笑いました。
「そりゃあ、そうだ!」皆ももゲラゲラと笑います。
失神していたリスも、いつしか目を覚まして笑いの輪に加わっています。
みんなで一緒に笑った事で、動物たちには「この理屈にうるさいお坊さまに任せておけば、何とか解決策を見付けてくれそうだ!」という希望が湧いてきました。
「よいか。『ヘビの食欲を元に戻して下さい』と、それだけを願うんじゃぞ。何も足さず、何も引かずに、ただそれだけじゃ。」
南行坊の念押しに「分かった。」とアナグマが頷きます。
「池に行くヤツらの中では、リスが一番頭が良いから、願い事はリスに任せる。コマドリは空の上からヘビが近づいて来ないかどうかを見張っていてくれ。俺とクマは、ヘビが近づいて来たら必ずリスを守るから、リスは願い事だけに専念しろ。みんな、これで良いな?」
アナグマの采配に、リスもクマもコマドリも大きく頷きます。
臆病だったクマも、今は気合を入れて武者震いをしているようです。
「よし! 出発!」
ドングリ池に向かう一行を見送ったキツネは、南行坊が空を見上げているのに気が付きました。
「南行坊さま? いったい何を見ておられるのです?」
南行坊は「空よ。不思議な逆さ虹がかかっておる……。」と答えた後「いや、あれは水面じゃな。空が水鏡になっておるのか。……すると、ここは水の底。龍宮のようなものか。」と一人ごちました。
「さように御座います。」キツネは神妙に答えます。
「龍宮かどうかは存じませぬが、確かにここは水の底。……いえ、水面を境に、逆さまの陸地があるのでございます。百年に一度ほどの割合で、上の世から天蓋を破って人が落ちて来るとの言い伝えがございます。」
「それで合点がいったわ。おぬしらと普通に話が出来ておるのが不思議じゃったのじゃが、おぬしらは龍宮に住まう神獣じゃったのじゃな!」
いや、これは失礼いたした――と南行坊はキツネに手を合わせました。
けれども直ぐに「しかし、いかに神獣といえども『知恵一番の南行坊』には敵うまい!」とガハハと笑いました。
仕方なく「さようでございますね。」とキツネも愛想笑いをします。
「キツネ殿、一つ伺って良いかの?」
南行坊からの問い掛けに、キツネは「何なりと。」と畏まります。
「あの逆さ虹の掛かっておる天蓋は、いつも藤崎橋と繋がっておるのかな?」
「いえ違います。この世界が揺らいだ時のみ、でございます。」
キツネは少し考えて「先ほどドングリ池に、知恵を貸していただけるよう願い事をいたしましたから、知恵を授ける者として南行坊さまをお迎えするために、つながったのでございましょう。」と答えました。
「ふむ。それではワシは、もうここからは出て行けぬと言う事か。……願人坊主の一人くらい、世の中から消え失せても別にどうということは無いがな。」
そう言いながらも、南行坊は少し寂しそうでした。「遂に、弘法大師様には会えず終いか……。」
「いえいえ。ここから出るのは簡単なのです。南行坊さまが落ちて来られたそこの淵、深く潜ればまた別の逆さまの淵につながっておりまして。金山を流れ下る川の淵に出ることが出来るのでございます。」
金山というのは背振山地の山の一つで、ここを流れ下る渓流は、内野のあたりで室見川の本流に合流しますから、金屑川や油山川とは同じ水系です。
ですから藤崎橋のある金屑川と、金山の渓流とは、最後は同じ室見川になる、と言い換えてもよいでしょう。
キツネが指し示しているように、オンボロ橋の淵にも虹が映っております。
「先ほど南行坊さまが落ちて来られた時には、とっさの事で息を深く吸っておられなかったので、溺れそうになっておられましたが、覚悟を決めて潜るのであれば容易くたどり着ける深さでございますよ。」
「本当か? いやさ、金山から流れ下る川ならば、坊主が滝や花乱の滝にて修行したことは有ったのだが。」
坊主が滝や花乱の滝は、古くから修行の場として知られた場所です。
南行坊にも、以前には修行者としてそこを訪れた事があったのでしょう。
キツネは嬉しそうに首を縦に振りました。
「その坊主が滝の更に上、名無し滝の淵が出口でございます。名無し滝の淵には、滝の水しぶきで何時も虹が掛かっておりまして、その虹が映っているのでございます。」
キツネの説明を図にしてみましょう。
●『外の世界から見た虹』
名無し滝の淵 普通の虹
水面━━━━━━━━━━━━━━━━━
オンボロ橋の淵 逆さの虹
逆さ虹の森の空 普通の虹
水面━━━━━━━━━━━━━━━━━
藤崎橋から見た水面 逆さの虹
●『逆さ虹の森から見た虹』
藤崎橋から見た水面 普通の虹
水面━━━━━━━━━━━━━━━━━
逆さ虹の森の空 逆さの虹
オンボロ橋の淵 普通の虹
水面━━━━━━━━━━━━━━━━━
名無し滝の淵の虹 逆さの虹
この関係から考えると、オンボロ橋は普段は名無し滝の淵につながっているのだけれど、何かの拍子では、同じ水系である藤崎橋とつながる事がある、と言えそうです。
確かに流れている水は、最後は同じ室見川に到達するのだから、川全体の水量は変わらないのです。
「なるほど、外に出られるのか! それならば策は定まった。」
南行坊は力強く頷きました。「あとはアナグマどもらが戻って来るのを待つばかりじゃ。」
アナグマたちを待つ間、南行坊はキツネに
「おぬしたち、実は淵をくぐって外の世界へたびたび行っておるのか?」
と訊いてみました。
キツネはちょっと恥ずかしそうに俯いて
「他の者は、あまり『外』には出たがりませんが、わたくしめには愛しい御方がおりまして……。」とモジモジします。
「ほほう? 背振山あたりのキツネさんかな?」
重ねて訊ねる南行坊に、キツネは「人間の殿方でございますよ。伊織様という、たいそう真面目な御方です。」と打ち明けました。
キツネの愛しい相手が人間だと聞いて、南行坊は二人が結ばれるのは難しかろうとは思いましたが、この神獣狐は頭も良いし気立ても良いから何も言うまい、と黙って頷いたのみでした。
すると今度は逆にキツネの方から
「南行坊さまは、なぜここへ飛び込んで来られたのですか? それに弘法大師さまは、昔々のお坊様でございましょう。お亡くなりになられてから、幾百年も過ぎておられましょうに。」
と質問をしてきました。
「大師様は、高野山の奥の院に、今も御健在でおわす。」
居住まいを正した南行坊は、そう応じました。
「そればかりではない。今も全国を行脚しておられるのだ。四国八十八ヵ所を始めとして、所縁の霊場を遍路する者は、何処かにて必ず大師様にお目通りが叶うと伝えられておる。」
そして手を合わせて「南無大師遍照金剛。」と、弘法大師の御宝号を唱えます。
「なるほど、左様な訳がおありでしたか。」
キツネは弘法大師の件には納得した様子ですが「でも、川に飛び込まれた理由は?」と追及の手を緩めません。(子供の通知表が悪かった時の母親や、疑問を追求する時の頭の回転が速い人には、えてしてこういう傾向があります。)
「いや、なに。隠しておるわけではない。」
南行坊は苦笑いします。
「藤崎橋には、川面に映る普通の虹を見たら富貴が訪れる、という言い伝えが有るのだが、橋からヒョイと下を見たら、虹と橋とが映っておった。……ワシは別に富は欲しておらぬが、大師様にお会いしたいと全国を行脚しておる坊主崩れ。ようやく願いが叶って、大師様の元へと続く橋が現れたかと、矢も楯もたまらずに身を躍らせたのよ。」
そして、後はおぬしらの知る通りよ、と話を締めくくりました。