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sideB6)直方平野の古墳について(ふくおか県民質問掲示板から)

●Q:直方平野にある古墳で、卑弥呼や邪馬台国に関係がありそうなものがあれば教えて下さい。

 質問者)冒険者 福岡市城南区鳥飼 小4


 以前、この掲示板で邪馬台国の金印について質問したものです。

 その時にミステリマニア様から「邪馬台国は直方平野にあって、狗奴国との戦争で首都は田川付近に移動した」という面白い推理を教えてもらいました。


 もしもミステリマニア様の推理が当たっていたとすれば、どの古墳が卑弥呼の墓になるのでしょうか?



●A:九州には装飾古墳が集中していますよ。もちろん直方平野にもあります。けれどもそれらはどれも卑弥呼の墓とは違うようです。

 回答者)漫画大好き 福岡市博多区住吉 年齢・職業は聞かないで


 日本の有名な装飾古墳と言ったら、奈良県の高松塚古墳(7~8世紀)かもしれませんが、実を言うと装飾古墳の分布は九州に集中しています。

 近畿全部で40個くらいなのに対して、九州では10倍近い340!


 有名どころでは、諸星大二郎の漫画『暗黒神話』に出て来る竹原古墳や、『黒い探究者』に出て来るチブサン古墳でしょうか。

 チブサン古墳の方は、オリジナル版では九州F県となっていたと思いますが、文庫版の方では「九州のある村」の「比留子ひるこ古墳」と改訂してありますね。


 さて直方平野にある装飾古墳をWikiで調べると

○王塚古墳(桂川)

○竹原古墳(宮若)

○桜京古墳(宗像)

の3つがヒットします。

 けれども出来た年代は、どれもAD6世紀半ば~後半にかけてで、邪馬台国の時代よりも後のもののようです。


 装飾古墳の分布は、筑後~熊本平野にかけてが多いようで、前述のチブサン古墳も熊本―福岡の県境に近い熊本県山鹿市にあります。


 ミステリマニアさんの推理が正しければ、直方平野にある装飾古墳は、邪馬台国がクコチヒクに滅ぼされた後に造られたものだと考えてよいのかも知れません。

 結論として「この古墳が卑弥呼の墓だ!」と言える古墳を上げる事は出来ませんが、一応絞り込みの参考まで。



●A:赤村に、それかも知れない「謎の丘陵きゅうりょう」が有ります!

 回答者)古代のイタコ 東京都練馬区光が丘 社内フリーター


 N日本新聞電子版 2018年3月20日付の記事に

○「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳? 謎の丘陵 日本最大にせまる全長450m

という記事がありますね。


 場所は福岡県田川郡赤村です。

 ミステリマニアさんが、東峰村・嘉麻・田川と邪馬台国の軍勢が敗北した時に中津平野への撤退ルートとして想定していた場所です。


 大きさは大山古墳(以前「仁徳天皇陵」と呼ばれていた古墳)とほぼ同じ450m。

 また前方後円墳の円墳にあたる部分は直径150mほどで、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の墓の「歩径百余歩」と一致するんだそうです。

 この丘陵の周囲では、タケノコ掘りの人が土器の破片を多数見付けているのだとか。


 ただし、地元の文化財担当の人は「古墳ではなく自然地形」であるとして、否定してるんだそうですよ。


 けれども高松塚古墳が発掘されたのも、地元の農家さんが収穫したショウガを貯蔵するための穴を掘っていた時に偶然掘り当てたわけで、それまでは古墳だとは思われていなかったのです。


 土器まで出ているのなら、掘ってみるべきでは? と思いますけれどね。

 県や村の予算の関係で手を付けたくないという「大人の事情」が有るのかも知れませんが、本当に卑弥呼の墓だったら吉野ヶ里遺跡以上に観光の目玉になるのは間違いありません。



●A:邪馬台国は近畿に決まってるじゃん!

 回答者)通りすがり


 修羅の国の土人www

 まだこんなタワゴト言ってるwww

 纏向まきむく箸墓はしはかのどっちかがヒミコの墓に決まってんじゃん!

 邪馬台国は近畿。これで決まりじゃクソどもが。

 オマエら一生バカやっとれや。



●A:悪質な荒らしは無視しましょう。

 回答者)百万遍狐 京都市山科区四宮 万年学生


 う~ん……。

 直方平野に邪馬台国が有ったら、という前提でディベートが進んでいるのに、まだ証拠品が発掘されていない近畿説を持ち出して荒らし行為に走る人がいるのは残念ですね。

 気にせず楽しく討論しましょう。


 私は近畿説を支持していますが、ミステリマニア様の指摘はなかなか面白いと思って読ませてもらいました。


 邪馬台国東遷説では「九州統一を果たした邪馬台国が東へと軍を進めて大和になった」とされるのが一般的だと思うのですが、ミステリマニア様説だと「狗奴国に圧迫された邪馬台国が、一旦は中津平野に逃れ、その後に瀬戸内海を通って四国・中国・近畿のいずれかに移動した」とも読み取れますね。


 邪馬台国の場所には、近畿説や九州説の他にも、中国説や四国説もありますから、全部まとめて説明がつくように思えます。


 実際、大分出身の友人と話をすると、山を隔てていて見えない福岡・熊本よりも、瀬戸内海を挟んで目の前が四国という地形的および海運的観点からか、大分県民には九州の一部だという帰属意識は低いようです。

 環瀬戸内海経済圏(山口・広島・愛媛・大分)という感じなのでしょうか。

 この経済圏は岡山・兵庫・大阪・香川・徳島にまでも広げる事が出来るのかも知れません。

 古代の日本だとあまり手広く交易をしているイメージは無いかもしれませんが、鉄器・青銅器以前の石のやじりを使っていた時代から、既に活発に交易を行っていたことが黒曜石こくようせき石器の発掘から分かってきています。

 黒曜石は採取出来る場所が限られているのに、石器として見つかるのは日本各地のいたる所からなのです。

 以前は弥生時代からとされていた稲作も、縄文時代から始まっていましたからね。


 さて金印の在処ですが、古代のイタコ様が上げておられた記事にアクセスしてみたら、確かに赤村巨大古墳? とでも言いたくなるような地形であるのが分かりました。

 掘ってみて欲しい丘陵です。

 ただし、そこに親魏倭王の金印が眠っているのかどうかは疑問です。


 なぜかというと、邪馬台国が直方平野にあって、しかもそこが狗奴国に占領されようとしていたならば、親魏倭王の金印は絶対に持って逃げなければならない物だからです。


 奴国連合=狗奴国が、中国の漢朝から倭の正統な代表である事を保証されたのが「漢委奴国王」印であるとすれば、邪馬台国が魏朝から倭の正統な代表であると保証されたのが「親魏倭王」印です。

 狗奴国は邪馬台国から「親魏倭王」印を取り上げるか、最悪の場合でもそれを潰すなり海に沈めるなりして「存在しなかった」事にしなくてはなりません。

 これは両国の正統性をめぐる互いに譲れない戦いです。


 だから親魏倭王の金印は、仮に一度は卑弥呼の墓に埋めてあったとしても、直方平野を捨てる時には掘り出して持って行ったのは間違いありません。

 地元(拠点)を失った邪馬台国にとっては、魏の皇帝から倭の正統であると記された金印を持っていることが心の支えだったでしょう。あるいは水戸黄門の印籠のように、歯向かう者にかざしては地方豪族を帰順させていったのか。


 ですから、赤村巨大古墳が発掘によって卑弥呼の墓であることが確認されたとしても、金印があるのは別の場所だと思うのです。

 中津平野か中四国か、案外近畿で見つかるのかも知れませんよ?



●A:百万遍狐様説に賛成。但し、日本国内には無いのかも。

 回答者)がすえび 石川県金沢市内灘町 漁師すなどり


 百万遍狐様の「自国領を捨てる時には、絶対的な貴重品は必ず携行する」という意見には賛成します。

 けれども「クコチヒク勢に敗北した時には、中津平野へ撤退する」というミステリマニア様の意見には、瀬戸内海ルートで中四国と繋がっているからという戦略上の説得力はありますが、理性的・大局眼的に見過ぎているような疑問が拭えないのです。


 今にも併呑されようという存亡の危機にある国家が、それだけの冷徹な判断を下せるでしょうか?

 確かに軍事部門は粛々と赤村経由の撤退ルートを中津平野に向かうかも知れませんが、旧首都(中間・直方)や港湾都市(芦屋)では、必ずパニックが起こるでしょう。


 クコチヒク勢に降伏する豪族も出て来るでしょうし、港湾都市から海に逃げる者も出て来るはずです。

 仮に田川が軍事都市の新首都であったとしても、国家のいしずえを証明する金印は旧首都に飾られたままであった可能性は捨てきれません。

 もしそうであったならば、金印は遠賀川を船を利用して芦屋まで移送した事でしょう。

 そして狗奴国の手が絶対に届かない場所へと持ち去られたはずです。


 その時には、関門海峡を経由して瀬戸内海に逃げるという選択肢を選ぶのが一般的だと思うのですが、そちら側に安心して身を寄せる事が出来る有力な味方がいなければ、対馬海峡を越えて朝鮮半島の新羅に向かったという可能性があります。

 なにしろミステリマニア様説だと、邪馬台国と新羅とは友好関係にあり、魏朝の役人とは新羅経由で関係を持っていたとされていますから。


 実は北部九州沿岸には「元寇」や「刀伊といの入寇」の前に、「新羅の入寇」や「新羅寇」という侵略戦争を複数回受けた事があるのです。

 新羅国内の飢饉や国家の混乱の為と説明されていますが、邪馬台国が狗奴国に併呑された時に、一部の邪馬台国人が新羅に亡命していたとすれば、邪馬台国再建の戦争のつもりだったのかも知れません。


 確率的にはかなり低いと言わざるを得ませんが、親魏倭王の金印は新羅(例えば慶州)あたりに埋まっているのかも知れません。



●A:冒険者君へ一言

 回答者)名乗るほどの者じゃございません


 赤村の丘陵について記事を読んでみましたところ、私有地(個人が持っている土地)のようですね。

 だから、興味があっても勝手に入ったら不法侵入の罪に問われることになります。

 入るんならば、持ち主の許可を取らないとダメですよ~。

 福岡市からなら電車で行けそうな場所なんだけどね。


 で、仮に文化財指定を受けたら、勝手に掘ると盗掘になります。

 ドロボウですね。


 だから色々勉強して、考古学の道に進むのが一番の早道なのかも?

 宝くじで大金を当てたら、丘を買っちゃうという力技もありそうだけど、大学に受かるよりも難易度は高い……。



●A:がすえび様に一言。

 回答者)松見の塔 茨城県つくば市春日 団体職員


 高句麗の広開土王碑に、倭が百残(百済)・伽耶・新羅を占領して自領にしたとありますから、仮に邪馬台国人が新羅に亡命していても、その時に無力化されたのではないでしょうか。

 神功皇后の三韓征伐の時の事だから、新羅の入寇より前の時代の話です。

 邪馬台国の金印が朝鮮半島に渡っていれば、その時に回収されていたはずですが、古事記・日本書紀にその記述はありません。


 それに邪馬台国の遺臣が金印を持って新羅に亡命していたとすると、魏か晋の記録にそれが残っているはずです。

 洋上で船ごと沈んだ可能性がゼロとは言いませんが、日本国内のどこかに眠っているような気がします。



●A:細石さざれいし神社の「金印」が、親魏倭王印だったのでは?

 回答者)ぬらりひょん 福岡市中央区薬院 爺


 ミステリマニア様が伊都国中心地として触れられていた波多江の細石神社には、不思議な口伝くでんが伝わっていました。


 口伝というのは、文書にして残せない秘事ひじを口伝えで残すというやり方です。

 格闘マンガなんかに出て来る一子相伝いっしそうでん奥義おうぎみたいなもの、といえば分かり易いでしょうか。

 和歌の世界でも、『都鳥みやこどり』という何鳥だか分かっていない鳥の事を『猿』の事だとする訳の分からない口伝があって、『猿ならば 猿にしておけ 都鳥』なんて川柳せんりゅう皮肉ひにくられていたりします。


 いや、話が脱線してしまいました。


 細石神社の口伝というのが『神社には金印が祀られていたが、江戸時代に武士が持ち去った』というものらしいのです。


 この口伝が本当ならば、まず一つ「志賀島で見つかった『漢委奴国王』印は元々は細石神社に祀られていた」という解釈が成り立ちます。


 けれどもミステリマニア様の「九州(北部)には、奴国連合と邪馬台国という二つの倭を代表する国家があり、それぞれが『漢委奴国王』印と『親魏倭王』印を旗印に対立していた」説を基にして考えれば、細石神社の金印は漢委奴国王印ではなく、親魏倭王印であった可能性が出て来ます。


 つまり、大和朝廷が出雲いずも王朝を征服した時に、出雲大社を建ててその遺臣いしん懐柔かいじゅうした時のような方法を採用したという事です。

 なんでも当初の出雲大社は、とても大きく高く造られていて、長い間日本で一番高い建物であったのだとか。

 時代的には大和朝廷軍の出雲併呑よりも、奴国VS邪馬台国戦争の方が先ですから、こちらの方が後の日本統一戦争時のモデルケースになったのかも。


 具体的には、邪馬台国を降伏させた奴国連合は、準中立地域(もしくは非戦地区)であった伊都国に細石神社(か、その前身となる祭礼施設)を建立こんりゅうし、邪馬台国のひめ祭主さいしゅとして迎え、親魏倭王印を御神体として祀らせた。

 ――こんな想像をする事が出来ます。

 相手を徹底的に滅ぼすのではなく、名を譲ってじつを取る、日本的な解決策ですね。

 だからその時に、奴国連合も邪馬台国→大和国と改名して、併合した邪馬台国へ敬意を示したのではないでしょうか。

 ただし日本が外交文書で「大和」を使用するのは遣唐使の時代からで、それ以前は「倭」を使用しています。


 これが当たっているとするならば「なぜ漢委奴国王印が、志賀島という福岡市内から見れば辺鄙へんぴな場所で見つかったのか?」という疑問にも答えが出せそうな気がします。


 邪馬台国を併合する事で奴国連合(大和国)の勢力範囲は

筑前+筑後+肥前+肥後+豊前+壱岐+対馬(+任那)

へと拡大しました。

 海陸を跨ぐ勢力圏です。勢力圏には陸の民ばかりでなく海の民も含まれます。

 ですから漢委奴国王印は、その象徴として勢力圏の中心に礎石そせきの様に祀られることとなったのです。(あくまでも、この年寄りの勝手な想像ですがね。)


 陸地から見れば辺鄙な場所である志賀島も、玄海島・小呂島おろのしま・筑前大島・沖ノ島など玄海沖の島嶼部とうしょぶまで加えて考えれば、倭国行動範囲の正に中心と言って良い位置取りでしょう。

 これが志賀島に金印が安置された理由ではないでしょうか。


 さて、古代日本(とアジア諸国)では中国の皇帝から王として認められる事が、国の正統性を示す基盤であったわけですが、これは同時にその時代の中国皇帝の支配下に入るという事でもありました。(これを冊封体制さくほうたいせいと言います。)

 飛鳥時代あすかじだいになると、日本では中国(その時代はずい)の勢力下からの独立・脱却を目指します。


 厩戸皇子うまやどのおうじ(聖徳太子)が、607年の第二回遣隋使で煬帝ようだいに宛てた国書がそれです。

 有名な「日出処の天子、日没処の天子に書を致す。つつが無きや……」で始まる手紙ですね。

 「皇帝とその配下の王」という立場ではなく、「皇帝対皇帝」という対等の立場で外交を行おうとしたわけです。

 煬帝は激怒しましたが、高句麗と戦争中の隋には日本を攻める余裕は無く、『倭皇』宛の返書を送ってきています。


 まあ、この返書問題には色々と議論があるようですが、この時をもって少なくとも日本側としては国内的に「漢委奴国王」印も「親魏倭王」印も、全ての力を失ったという事が言えるでしょう。

 残ったのは歴史的な価値だけ。何の権力の後ろ盾も保証するものでは無くなりました。

 明治新政府が出来て、あおい御紋ごもんの効力が無くなったのと一緒ですね。

 ですから、力を失った二つの金印は、その保管場所を忘れ去られて行ったのでしょう。


 ――ただし、それを祀っていた一族を除いて。


 漢委奴国王印が志賀島で発見されたのは、1784年のことです。

 発見したのは志賀島の農民とされていますが、鑑定をして漢の光武帝が奴国に下賜したと『後漢書』に記載されている金印だと結論したのは『亀井南冥かめいなんめい』という、お医者兼学者さんです。学者としては儒学じゅがくという中国の古典を講義する私塾しじゅくを開いておりました。

 亀井南冥は室見川の河口に近い、西区 姪浜めいのはまで村医者の息子として生まれています。

 福岡藩(黒田藩)のお抱え儒学者として『甘棠館かんとうかん』という藩校の学長になったのが、金印が見つかったのと同じ1784年。

 現在、修猷館しゅうゆうかん高校に成っている藩校『修猷館』が出来たのも同じ年ですね。ちなみに修猷館の方の学長は竹田定良という、こちらも儒学者です。

 甘棠館が西学問所と呼ばれて、儒学の中の徂徠そらい学を講義していたのに対して、修猷館は東学問所と呼ばれていて、同じ儒学の中でも朱子しゅし学を講義していました。


 さて、そこで亀井南冥の金印の問題が出て来ます。

 彼が甘棠館の学長に就任したのと同じタイミングで金印が発見されたというのは、あまりにも都合が良すぎるのではないか、という疑問ですね。

 ――上級武士の子弟が通う修猷館に対抗するために「世紀の大発見」をして、甘棠館の優位を決定付けようとしたのではないか?

という疑惑です。

 漢委奴国王の金印が、精巧に作られたニセモノなのではないかという偽物ぎぶつ説の出発点でもあります。


 けれども修猷館の竹田定良も(亀井南冥には遅れますが)ほぼ同様の鑑定結果を出していますし、『蛇の形をしたツマミ(紐帯ちゅうたい)』の形状や、金印に含有されている微量元素の組成比など、現在の知識でしか知り得ない情報からも、江戸時代には偽造する事が不可能であるのが分かって来ています。

 (このへんの詳しい内容は、博物館が公開討論会の催しを開いたりしていますから、興味があれば参加する事をお勧めします。)


 仮に偽造したのだとするならば、亀井南冥は「製作年時や出来上がり形状がほぼ同じな」別の金印を入手して、その金印の形を真似まねた上に鋳潰いつぶして材料とし、文字部分だけを漢委奴国王と差し替えるという方法でしょうか。

 例えば『親魏倭王』の金印ですね。


 だから亀井南冥一派が、細石神社に親魏倭王印が祀られているのを知っていたのなら、親魏倭王印を持ち去って漢委奴国王印を偽造出来る可能性が無いわけではありません。


 ……けれども、この様な行為が行われたとするのは、あまりにも非合理的過ぎ。

 親魏倭王印ならば、親魏倭王印として公表すれば良いだけなのですから。

 邪馬台国の場所がどこだったのかという問題は、既に歴史家の間では興味の対象となっていましたから、「那の津=奴国」というほぼ確定済みの説の証拠品を「発見」するよりも、親魏倭王印を発見することの方がインパクトは大きい。学者としての実績も増すというものです。


 そう考えると、亀井南冥が秘匿ひとくされた金印の場所をあらかじめ知っていたとしても、それは漢委奴国王印の方であり、親魏倭王印ではなかったのだ、と考えることの方が合理的でしょう。


 では南冥が、志賀島の金印が埋められている場所を何時知ったのか? という問題ですが、これは西学問所(甘棠館)の学長に就任する事が決まった時だと推理出来ます。

 南冥は黒田藩のお抱え儒者になる前から、長崎や京都に遊学ゆうがくしたり私塾を開いたりしています。医者兼儒学者として、そこそこの名を成していたと言っても良い。

 ですから、金印の埋蔵場所を知っていたのなら、この時点で発表して有名人の仲間入りをしていたとしても、別におかしくはないのです。

 「学長就任のタイミング≒金印発見のタイミング」になったのは、志賀島の金印を祀っていた一族から、南冥が学問所の学長に就任が決まった時点で、リークされたのだと思います。

 リークした人物は、儒者としての南冥の門下生だったかも知れないし、医者としての南冥の患者かも知れません。あるいは、姪浜出身の親の代からの知り合いだったのかも。


 さて、それでは細石神社の金印(仮にそれが本当に存在したのなら)は、どこへ消えてしまったのでしょうか。


 亀井南冥が漢委奴国王印を発見した1784年の6年後、江戸幕府では老中の松平定信まつだいらさだのぶらが「寛政異学の禁」という制度を実施します。

 これは幕府の昌平坂しょうへいざか学問所で、朱子学以外の学問の講義を禁止するというものです。

 一応、幕府内部限定での政策ではあるのですが、他藩に影響が無いはずもなく、福岡藩では徂徠学の亀井南冥が失脚するという結果が生まれます。


 また全国的な学問の流行が、本居宣長もとおりのりながら国学者の台頭たいとうにより、聖徳太子以前の古代日本が、中国の冊封下にあったという「考え方の否定」が始まります。

 別にローマ帝国の版図はんとだった過去があるからといって、今のドイツやフランスが、イタリアの属国ではないのと一緒で、奴国や邪馬台国時代の日本が、漢や魏の冊封を受けていようと気にする必要は無い気がしますが、国学者にとっては大きな問題でした。


 このような時代背景の中では、既に公開情報になっている漢委奴国王印はともかく、親魏倭王印は存在の危機にあったと言えるでしょう。

 もし見つかったとすれば、歴史的意義は理解されたとしても、国学の過激な信奉者しんぽうしゃにとってみれば、立派な攻撃対象と成り得ます。


 ですから、分かり易い神社の神殿から「もっと見つかり難い場所へ」と移動させられたとしても、何の不思議もありません。

 そこが何処かと訊ねられても、分かりませんとしか答えようがありませんけれどね。


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