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side B5)『漢委奴国王』金印について (ふくおか県民質問掲示板から)

●Q:福岡市博物館にある金印が、邪馬台国やまたいこく卑弥呼ひみこに贈られた金印よりも古いものだというのは本当ですか?

 質問者)冒険者 福岡市城南区鳥飼 小4


 日本で一番古い国は、卑弥呼の邪馬台国だと思っていたのですが、志賀島しかのしまで見つかった金印にってある「」の国あるいは「委奴いと」の国は、邪馬台国に贈られた『親魏倭王しんぎわおう』の金印の時代より前だと書いてある本を読んでビックリしました。

 本当なのかどうか教えて下さい。

 また、卑弥呼の金印が埋まっていそうな場所があるのなら、ヒントで良いので教えて下さい。



●A:本当です。

 回答者)ぬらりひょん 福岡市中央区薬院 爺


 後漢朝ごかんちょうの皇帝「光武帝こうぶてい」が、奴国に金印をさずけたのは西暦にするとAD57年である事が、後漢の歴史を記した『後漢書』という本に出て来ます。


 一方、卑弥呼の金印の話が出て来る本は『三国志』の中の『魏書ぎしょ』の中の『烏丸うがん鮮卑せんぴ東夷とうい伝』という部分です。

 更に少しだけ詳しく言うと『烏丸鮮卑東夷伝』の中の『倭人条』と呼ばれる部分です。


 『三国志』とは、劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょう曹操そうそう孫権そんけんが活躍するあの三国志だから、冒険者さんも本やマンガで読んだりゲームで遊んだ事があるかもしれませんね。

 作者は陳寿ちんじゅという人です。


 卑弥呼に金印をさずけたのは、曹操の孫で魏朝の二代目皇帝である「曹叡そうえい」という皇帝です。(一代目の皇帝は曹操の子供の「曹丕そうひ」です。)


 曹丕の時代には、中国の遼東りょうとう半島付近や朝鮮半島北部には公孫こうそん氏という勢力が居て、倭国と魏の間の交通ルートは閉ざされていました。

 曹叡は司馬懿しばいを攻撃に向かわせて、AD238年に公孫淵こうそんえんを滅ぼします。

 これで卑弥呼は魏に使いを送ることが出来るようになったのですが、曹叡はAD239年に病気で亡くなっています。

 ですから卑弥呼が金印をもらえたタイミングは、公孫淵が滅んで曹叡が亡くなる前に限定されますから、AD238年後半から239年初頭だと考えて良いでしょう。


 中国の王朝は

 ○漢(後漢)AD57年『漢委奴国王』

  ↓

 ○三国時代(魏・蜀漢しょくかん)AD238~239年『親魏倭王』

  ↓

 ○しん

と、うつりかわりましたから、卑弥呼の金印よりも博物館にある金印の方が古いのは間違いなさそうですね。


 あと卑弥呼の金印がどこに眠っているのかですが、これは見当もつきません。

 邪馬台国のあった場所は、近畿地方説や九州説などたくさんあり過ぎて、アドバイスらしいアドバイスが出来ません。ごめんなさい。



●A:推理小説家が書いた本に、面白い説が載っていますよ!

 回答者)ミステリマニア 大分県宇佐市 主婦失格


 邪馬台国の場所を考えるのには、歴史学者の書いた論文を勉強するのが正しいのかもしれませんが、物語として読むのなら推理小説がだんぜんオモシロイです。

 私のオススメは高木彬光たかぎあきみつの『邪馬台国の秘密』ですね。

 その本で、どこを邪馬台国の場所と限定したのかはネタバレになるからここには書けませんが、その代わりに私が大胆に推理してみましょう!(単なる空想ですけどね。)


 まず魏志倭人伝に書いてあることからほぼ確定的なのは、奴国(福岡)までのルートです。


 朝鮮半島南部

  ↓ 海上1000里

 対馬

  ↓ 海上1000里

 壱岐(一大)

  ↓ 海上1000里

 唐津or松浦半島のどこか(末蘆 4,000戸)

  ↓ 陸路500里

 糸島(伊都 1,000戸)

  ↓ 陸路100里

 奴(博多=那の津 20,000戸)

  ↓ 陸路100里

 不弥(? 1,000戸)


 朝鮮半島~対馬~壱岐~松浦までの海上ルート部分は「1,000里で統一」と、かなりいい加減ですが、遠い島影を見た時のおおよその距離感からの推察でしょうから仕方がないかな?

 (実際に「松浦半島~壱岐」「壱岐~対馬」「対馬~釜山ぷさん」は肉眼で見る事ができます。)


 それに比べると、陸路部分はやや正確だと言えるでしょう。

 歩いて、その歩数から距離を出すことができますから。(歩測ほそくと呼ばれる方法です。)

 そうなると、奴国(博多)から東へ100里にある不弥ふやも、糸島から那の津ほどの距離感の場所に間違い無く在ったと考える事が出来ます。


 『不弥』は宇美うみ(名前が似ている)とか須恵すえ(須恵器という弥生式土器の出土地)のあたりと考えられている事が多いようですが、宇美は博多から直線距離で10㎞くらいだし、須恵は8㎞ほどの距離です。


 さて、それでは「末蘆~伊都~奴」間の距離が実際にはどのくらいであるかを検証してみましょう。

 まず末蘆~伊都間です。

 JR唐津駅の西2㎞に『菜畑遺跡』があるのですが、この遺跡は日本最古の水田耕作地遺跡です。ですからJR唐津駅を末蘆の出発点とします。

 またJR波多江駅の近くには、『細石さざれいし神社』や平原遺跡群があり、伊都の中心地であったと考えられていますので、JR波多江駅を末蘆~伊都間の到着点とします。

 するとJR唐津駅~JR波多江駅間の距離は、国道202号線経由で33.4㎞。

 末蘆~伊都 500里≒33.4㎞から、1里=67mとなります。


 次に伊都~奴間です。

 伊都~奴国は100里ですから、奴国の位置は1里=67mとするならばJR波多江駅から6.7㎞の場所になります。

 JR波多江駅から202号線を「東へ6.7㎞進む」と何処どこへ到着するでしょうか?

○JR波多江駅→JR今宿いまじゅく駅  4.9㎞

○JR波多江駅→JR下山門しもやまと駅 9.7㎞

○JR波多江駅→地下鉄藤崎駅 13.9㎞

○JR波多江駅→JR博多駅 19.7㎞

です。


 JR博多駅を参考に上げたのは、駅周辺に『住吉神社』(筑前国一宮)や『櫛田くしだ神社』(博多総鎮守)があるからです。

 唐から帰って来た弘法大師(空海)が造った『東長とうちょう寺』や、人魚の骨をまつっているという『龍宮りゅうぐう寺』もこの近くです。奴国の中心部はこのあたりであると考えてもよいのではないでしょうか。

 昔の迎賓館げいひんかんであった『鴻臚館こうろかん』の場所を奴国の中心部だったとしても、鴻臚館跡があるのは後に福岡城が築かれた大濠公園の横の台地ですから、距離的には藤崎駅ー博多駅の真ん中くらいで、波多江駅からは16㎞少々。


 波多江駅から6.7㎞だと「長垂ながたれ海岸」の砂浜と「生きの松原海水浴場」の砂浜との間、峠越とうげごえの道になる「長垂峠ながたれとうげ」付近になってしまいます。

 これはちょっと違うような気がしませんか?


 それでは逆に、博多駅~波多江駅間19.7㎞=100里を基準に考えてみましょう。

 すると1里≒200mとなります。

 唐津駅~波多江駅を基準にした場合の、3倍!

 すると末蘆はJR唐津駅よりももっと西になって、波多江駅から100㎞ほどの場所!

 国道202号線を歩けば

○JR波多江駅→伊万里いまり駅 54.3㎞

○JR波多江駅→たびら平戸口ひらどぐち駅 87.3㎞

ですから、末蘆国は平戸ひらど島?


 たしかに平戸島は昔からの海外貿易の拠点で

○平戸~宇久うく島・小値賀おじか島~中国 寧波にんぽー

は交易ルートでした。

 二度目の元寇(弘安の役)のときの江南軍の侵攻ルートも

○寧波→平戸→鷹島たかしま(伊万里湾)

ですから、平戸島が末蘆国であっても不思議はありません。


 そこで『魏志倭人伝の1里≒200m』『末蘆国は平戸』『伊都国は波多江』『奴国は博多』であるとしましょう。

 すると「不弥国の位置は博多駅から20㎞」の場所という事になります。

 もし宇美や須恵を不弥国だとするならば、魏志倭人伝には「陸路50里」と記されていなければならないはずです。文字通りに「東へ20㎞」だと、飯塚いいづか周辺が不弥国であるはず(かなぁ?)

 少し北側にずれて20㎞ならば、火を噴く馬の壁画で有名な「竹原古墳」や都市伝説スポットの犬鳴峠がある宮若市も候補に入れても良いのかも。


 けれど私は、個人的には津屋崎つやざきが不弥ではなかろうか、と考えています。

 不弥≒津屋(崎)とも読めますし、津屋崎は昔は「津屋崎千軒つやざきせんげん」と言われるほど、栄えた街だったからです。

 方角的には福岡の北東にあたりますが、『奴国』から陸路を東向きに「海岸沿いを進めば」およそ20㎞の位置にあるのが津屋崎です。

 飯塚に向かって八木山峠やきやまとうげを越えるとか、宮若に向かって犬鳴峠を越えるよりも、歩き易いルートと言えるでしょう。

 しかも那の津から津屋崎ルートなら舟を使う事も出来ますし、一部だけ陸上を通るショートカットの裏技もあります。自動車や鉄道の無い時代には、舟は便利で楽な交通手段ですからね。

 歩ける道があっても、お金に困らない立場なら舟を選ぶ事もあるでしょう。


 福岡から津屋崎までは、海上ルートをたどろうとすると、長大な砂洲さすである「海の中道なかみち」と陸繋島りくけいとうである志賀島しかのしま(「漢委奴国王」金印の出土地ですね!)を回り込まなければなりません。

 ですが、海の中道の付け根部分である和白~新宮しんぐうもしくは奈多なた間を陸上ルートを使用してショートカットすれば、和白~新宮(陸路)4㎞、新宮~津屋崎(舟)10㎞となります。

 陸路を100里(20㎞)歩き切るより楽チンです。


 同じように、「唐津→糸島半島 加布里かふり」「糸島半島 今津いまづ→博多」も陸路と舟とを併用していた可能性もありますね。

 加布里まで舟でやって来て、波多江(伊都国)で一休みして、今津湾(瑞梅寺川河口)から那の津の港まで舟に乗る。

 歩けば唐津~加布里間が27.9㎞(140里)ですが、そこは舟で楽をする。

 加布里で陸に上がって波多江まで5.6㎞の歩き(徒歩28里)。

 波多江から今津の港まで5.7㎞の歩き(徒歩29里。)という具合です。

 このルートを選べば、長垂峠や日向ひなた峠を越える必要もありません。

 今津から那の津の海上ルートは、玄海島や能古のこの島、それに志賀島と海の中道に囲まれた穏やかな内海ですから小舟でも直線的にショートカット出来ます。


 また頭に入れておかなければならないのは、壱岐~那の津間は直接舟で行き来できるという事です。

 元寇(文永の役)が起きた時には、壱岐の守護代 平景隆たいらのかげたかの家臣 宗三郎が、小舟で海を漕ぎ渡って『博多に』到着して元軍の襲来を報告しています。

 壱岐を出発した船が博多に入るには、必ずしも平戸や鷹島、そして唐津の全てを経由する必要はありません。

 むしろ壱岐から九州に向けて出航した舟は、風向きや潮流ちょうりゅうの影響で、平戸・松浦半島・糸島半島・博多湾・津屋崎方面の、いずれかの海岸に到着すると考えればよいのではないでしょうか。

 そして到着した海岸からの各『国』への距離が

末蘆ー(500里)ー伊都ー(100里)ー奴ー(100里)ー不弥

と記してあるとするわけです。

 どうですか。うまく辻褄つじつまが合っているような気がしませんか?


 問題はこの先です。魏志倭人伝の記述が急にメチャクチャになります。


 不弥(が起点?)

  ↓ 南に「水行20日」

 投馬 (推定50,000戸)

  ↓ 南に「水行10日 陸行1月」

 邪馬台 (推定70,000戸)

  ↑ 南(国境を接する)

 狗奴 邪馬台国と戦争中


 (変な点1)これまでは、『移動距離と方角』で書いたあった国の所在地が、『移動日数と方角』の表記に変化します。

 (変な点2)これまでは「有」と断言口調で書いてある各国の人口(戸数)が、「可」と推定値に変化します。

 (変な点3)不弥国を、津屋崎・宇美・須恵・飯塚のいずれかにしたとしても、南の方角に海は有りません。宇美・須恵・飯塚は内陸です。津屋崎からだと北と西が海ですね。


 さて、それでは『変な点が出て来てしまった理由』を考えてみましょう。

 これは簡単に説明がつきますね!

 それまで「キログラム・メートル」で書いてあった本が、急に「ポンド・ヤード」と異なる単位での記述をし始めたなら、それは『作者が替わった』か『作者がネタに使っている本が替わった』のどちらかで間違いありません。

 単位の混用は学生の課題レポートならば、不合格点しかもらえないような凡ミスだと言えるでしょうが、仮に正式なネタ本があって、ネタ元を忠実に記載し直すためでの混用ならば、それはアリです。(でも本当なら、どちらかに寄せた単位を使い、変更後の部分のみを参考値として両方の単位で記述するべきではありますが。)


 ですから三国志の作者 陳寿は、魏志倭人伝で倭国の事を書く時に

○対馬ー壱岐ー末蘆ー伊都ー奴ー不弥

間のルートにおいては、『漢委奴国王印を奴国の使者にさずけた後漢朝の記録』を参照し

○投馬ー邪馬台ー狗奴

間の位置関係においては、『親魏倭王印を邪馬台国の使者にさずけた魏朝の記録』を用いたのでしょう。

 陳寿は晋の時代の人です。


 後漢朝 光武帝の時代は、漢朝の力が強く安定した時代であったため記録も正確で、それに比べれば魏朝 曹叡(明帝)の時代は呉や蜀と戦いながら、ようやく公孫淵を滅ぼしたころですから、報告内容もイイカゲン(といっては言い過ぎかもしれませんが、報告者の言うがまま)なものしか無かったのかも、です。


 一方、奴国や邪馬台国に向けて出港する出発点としての朝鮮半島南部方面の状態がどうだったかというと

○南海岸:弁韓べんかん任那みまな

○西海岸:馬韓ばかん百済くだら

○東海岸:辰韓しんかん新羅しらぎ

と分かれていました。


 中国の帯方郡たいほうぐんから出発する舟は、沿岸伝いに「南に東に7,000里あまりを進んで」狗邪韓国こやかんこくに到着するとのことですから、朝鮮半島西海岸を馬韓(百済)沿岸に沿って進み、半島南端で東に方向を変えて弁韓(任那)の狗邪韓国にまで進みます。


 『西暦57年ころの朝鮮半島西海岸ルート』

 帯方郡

  ↓

  ↓(百済沿岸)

  ↓

  ↓(任那沿岸)

  → → → 狗邪韓国

          ↓

          対馬

          ↓

          壱岐

          ↓

         (北部九州沿岸)

 平戸or伊万里ー(500里)ー糸島ー(100里)ー博多ー(100里)ー津屋崎


 それでは西暦238年ころの邪馬台国が、上に書いた西海岸ルートを通れなかったと仮定して、朝鮮半島東海岸を通って帯方郡に向かうにはどうするかを考えてみましょう。

 通れない原因としては

(ケース1)邪馬台国と戦争中の狗奴国が奴国と同盟している(あるいは同じ国)

(ケース2)百済or任那と邪馬台国の仲が悪い(この場合、「新羅とは仲が悪くない」)

が考えられるでしょうか。

(ケース3)新羅が任那・百済と戦争をしているから、新羅と仲が良い邪馬台国は西ルート通れないと言う場合も有り得ますね。


 なにしろ「漢委奴国王」の金印の時から200年ほど後の時代です。

 奴国連合が福岡平野だけの小連合から、背振せふり山地を越えた筑紫つくし平野全域(佐賀平野+筑後平野)にまで拡大していても不思議はありません。

 発見された時には、邪馬台国かって騒がれた「吉野ヶ里遺跡」があるのも筑紫平野ですね。


 『西暦238年ころの朝鮮半島東海岸ルートA』

 帯方郡東岸?(わいという国or地域)

  ↓

  ↓ (新羅沿岸)

  ↓ 南に舟で20日くらい

  ↓

 投馬国(50,000戸くらい?)~蔚山うるさんor浦項ぽはん

  ↓

  ↓ 『海北道中』沖ノ島・筑前大島経由

  ↓ 南に舟で10日くらい

  ↓

 上陸地点(国名不明の国or邪馬台国の北岸?)~宗像むなかたor遠賀おんが川?

  ↓

  ↓ 陸行1ヶ月くらい

  ↓

 邪馬台国(70,000戸くらい?)

  ↑ 南に隣接

 狗奴国


 「投馬国」を名前が似た感じの「対馬国」と同じだとすると


 『西暦238年ころの朝鮮半島東海岸ルートB』

 帯方郡東岸?(わいという国or地域)

  ↓

  ↓ (新羅沿岸)

  ↓ 南に舟で20日くらい

  ↓

 投馬国(50,000戸くらい?)=対馬

  ↓

  ↓ 『海北道中』沖ノ島・筑前大島経由

  ↓ 南に舟で10日くらい

  ↓

 上陸地点(国名不明の国or邪馬台国の北岸?)~宗像むなかたor遠賀おんが川?

  ↓

  ↓ 陸行1ヶ月くらい

  ↓

 邪馬台国(70,000戸くらい?)

  ↑ 南に隣接

 狗奴国


 ルートAでもルートBでも、壱岐を経由しないのであれば、『海北道中うみきたのみちなか』という、対馬北端+沖ノ島+筑前大島を目印(と避難場所)にする航路を採らねばならないので、到着場所は宗像~遠賀~戸畑付近としか考えられません。

 そもそも「水行 10日」なんて表記は、「舟で行ったら10日くらいかかるかなぁ?」という距離感なので、「なぎ待ち:海が荒れている時に時化しけが収まるのを待つこと」や「風待ち:帆掛け船がつごう良い風が吹いてくるのを待つこと」までを含んでいる表現だから、場所や季節によっての変化が大き過ぎるのです。


 また魏志倭人伝には、邪馬台国から魏に使いする船には『持衰じさい』という生贄いけにえのような神官が乗っていたと書いてあります。

 持衰は、航海が上手く運んだ時には沢山の褒美ほうびが貰えますが、失敗した時には殺されてしまうという役です。なんだか選ばれたくない役目ですね。

 糸島~壱岐~対馬~釜山ルートのように、次の目的地が見えているようなルートだと、あまり必要であるとは思えません。

 けれども宗像・遠賀~筑前大島~沖ノ島~(対馬北端)~蔚山ルートだと、特に対馬北端を経由せずに航行する場合には、陸が全く見えない大海原を進まなくてはなりません。筑前大島~沖ノ島間も、青天の日にはかろうじて見える程度で、海上にガスが掛かっていれば、目印(と避難所)無しで進まなければならない難所です。

 持衰が必要だとしたら、このルートを採用せざるを得なかったからだ、と考えられるような気がします。


 以上の事から、私は『邪馬台国の場所は宗像・遠賀・戸畑付近から陸上を南へ一ヶ月の場所』だと推理します。

 けれども『陸上を南へ一ヶ月』って、どのくらい進めるのでしょうか。

 奴国からならば、水城みずき→大宰府→鳥栖とす大牟田おおむたと、どんどん進んで熊本かもしかしたら鹿児島の方まで歩いて行けるのかも知れませんが、遠賀川伝いに南へ進むのなら

芦屋あしや(遠賀川河口)→中間なかま鞍手くらて直方のおがた「芦屋から19㎞」

田川たがわ「芦屋から35㎞」→添田そえだ英彦山ひこさん「芦屋から59㎞」

で打ち止めです。

 英彦山山系の高い山を越えれば、筑後川流域に出て朝倉―うきは―日田ラインは既に狗奴国の勢力範囲だったのでしょう。(邪馬台国は南で狗奴国と接しています。)


 奴国連合(or狗奴国)が、後の「対馬+壱岐+筑前+筑後+肥前(対馬+壱岐+福岡平野+筑後平野+佐賀平野+松浦半島)」(これに加えて朝鮮半島南端部の狗邪韓国)であるのに対して、邪馬台国は「豊前ぶぜん(直方平野+中津なかつ平野)」だけと劣勢です。朝鮮半島の友好国である辰韓からも、船で10~20日と遠く離れている。


 卑弥呼としては、『漢委奴国王』印を持つ奴国連合に対抗するには、国力を「陸行1月 70,000戸」の大国であると誇張して『親魏倭王』印を授けてもらうしか無かったのでしょう。

 魏では戦果を大きく報告する行為が認められていましたから、それにならって国力も大きく報告されたのかも知れません。魏にとっては、久しぶりの倭からの使者になるわけですからね。

 あるいは『漢委奴国王』印の時代よりも200年ほど後の時代ですから、日本列島でも人口爆発が起きていたのかも。それまでには奴国連合の方でも人口が増え、奴国一国だけでも20,000戸→50,000戸以上になっていたのかも知れませんし。


 卑弥呼にとって幸運だったのは、奴国連合の内で福岡平野の諸豪族は、邪馬台国と敵対はしている(同盟はしていない)が、それほど好戦的では無かった事でしょうか。

 福岡平野と直方平野は「三郡さんぐん山地」で隔てられてはいますが、ここの山々は英彦山山系ほど険しくはありません。八木山やきやま越え・しょうげ越え・猫峠・犬鳴越えと、両平野を繋ぐルートも複数存在します。

 これら複数の侵攻ルートから連合軍が一気に乱入すれば、邪馬台国は簡単に滅びていたかもしれません。

 けれども魏志倭人伝に「伊都国は女王国に属する」と書いてありますから、交通の要衝である伊都国には邪馬台国の外交官が駐在していた可能性もあります。

 壱岐・対馬ルートや沖ノ島ルートで救助された互いの国の船乗りを『捕虜交換』する場所として。

 そんな中立地点が有ったら、邪馬台国側としては魏に報告する時に、中立地点ではなく「邪馬台国の支配地である」と大げさに言ったのではないでしょうか。(なにしろ奴国側には邪馬台国の誇張を知る方法はありません。)


 一方で、あまり邪馬台国と戦争をするつもりが無い福岡平野勢力とは違い、筑後平野や佐賀平野など有明海周辺勢力(ここには熊本平野の勢力を加えてもいいのかも)は、邪馬台国を滅ぼす事で、玄界灘げんかいなだ周防灘すおうなだの、両方の外海へのルートが開けます。

 朝鮮半島・本州・四国へのルートですね。朝鮮半島へのルートは壱岐・対馬経由で代替えが利きますが、本州・四国への海路を確保出来るのは大きい。

 本州・四国ルートの利権を自分の手で握ろうと思えば、福岡平野勢力の手は借りない方が分け前もデカい。

 その有明海勢力の代表が『クコチヒク(菊池彦?)』だったのではないでしょうか。菊池という土地は熊本平野の北部にあります。

 奴国連合の中の、有明海周辺勢力から有志連合を募り、朝倉・うきは方面から東峰村とうほうむらへ攻め上ります。

 東峰村を陥落させれば、川沿いに嘉麻かまへ進出し、直方平野を南西方向から順次攻略するという戦略でしょう。

 嘉麻占領後は、添田そえだ赤村あかむらを落とせば、邪馬台国に二つある平野部の「直方平野と中津平野」を分断出来ます。

 邪馬台国側にすれば、東峰村と嘉麻の防衛が生命線で、この二つをクコチヒクに取られたら

○嘉麻→桂川けいせん→飯塚→小竹

○嘉麻→添田→赤村

の二つの敵進撃ルートに兵力を分割しなければならなくなります。

 そして赤村を失えば、直方―中津の連絡も取れなくなり、いつ滅亡しても不思議はない状態になります。


 ですから『邪馬台国対クコチヒクの戦争』は

○東峰村をめぐる山岳戦

○クコチヒクHQ:朝倉 邪馬台国HQ:嘉麻

という戦いであった可能性があります。


 そうなると邪馬台国の中心(首都)は、仮に当初置かれていた場所が

○直方平野の中心に位置している

○遠賀川の水運が有効活用出来る

という2点から『中間』『直方』辺りであったとしても、クコチヒクと戦争をする都合上は『田川』にまで移動させざるを得ないと考えられます。


                 直方(旧首都)

                 ↓

(大宰府・大野城方面)→×←桂川←田川(新首都)→赤村→(中津平野)

 クコチヒク助攻部隊       ↓       撤退ルート

                 嘉麻

                 ↓

                 東峰村

                 ↓

                 ×

                 ↑

             (朝倉・うきは方面)

              クコチヒク主攻部隊


 田川で敗北した場合の邪馬台国側の撤退ルートを、旧首都の直方方面ではなく、赤村経由の行橋・中津平野方向としたのは

 田川→直方→中間

という遠賀川沿いの退却では、勢いに勝る敵を阻止する防衛ラインを築き難いからです。


 なぜなら東峰村・田川で邪馬台国が負ければ、戦意に乏しい福岡平野の奴国連合構成勢力も

○博多・和白・新宮―(海上+海岸平野)→宗像・中間・芦屋

○博多―(犬鳴峠)→宮若

○博多・須恵―(八木山峠)→飯塚

○宇美・須恵―(しょうげ越え)→飯塚

と進撃を開始するでしょう。

 部分部分では優勢が保てたとしても、一点でも突破されれば直方平野は瞬く間に分断されて、邪馬台国VS狗奴国の戦いは、攻防戦ではなく殲滅せんめつ戦・掃討そうとう戦となります。


 東峰村・田川で邪馬台国が敗北した場合でも、降伏せずに抵抗を続けたければ、直方平野は放棄して赤村経由で中津平野に逃れ、途中の山岳部に防衛陣地を設置する一手です。

 このルートならば、クコチヒクも一度に大軍を投入することが出来ませんから、東峰村をめぐっての山岳戦と同じような戦いに再度持ち込む事が出来るわけです。


 以上の事を踏まえて

○邪馬台国は直方平野である

○クコチヒクとの戦争の戦略上から首都は田川に移動した

とすると『卑弥呼の墓は田川のどこかに在る』し『親魏倭王の金印も田川にある』と結論します。


 ま、推理小説好きの空想だから、本気にはしないでね!


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