かみのいと
Mは大学の講義中、とつぜん教授に名指しされた。
「Mさん。授業が終わりしだい私の研究室へ来なさい」
なにも思いあたるふしがなかったMは首を傾げたが、とうの教授は何事もなかったかのように講義を再開した。
「はて」とMは思った。「いったい自分がなにをしたのだろう。てんで検討がつかないな」
そのままMは茫然と教室の外を見やった。青空に黒い塊が空を飛んでいる。はじめカラスか何かの鳥だろうと思ってMは眺めていたが、よく見ると、それは翅のはえた蜘蛛の群であった。空飛ぶ蜘蛛だった。
「そもそもこの世の常識なんて脆いものだよね」と空飛ぶ蜘蛛を見てMはまた思った。「ちょっとばかしの意外な事柄なんて一笑に付すくらいの価値しかないんだよな」
教授はただ機械的に授業をすすめている。そんな姿を見てMは、
「さっさと面倒なことは片付けてしまいたいものだなあ」とつぶやいた。
授業後、Mは云われた通り教授の研究室へ行った。けれど、いくらノックをしても一向に反応がないので、思い切って、無断でドアを開けてみた。部屋の中はMの予想に反して机しかない殺風景なものであり、しかも窓はひとつもなかった。ただ天井の蛍光灯だけが光源となっている。さらにきついアンモニア臭が充満していて、それが執拗にMの鼻をついた。
「自分を呼んでおいて不在だなんて。あんまりだよ先生」
すると教授が突如Mの後ろに現れた。振り返る隙も与えず教授はMを押し退けると、怪訝な面持ちでMを一瞥し、机の上に音をたてて尻を置いた。そして毒を吐くかのように、
「君には失望した」とだけ云った。
「何をおっしゃいますか」Mは動じることなく訊き返した。「まずは要件をおたずねしたいのです。どうして自分を呼んだのですか」
教授は軽蔑の眼差しをMに向けて、
「君は『数学科』の代数学の試験で不正行為をした。もうすべて判っているんだ」と云った。Mはまったく思い当たることがなく、否定すらする気になれなかった。けれども教授は畳み掛けるように、
「白状したまえよ。 なにきょとんとした顔をしているのかね。とぼけたって無駄だよ。すべて判っているのだから」と語調を少し荒げて話した。
Mは怒りよりも強い脱力感に襲われた。そして芝居がかった溜息をひとつだけつくと、
「自分は『哲学』専攻で『数学科』とは縁もゆかりもございません」と云った。そして教授に応答がないように見えたので、
「何かの勘違いでしょう」と付け加えた。
しかしMの言ったことが聞き入られることはなく、教授は不明瞭な言葉で攻めてきたので、結局しずしずと研究棟をあとにするはめとなった。そして不正行為の申し開きと教授の言動を訴えるため、Mは教務部へむかうことにした。その際、
「嫌だなあ」とMは独りごちた。「教務部の職員は苦手なんだよなあ」
Mは俯いたまま、キャンパス内を静かに歩いた。多くの学生の行き交う気配が、Mの肌を通してひしひしと伝わってくる。Mは周囲を見渡すことこそしなかったものの、不自然なくらい多くの目線を感じた。
「みんなは自分を『ヘン』な存在として見てるのかな」とMは思った。
教務部の職員はMの期待を悪い意味で裏切らなかった。職員は嫌みったらしい語調で、
「君は自分のやったことを分かってるのかい。 カンニングだよ」と云った。
Mは職員を睨みつけて、
「自分は知りません」と毅然と応じた。「濡れ衣です」
「嘘だ」と職員は云った。
Mはそれを無視して話しつづけた。
「いい加減その態度を改めていただけませんか。失礼ですよ」
「だまりなさい」と職員は怒鳴った。「そもそも君は『ここ』の学生ではないんだ。試験の不正行為の処分だって君の本籍の大学ほど重くはないはず。はやく認めたらどうだ。そこのところ分かってるのかい」
Mは文字通り眼を丸くして、
「あなたは気でも狂ったのではないでしょうか」と抗議した。「自分は『ここ』の学生ですよ」
そしてMは嫌味ったらしく、挑発の意味も込めて笑みを浮かべた。教務部の職員はむっとした素振りを見せると、学生証を見せなさいと云った。とくに拒む理由もなかったMは、財布からそれを取り出し、彼に提示した。
すると職員はほくそ笑んで、
「ほうら、やはりな」と云った。「君もしっかりとみたまえ。この学生証の文字が読めるかい。Q女子大学と書いてあるじゃないか。『ここ』の大学はN大学だよ」
「そんな。なにかの間違いでしょう」さすがにMは青ざめた。しかし無情にもMの学生証には職員が言ったとおり「Q女子大学」の字面が並んであった。しかもMの顔写真付きで。
「いや、まてよ」とMは自問した。「多分、自分は男だ。男たる自分が、女子大学に入学できるわけないじゃないか。この学生証は何かの間違いだ」
そしてMはさすがに感情を爆発させて、
「自分は男です。自分はN大学人文学部人文学科哲学専攻のMです。学生番号は――」
すると職員はMを遮って、
「君は頭がおかしい」と云った。Mは「あなたこそ」と反駁した。が、その時、思わぬ珍客で彼らの応酬合戦は幕引きとなった。翅付き蜘蛛の大群が教務部の窓にぶつかり始めたのである。
「ここで巣を作られたらたまらないな」
職員は何事もなかったかのようにMから離れると、しきりに窓を叩いて翅付き蜘蛛を威嚇しはじめた。完全に放置されるかたちとなったMは、またひとつ溜息をつくと、ひどい頭痛を感じたので勝手に教務部を去ることにした。
あてもなくMはキャンパス内をぶらついた。そして相変わらず多くの人間の視線を感じた。教務部の職員が云った通り自分の頭がおかしくなったのではないかとも思われた。ふとMは顔を上げると、見知らぬ学生の集団と眼が合った。そこでようやく多くの視線を感じる理由を突き止めることができた。それはつまり、今日のN大学にいる学生達の眼の数が、いつもより『ひとつ』多くなっていたということだ――すなわち学生達が三眼になっていたのである。Mは周囲を挙動不審に見渡した。案の定みんな三眼になっていた。Mは自分も三眼になっているのではないかという疑心を抱き、額あたりに手を当ててみたが、幸いにも二眼のままであるようだった。
そんな時たまたまMの知り合いのSとそこでばったり出くわした。彼もまた三眼になっていた。
「どうして今日はみんな眼がひとつ増えてるのだろう」とMはSに訊いた。
「眼は多いに越したことはないからじゃないか」とSは真面目に答えた。Mはなるほどと云って彼と別れた。
Mは空を見上げた。翅付き蜘蛛の群がいくつも確認できた。やけに多いなと感じた。するといきなり空が薄暗くなり、雨でも降りそうな気配が漂った、が、どうやらそういうわけでもないらしい。青空に浮かぶ白雲が黒色に変化しただけであるようだ。おそらく雲の群が蜘蛛の群に取って代わられたのだろう。
「雲が蜘蛛になっただけか」Mはつぶやいた。「雨の代わりに糸を垂らしかねないな。自分は神の垂らし給う恩恵を浴びたいものだけど」
MはもはやN大学に留まる理由を見失った。頭痛も激しくなってきたので、ひとまず下宿先へ帰ることにした。しかしMはいつまでたってもそこにたどり着けないことを悟った。校門に続く小道が延々と続いていて終わりが見えないのである。
「参ったな。これじゃあ帰れないよ」
かてて加えてMの頭上に粘性の糸がたくさん垂れてきた。翅付き蜘蛛の仕業だった。
「あいつらは自分を巣にするつもりなんだ。自分を素のままにするために」
けれどもMは抵抗しなかった。Mはただ上から降り注ぐこの糸を、受け入れなければならない神の意図であると感じとったからである。たとえそれが自分の受け容れたくない『イト』であったとしても。
「諦念」
Mは安らぎを感じながらそう云った。
(了)