第六十一話 帰還
「本当に、あなた様はお一神で来られたのですか?」
「そうだよ」
玲珠の質問に果竪は笑顔で頷く。
「王妃様」
「だって時間がなかったんだもの」
「時間って」
「だってそうでしょう? 神は人間界に降りるには強すぎる力を人間界に存在しても影響を与えないレベルまで力を封印しなければならない。でも、それには元の力が強ければ強いほど時間も手間もかかる」
確かに王妃の言うとおりだった。
「明燐も朱詩も、他のみんなも神としての神力は強大だからね~」
「……そうですね」
玲珠など足下にも及ばない強大な神力を内包し、苦も無く高位の術を幾つも操る凪国上層部。
彼らがこの世界に降りるとなれば、それこそ厳重に神力を封じなければならない。
「それに比べて、私の神力なんてたかがしれてるもの」
炎水界でも、かの世界を統治する炎水家を覗けば十指に入る神力の持ち主である凪国国王。
その妻である王妃の神力の弱さもまた、炎水界では有名だった。
人間に毛が生えた程度の神力しか持たぬ脆弱な王妃。
凪国国王に相応しくない、田舎者。
所詮は身分も地位もない、戦争孤児の娘と蔑む者達に玲珠は何度怒りにかられてその手を伸ばしかけたか……。
「でも、こういう時は儲けものだよね! 殆ど封印かけずに降りられるんだから」
「王妃様……」
ニコニコと笑う王妃に玲珠はがっくりと項垂れた。
「それに、誰にも何も言わずに降りてきたわけじゃないし」
「え?」
「異変に気づいた時にきちんと言い残したもの。『すぐに人間界に、神有家に降りるから』って」
「制止は」
「されたけど振り切りました」
ビシィっと親指を立てる王妃に玲珠は掌で顔を覆った。
きっと向こうは大騒ぎになっているだろう。
「玲珠、泣いてるの?」
「はは、はははは」
強大な神力。
それは神々の世界では羨望の眼差しだが、こういう時には邪魔以外のなにものでもない。
そしてそれを身をもって教えてくれた王妃は未だにキョトンと首を傾げている。
「けど、本当に間に合って良かったよ。それに、香奈ちゃんも安定したみたいだし」
「安定?」
「うん、見えなくなってたでしょう? へんなのが」
果竪の言葉に玲珠が先程の事を思い出す。
廊下を見ながら香奈が呟いた言葉。
「それは、どういう事ですか?」
「ん?そのままだよ。本来『そういうものが見えない筈』の香奈ちゃんが『見えていた』。それは本来の状態ではなくなりかけていたという事。つまり、不安定になりかけていたの。だからほら――半覚醒になりかけていたでしょう?」
「半、覚醒?」
そういえば、そんな事も王妃は言っていた。
あの時は慌てていてそのまま流したけれど、半覚醒とは――。
いや、そもそも王妃の香奈に対する接し方。
それは玲珠の中で渦巻きつつも押さえ込んでいたものを呼び覚ます。
「まさか」
それを口にしようとした玲珠の唇にそっと果竪の指が当てられる。
「お、おう」
「駄目」
それを口にしては。
「王妃様?」
「口にしないで。誰が聞いているか分からない」
知られてはならない。
気づかれてはならない。
だからこそ、力を振るう前に果竪は降りてきた。
自分とはまだ違い、『枷』として力を失ってはいない香奈。
いや、たぶん香奈は『枷』となった所で――。
果竪はそっと自分の手を見る。
果竪にもあった力。
終わりに連なる『果て』の力は、今はもう果竪にはない。
『完未』である愛する夫や仲間達の『枷』となった時点で、果竪からその力は消えてしまった。
「お願い、玲珠」
「……分かりました」
敬愛する王妃の言葉ならば玲珠は喜んで受け入れる。
だから、その懸念も全て心の奥へと潜り込ませていった。
「ありがとう――じゃあ、そろそろ行くね」
「行く?」
「ふふ、本当はまだ居たいんだけど――でも、もうそろそろ戻らないとね」
柔らかく、けれどどこか哀しげな笑みを一つ。
果竪は庭園に面した襖を開け放ち、外へと出た。
その後を、玲珠は咲を抱えると慌てて追い掛けた。
まだ悪しき者達が居る中で王妃を一神で出歩かせるわけには――。
けれど、庭園を彷徨いていた悪しき者達はまるで果竪を避けるように退いていった。
「王妃様っ」
「本当に間に合ってよかったよ。それに……香奈ちゃんにも会えて良かった」
目の前に迫る池。
本来ならば足を止める筈の水辺を進み、果竪はその池の真ん中に立つ。
「神有家が他の家と違う理由は沢山あるけど、その一つはこれだよね」
ふわりと風が生まれる。
果竪を中心に、生まれた風が悪しき者達を吹き飛ばしていく。
その背後に現れたのは――。
「玲珠、香奈ちゃんの事、頼むね」
「王妃様」
「今回の相手……ほんと~にえげつないから」
困ったように笑う果竪に玲珠は吹き荒れる風から守るように咲を抱き直す。
「神有家は人間界の要の一つ。決して落としてはならない牙城であり、柱」
果竪はそっと視線をずらす。
そこに居たのは――。
「ばいばい、またね」
昔とは違うけれど、それでも果竪は大きく手を振る。
王妃として生きるようになってから初めて得られた、平凡な少女としての幸せ。
普通に学校に行き、普通の少女のように暮らすことの出来たまほろばの時間の中で出会った――友人達。
その友人達が愛して止まない娘の危機に降り立ったけれど、それ以上に果竪自身の為に降りた。
大切な大切な、――の為に。
共に『終わり』の眷属神として生まれた、大切な末っ子の為に。
一番始めに『終わり』によって造られ長姉として生きていた『果無』が最も愛した――。
じゃり、と玉石を踏む音が聞こえた。
振り返る玲珠の目に映る佳人に果竪は笑いかけた。
「久しぶりだね」
完全に思い出したわけではないけれど、それでも彼の事は覚えている。
『果無』と一番仲の良かった『死安』をその手から奪った美しき女神。
『生』を司った彼女は、『死』を司る彼を奪った。
そして、『死安』を――に変えて鳥籠へと閉じ込めて子を孕ませた。
そんな彼もまた、果竪を知っている。
音もなく、優雅に一礼する彼に果竪は苦笑する。
変わらぬ美しさ。
変わらぬ瞳。
今生でもまた、彼女は彼となって香奈の傍に居る。
それでも、ずっと逃げ続けていた『果無』よりはマシか――。
助けたかったのに、逆に苦しませた事に罪の意識を覚えてひたすら逃げ続けた『果無』。
それをひたすら追い掛け続けた夫達の思いを知り、ようやく逃げる事を止めた果竪の最初の存在。
「とっても大変だと思うよ」
果竪はぽつりと相手に向けて告げた。
特に、今の香奈は――。
香奈がその道を受け入れるという事は、香奈から――を奪い去る。
そしてそれは、これからも生き続けられるかもしれないという香奈の微かな未来さえ摘み取るかもしれない。
でも、それを選ぶのは果竪ではない。
背後の扉が開く。
扉の向こうに、恐ろしい程に美しく、恐ろしいまでに神々しい何かが幾つも居る。
果竪の帰りを待つ者達が、居る。
「またね」
果竪はそれだけを言い残すと、静かに扉へと入って行く。
この人間界に幾つもの名家はあれど、これだけは神有家にしか存在しないとされる――その名は『門』。
それも、神の世界と人間界を繋ぐ『門』の向こうへと果竪の姿が消えていく。
そうして完全に姿が消えた後、二つの世界を行き来する神具が、ゆっくりと音を立てて閉まっていった。
「また会いましょう――女神『果竪』」
音もなく隣に立ち呟かれた柚緋の言葉にも顔を上げず、玲珠は静かに門の消えた池に頭を下げ続けたのだった。