第五十八話 カジュ
か、じゅ?
ズキンと、香奈の頭が痛む。
濃い靄の向こうで誰かが囁く。
『破魔大根……これで、カジュ様が、お義母様を助ける事が――』
誰?
幾重にも重ねられたヴェール。
その向こうに微かに映る人影にまた頭が痛む。
あなたは、誰?
カジュ?
かじゅ?
何かが、こみ上げてくる。
初めて聞いた名前な筈なのに、もう一人の香奈がそれを否定する。
思い出して――
囁くのは、もう一人の自分。
けれど思いだそうとすると頭痛が激しさを増す。
痛い、痛い。
思い出せない。
いや、それよりも今はするべき事がある筈だ。
新たに現れた存在がもう一人の香奈を押さえつける。
『香奈』が香奈を、押し込めていく。
今、あなたがやるべき事はただ一つ。
そう、だ。
『香奈』はカジュと呼ばれた相手から肉塊へと視線を戻す。
咲を、助けてあげなければ。
楽に死なせてあげなければ。
それが出来るのは、『香奈』だ――。
「やめて」
手首を掴む力が強さを増す。
強引に振り払おうにも、ビクともしない。
『香奈』と同じぐらいの見た目なのに、まるで成人男性並の力強さだ。
「ハナシテ」
「ううん、離さない」
穏やかな口調だがきっぱりと言うカジュに『香奈』の苛立ちが募る。
早く、早く助けてあげなければならないのに。
早く、早く死なせてあげなければならないのに。
「ドウシテ、ジャマスルノ」
「咲さんを死なせたくないからだよ。それ以外に何があるの?」
あっさりと言い切った相手に『香奈』は目を瞬かせる。
「モウ、シンデルモドウゼンなのに?」
「それでも死んでない。ううん、同然なんかじゃない」
「ドウゼン、オナジダワ」
「違うわ。生きてる。ほら、聞こえるでしょう?鼓動が」
カジュの言葉に、香奈は肉塊を見る。
今も脈打つ鼓動。
それが咲が生きている事を示している。
でも、それだけだ。
「コンナスガタニナッテイキテイルなんて言えない」
「香奈」
「イキテイルナンテイエナイ。シンデルモオナジ」
いや、咲は生きているとも死んでいるとも言えない。
既に意識はなく、ただ脈打つ肉の塊としてそこに在るだけ。
生きていない。
でも、死んでもいない。
それこそ、シンダホウガマシな状態。
だから、死なせてあげなければならない。
「シナセテ、あげなきゃ」
声が、蘇る。
――だよな、あんな状態で生きているなんてぞっとするよ
――しかも、凄まじい痛みらしいしな。それにもう意識もないとか
――俺なら無理だ。いや、誰だってあの姿で生きてくぐらいなら
アノスガタで、生きてくグライなら――
「死んだ方がマシだってみんな言ってる!!」
『香奈』の中の香奈の叫びに、ヨロヨロと咲に近づいていた玲珠が足を止める。
「死んだ方がマシなのっ」
涙が、止まらない。
「こんな、スガタ、こんな姿になって!私を守ろうとしたからっ」
「香奈……」
「咲さん、こんなんなっちゃったの! 私を守ってくれて、守ろうとしてこんな風になっちゃった! でも、もう無理だって言ってた! もう助からないって! みんなもう駄目だって言ってた!」
香奈の叫びをカジュは静かに聞き続ける。
「それに、こんな状態で生きてるって言えるの?! 言えるわけない! こんな姿になって、こんなに苦しんで、悲鳴をあげて、これで生きてるなんて言えない! ううん、こんなに苦しい状態で生きてなんていけない! それこそ」
「それを咲は望んだの?」
「――え?」
強い視線に、香奈は言葉を飲み込む。
先程まで穏やかな笑みを浮かべていたカジュが、無表情で香奈を見ていた。
「咲が、死なせてって言ったの?」
「それは……でも、こんなに苦しんで」
「本当にみんな駄目だっていったの? 死んだ方がマシって。一人も違うと言わなかった?」
ゆっくりとした口調だが、嘘偽りを赦さない凜とした声に香奈は言葉を詰まらせた。
みんな……みんな、そう――。
言わなかったよね?
「っ?!」
香奈の中に響いた声が告げる。
「ねぇ、香奈ちゃん? 本当に全員が言った? 誰か一人でも言わなかった? どんな姿になっても咲さんは自分の妻だと、生きてるんだって」
「あ……あ……」
「思い出して。言った筈だよ――ねぇ?玲珠さん」
カジュの言葉に、玲珠が肉塊と香奈の前を分かつように立つ。
その視線の強さは、カジュよりも強い。
「香奈……」
「れい、しゅ、さん」
「咲は……確かに苦しんでいる」
眼差しとは裏腹に、それはとても静かな声だった。
「けれど、それでも咲は生きている。生きて、いるんだ。死んでない、まだ生きてて、呼吸して、心臓も脈打って……死なないで、いて、くれる」
「そんなに苦しい状態で、イキナガラエサセルノ?」
そんなの、我が儘だ。
身勝手で、自分勝手だ。
「それは、香奈も同じだよ」
「っ?!」
「だって、咲さんが望んだわけでもないのに、勝手に苦しいから死なせてあげるっていうのはそういう事でしょう?」
「ち、ちがっ」
「もちろん、本当は死なせてほしいのかもしれない。その上で生きて欲しいと願う私達の方が我が儘、自己満足なのかもしれない。でも、私はたとえ何と言われても、咲の言葉を聞くまでは死なせない」
その眼差しに、『香奈』は飲み込まれる。
あらゆる批難も蹴散らす様は、荒野に咲き誇る一輪の薔薇を思わせる。
「聞くまで……って、言える状態じゃ、ない」
「そう。だから、言える状態にするの」
「それは」
「もちろん、咲を助けるのよ」
「そんな事、出来るわけない」
出来る方法があるなら『香奈』だって――。
「まだ全ての方法を試したわけじゃないでしょ?」
「え?」
「昔のあなたはそんな事は言わなかったよ。むしろ、私に教えてくれたわ」
その言葉に、悠久の彼方に眠る記憶の蓋がカタリと音を立てる。
カタリ、カタリ。
少しだけずれた、蓋の奥に――。
『果無、駄目です』
『死安……』
手を掴まれているのは、カジュ。
それは、まるで今の自分達のようで――。
『無闇にその力を使っては駄目です。だって、私達の力は』
「私達の力は一度振るえば二度と取り返しが付かない『最後の力』」
「あ――」
「だから、私達の力は軽々しく振るっては駄目。ううん、どんな力もそれを使うのは『最後の手段』として。それが、特別な力を与えられた者の役目」
特別な――。
違う、こんな力、特別ジャナイ。
私は、コンナチカラなんて欲しくなかった!!
「それでも、それを持って産まれてしまった者が背負うしかないの。それを教えてくれたのも、あなたよ」
香奈を見ながらカジュが別の誰かに語りかける。
「デモ、ワタシにはコレシカない。このチカラしか、ナイ」
この力でしか、咲を助けられない。
「いいえ、あなたにはそれ以外にも力があるわ。だから、椿という子も助けようと頑張ってるんでしょう?」
「っ!」
「恐い、苦しい、辛い――そう言うあの子の苦しみを取り除く為にあなたは力を振るう事も出来た。でも、それをしなかったのは、そうしたくないと願ったから。それ以外の方法で、椿を助けたいと願ったから」
「わ…たし」
「それと同じだよ、香奈。ううん、あなただって最初から咲さんを死なせてあげようと思ったわけじゃないものね」
その言葉に、香奈の瞳から新たな涙が零れる。
「デモ、アノヒトタチはアリガトウって」
思い出されるのは、『香奈』が本当の意味で『死なせてあげた』親子の姿。
ありがとうと言いながら、あの世に旅立っていった。
そこに待ち受けるのは凄まじい苦しみだと分かっていても、死んだ方がマシな状態で留まらせられ続けた二人を解放したのは、紛れもなく――。
「そうね、その人達にとってはそれこそが救いだった。でも、全員が全員そうだとは限らない。たとえどれほど苦しくても、辛くても、生を願うものがいる。その人の可能性を摘み取らないで」
「……咲、さん」
その時、微かに聞こえてきた声に香奈は目を見張る。
――デ
――イデ……シュ
――ナカナイデ、レイシュ
肉塊から聞こえてくる、声。
それは変わってしまったが、確かに咲のものだ。
――……ルカラ
――ワタシハ、イキルカラ
――ジャナイト、カナチャンもナイチャウ……
「さ、き、さ……」
そんなに、そんな姿になっても……
「生きたい、んだね」
苦しんでも、痛みに喘いでも、姿が変わってしまっても、咲は、生きる事を望む。
「それが、咲さんの願いなんだね……ありがとう、香奈。あなたが聞き届けてくれた」
そう言うと、カジュが懐から何かを取り出す。
それを見た香奈がギョッと目を見開いた。
「そ、それ、は」
「咲さんに伝えて。『生きたい、この苦しみを終わらせたい、この呪いを終わらせたい』って」
「え、あ」
「果竪さ、王妃様、それはっ!」
「咲の意識が目覚めているなら出来る。私でも何とかなる。だって私は眷属神だから」
この、不完全な神具でも――。
「シング?」
その時だった。
カジュが両手で握りしめた短刀を振り上げる。
「え、あ、ま――」
「我が名は果竪。この世の『果て』を司っていた者であり、『終わり』の眷属神。我が名に応え、悪しき呪いに終わりを――っ」
トス――。
そんなあっけない音と共に、肉塊に食い込む銀の刃に香奈は両手で口を覆った。
だが、次の瞬間起きた光景に悲鳴にも似た驚きの声が漏れ出たのだった。