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冥姫  作者: 大雪
第一章 忘却の罪
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第五十七話 苦しみの生

 静かに開いた襖の奥。

 そこにあるのは、巨大な肉塊。


「ヤット、コレタヨ」


 人形の様に無表情だった香奈の顔に笑みが浮かぶ。

 けれど、香奈を良く知る者が見ればすぐにその違和感に気づいただろう。


 瞳に宿る深遠の光は、長くを生きた者だけが持ち得るもの。

 到底中学に上がったばかりの少女が得られる光ではない。


 ほぅ……と小さく息を吐き、一歩足を進める。

 パリンと小さく音が鳴った。


 ああ、――だのだ


 『香奈』は笑う。

 自分の存在は全てを――する。


 眼差しも、吐息も、いや――。

 そこに、存在するだけで、それをもたらす。


 また一歩肉塊に近づく。

 視界の隅に、映り込んだそれに足を止めた。


「……」


 肉塊となった女性の夫。

 天上の神であり、全てを焼き尽くす炎を司る神の一神。

 不浄なるものを焼き捨て、清浄を保つ。


 そんな彼は、今、壮絶なまでに麗しい美貌に深い疲れを刻み、眠っている。

 天上では違っても、この人間界では神の力は大幅に制限される。

 良くて、高位の能力者を上回る程度。


 けれど、それでは到底勝てない――。


 だから、負けた。

 そう、負けてしまった。


 『香奈』は肉の塊となった咲に手を触れる。

 確かに脈打つ鼓動はまだ生きている事を表す。

 けれど、果たしてこれが生きていると言えるだろうか。


 愛する女性のこんな醜い姿を見てこの神はどう思っただろう。

 その濃い疲労は、実は絶望の色ではないだろうか。

 こんなものは愛する存在ではない。

 今も昏々と眠る女神と見紛う麗しき男神に『香奈』は哀しげに微笑む。


 そして、ゆっくりと肉塊を見つめた。


 こんな姿になって。

 こんなに苦しんで。


 鼓動と共に聞こえてくる悲鳴。

 耐えがたい苦痛に魂を蝕まれる咲の声が聞こえてくる。


 苦しいの?

 辛いの?


 『穢呪』となったらもう助からない。


 残されたるのは死。

 それでも、すぐには殺せない。

 呪いをまき散らす為に動き続け、それを阻む者を蹴散らしながらあらゆるものを穢していく。


 邪魔するものには容赦しない。

 だから、それを阻もうとする者達も手加減出来ず――。


 咲は死ぬ。

 でも、死ぬ前に沢山沢山苦しむ。

 すぐには死ねない。

 だから、ほら?

 今も、こんなに苦痛を味わっているのに死ねない。

 こんな姿になっても、死ねない。


 苦しいのに、辛いのに、恐いのに、嫌なのに。


 生かされ続ける。

 あの、親子のように。


 だから、だから、だから――。


「ワタシガ、コロシテアゲル」


 こんな状態で生き続けるぐらいなら。


 シンダホウガマシ


 『香奈』の手が、ゆっくりと肉塊へと触れる。

 芋虫の様なそれ。

 けれど、それでもよくよくみれば、丁度首の辺りが細くなっている。

 いや、そこは首。

 その部分を手で包み込む。


 ああ、これで終わる。

 手に、力を込める。

 ポキンと首の骨を折るように、生命の流れを止めるのだ。


「――っ」


 足首に痛みを感じて、『香奈』は視線を地面に向けた。


「や……め…ろ」


 麗しき氷貴神が『香奈』の足首を掴みながら見上げてきた。


「アア、オキテシマッタンデスネ」


 眠らせてあげたのに。

 眠っている間に、全てを終わらせてあげたのに。


 愛する女性の醜い姿を見ないように。

 愛する女性の苦しむ姿を、これ以上見ないで済むように。

 次に起きる時は、愛する女性の安らかな顔。

 苦しむ生が終わり、全ての苦痛から解放された、後の。


「やめ……て…くれ」


 玲珠と言う名の神が懇願する。

 懇願?おかしい。

 『香奈』に向けられるべきは憎悪と殺意であって、こんなのはあり得ない。

 けれど、玲珠は苦しげに顔を歪めながら言葉を続ける。


「殺さ…ないで…くれ」

「ドウシテ?」


 苦しいだけしかないのに。

 生きていても、辛い事しかない。

 元に戻れるわけでもない。

 後は死ぬしか残っていない。

 『穢呪』として殺されるぐらいなら。


 しかし、『香奈』の思いを打ち払うように玲珠がその肉塊に縋り付いた。


「ドイテ、クダサイ」

「いや、だ」

「どうして」

「俺から、奪わないで、くれっ」


 玲珠の言葉に、『香奈』は肉塊を見る。


「コンナスガタナノニ」

「それ、でもっ」

「モウ、コンナノあなたのオクサンジャナイ」

「俺の妻だ」


『香奈』の言葉を玲珠は否定する。


「ツマ?」

「そう、だ。たとえ、どんな姿になろうとも、これは咲だ、俺の妻だ! 俺にとってかけがえのないただ一人の最愛の妻なんだ!」


 血を吐くような叫びを、『香奈』は静かに聞く。


「殺さないでくれ、まだ咲は生きてる。生きてるんだ」


 そんな事、分かっている。

 生きている。

 でも、玲珠は分かっていない。

 生きていたとしても、その生が、本当は――。


 ギャアアァァァァァアっ!


 肉塊が暴れ出す。

 玲珠の体が弾き飛ばされ、壁に叩き付けられた。


 それは悲鳴。

 苦痛にあえぐ咲の絶叫。


 ああ、苦しいのね、辛いのね。

 もう、我慢出来ないぐらいに。

 もう、――ぐらいに。


 そう――


「シンダホウガ、マシナグライニ」


 ならば、『香奈』に出来るのは――。

 香奈に、出来るのは……。


 香奈の右手に光が灯る。

 それは、黒い光。

 けれど禍々しさとは裏腹の、静かで深淵の闇を思わせるもの。


 その手を、香奈は肉塊へと近づけていく。

 遠くで玲珠が何かを叫んでいる。


 けれど、香奈は手を止めない。

 止めずに、肉塊だけを見つめる。


「これで、楽になれる」


 死の鎌が苦痛にあえぐ一人の女性に振り下ろされていく――


「やめて」


 肉塊に触れようとしていた手が、掴まれる。

 薄暗い中でも分かる、生気に満ちあふれた、手。

 それが、死を宿した香奈の手をなんなく掴む。


 誰?


 問いかけるように顔を上げた香奈の目に、映り込むのは――。


「か、じゅ、さま」


 玲珠が、香奈の手を掴んでいる少女の名を呼ぶ。

 その声に、暗青色の髪と勿忘草色の瞳の少女がふわりと微笑んだ。


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